忠犬は首輪をつけない。


 周りの人達は、私を見てまるで犬みたいだと口を揃えて言う。確かに、自分でもその通りだと思う。

「なーなーみーさぁーん!」

 事務室を後にして共同スペースに顔を覗かせれば、探していたお目当ての人物があり思わずにやけてしまう。その顔を隠す事なく両手を振りながら大きく彼の名前を呼ぶと、手元の新聞に落としていた瞳がゆっくり瞬きして明るい色味の睫毛で隠される。その一瞬ですら、まるでスローモーションに感じるくらい全てが様になっていてかっこいい。ついつい惚けていると、七海さんが此方を見てくれた。それだけで私の心は高鳴って、きっと犬だったらブンブンと尻尾を振り回しているだろう。

「七海さん、こんにちは!」
「はい、こんにちは。」

 言葉に詰まらないように元気に挨拶すれば七海さんは短く言葉を返してくれる。私が机を挟んで向かい側のソファーに腰掛けると、七海さんは再び視線を手元に戻してしまった。その新聞は日本のものではなくとても難しそうな横文字が綴られていて、英語が苦手な私は一行だってわからなかった。自分の膝に肘をついて、七海さんをじっと見つめてみるけど本人は微動だにしない。

「今日もカッコいいですね!大好きです!」
「それはどうも。」

 私の視線も、言葉も、そして七海さんの返事も日常茶飯事で何事もなくそれは溶け込んでいく。いつからだろう、七海さんを好きになったのは。いつからだろう、胸を焦がす想いに耐えられなくてそれを伝えたのは。言えば少しは心が軽くなるのかな、って思ったけれど、そんなの見当違いで一度出た言葉は勝手に溢れ出すばかりだった。

「英文読めちゃう七海さんも素敵ですね」
「そうですか」
「あ、勿論普段も好きです!いつも術式にも惚れ惚れします!」
「へぇ」
「また一緒に任務にご一緒したいなぁ、七海さん琢真とばっかりなんですもん!」

 綺麗に受け流されてきっと何一つ七海さんは聞いてないけれど、同じ空間にいて声が聞けるだけで私は満足だった。新聞を読む姿はそれだけでまるで海外映画のワンシーンみたいでドキドキする。
 私の同級生の猪野琢真は、七海さんと一緒に任務に行くたびに今日もカッコよかったとか、その後美味しい焼肉をご馳走になったとかマウント取って自慢してくる。私だって任務中の七海さんをもっと見たいしご飯にも行きたい。唇を尖らせていると、ふと七海さんが顔を上げる。サングラス越しに見据えられてドキドキしていると、長い手が伸びてきた。叩かせるのかと思って身構えていたが、長い指先は私の唇をむにりと摘んだ。

「そのワンワンとよく鳴く口は閉じられないんですか?」

 七海さんの人差し指と親指で、上と下の唇を閉じられているから何も言葉を発することができない。いや、多分閉じられてなくても今の状況に何も言葉は出なかったとは思う。七海さんに触れられるのはこれが初めてな気がする。触れられた唇から、頬や目までジクジクと熱が伝染してきて全身が熱い。ただただ七海さんを見つめていると、サングラスの内側で七海さんが静かに瞬きをしてゆっくりと唇から指先を離してくれた。

「え……もう一回言ってください…」

 ドクドクと波打つ心臓が苦しくて、服越しに胸を抑えながら掠れた声で呟くと七海さんは呆れたような顔をする。

「よく毎日飽きませんね」

 深く溜め息を吐き出しながら、七海さんは伸ばしていた手を引いて元の位置に戻ってしまったせいで折角近付いていた距離はまた開いてしまった。

「え、飽きませんよ?毎日毎日好きが更新されて困ってるくらいです!」
「そんな毎日好きな所見つけられないでしょう」
「えー?それ聞いちゃいます?私七海さんの好きなところなら三時間余裕で語れちゃいますよ」
「それなら結構です。」

 ピシャリと切り捨てられて、意気込んでいた私の出端は挫かれてしまった。七海さんは集中力が途切れてしまったのか、新聞を小さく畳んで机の上に置いてまた息を吐く。そんな仕草さえ色っぽくて、そんな所も好きだった。

「七海さん、いつ付き合ってくれますか?」
「さぁ、いつでしょうね。」
「…私、七海さんなら都合のいい女でもいいです。」

 いつものやりとりの中に、ちょっと普段と違う言葉を入れてみた。少し身を乗り出して七海さんの顔を覗き込むと、薄い色味のサングラス越しに目が合う。

「女性がそんなこと言うもんじゃありません。」

 きっと、大人オブ大人で紳士な彼はこんな反応だとは分かっていた。変に期待を持たせないし、中途半端な関係だなんてありえない。わかってるけど、ほんのり期待したかったのも本音だ。少し眉を寄せてそう呟く表情は、恥じらいとか期待とかそんな感情は何もなくてちょっぴり怒ってるような気もする。

「そしたら、どうしたら彼女にしてくれますか?」

 私はこんなに些細なことにも全てが乱されているのに、七海さんの感情は何も揺れてないのが少し悔しくて、珍しくしつこく問い掛ければ特有のサングラスを外して机にゆっくりと置いた。

「私は、呪術師として戻ってきた今、恋人を作ろうと思っていません。」
「何でですか?」

 ハッキリと、直接私の目を見てくれて言ってくれる七海さんは本当に優しい人だと思う。どうでもいい奴ならこんなにちゃんと向き合わないで煩いとか言ってあしらって仕舞えばいいのに。膝の上できつく結んだ手は、私が力んでいるせいかそれとも七海さんの言葉のせいか指先が冷たかった。それでもなかなか食い下がらない私に、七海さんは細く息を吐き出す。

「貴女はまだ若い。世界もまだまだ広いです。こんな所で不毛な恋をするよりも、もっと幸せにしてくれる人はきっといます。」

 まるで泣いてる子供を諭すように、七海さんはゆっくり丁寧に言葉を紡ぐ。遠回しに諦めろと言われてるのは、もう子供ではない自分が一番よくわかってる。

「七海さん、答えになってないです」

 でも駄々っ子のように納得できない私は、机に両手を置いて身を乗り出すように中腰気味に七海さんを真っ直ぐ見つめる。鼻奥がツンっとするけど、これ以上面倒な女にはなりたくないから感情のまま涙が込み上げないように瞬きの回数を減らした。
 サングラスをしていない瞳は困惑したように揺れている。きっと私が傷つかない言葉を探しているんだろう。彼の優しさはとても好きだけど、こんな時は嫌いだ。

「七海さぁーん、そろそろ時間ですよー…って、お前またいるのかよ」

 どちらからも次の言葉が出ないまま、第三者の声が響いて扉の方を振り返ると全身真っ黒の彼が立っていた。

「あ、琢真。お疲れ〜」
「お疲れ。それよりお前、七海さんが優しいからってあんまり迷惑かけるの辞めろよなー」
「はいはい、わかりましたよっと」

 呆れたようにぼやく琢真に軽く相槌を打ちながら重心をかけていた手に力を入れてそのまま体を起こした。私だけ立ち上がると、普段背の高い七海さんを見下ろす形になって何だか新鮮だった。いつもなら沢山目に焼き付けたくて名残惜しいけれど、今日は横目に捉えて少し早歩き気味に琢真のいる入り口へ足を進める。

「それじゃ!七海さん頑張ってください!琢真も!お疲れ様でした〜!」

 最後まで七海さんの顔はちゃんと見ないまま、琢真の肩を叩いてヒラリと手を振って共同スペースを出た。私の少しの変化なんて、二人とも気付きはしないと思う。
 部屋を後にしてからは、ただのろのろと目的もなく廊下を歩いた。先程の任務で今日は終わりで直帰コースだったけど、もし七海さんがいればだなんて淡い期待を込めて此処に戻ってきたからこの後何も予定はないのだ。ふと、2階の窓から外に補助監督さんの車に向かって行く二人の背中が見えた。本能的に忠犬のようにどこにいても彼の場所がわかるようで、自分で笑ってしまった。

「あー…好きだなぁ…」

 きっと人生でこんなに人を好きになるのは最初で最後だろう。こんな恋愛出来たから、もういつ死んでもいいとさえ思えるくらいだ。もし、七海さんが私の視線に乗せた想いに気付いて振り帰ってくれたら、なんて念じてみたけど、想いは虚しくそのまま二人を乗せた車は走り去っていってしまった。
 今まで健気に彼が振り向いてくれたならと待っていたけど、これ以上は頑張れないのかもしれない。勝手に決めたその駆け引きを最後にして、私は今日から七海さんを好きでいるのを辞めることにした。



 どうにもおかしい。
 苛立ちを表すように腕を組んだまま肘を指先でコツコツと一定のリズムを刻んで、原因である彼女の姿を脳裏に思い浮かべた。毎日毎日飽きることなく私に駆け寄って好きだと笑っていた彼女が、かれこれ一ヶ月以上姿を見せない。いや、時々事務室や廊下などで見かけはする。しかし目があっても笑ってただ会釈してくるだけだったり、声をかけても「あ、七海さんこんにちは!」と普通の反応しかしてこないのだ。

「あ、あの…七海さん…何かありましたか…?」

 運転席の伊地知くんが不安そうにバックミラー越しに私の顔色を伺ってくる。彼が気付くほど、私は態度に出ているのかと嫌気がさして溜め息を吐く。それに対して伊地知くんはヒィッと短い悲鳴を漏らしたので、申し訳なくなり誤魔化すために咳払いを一つ漏らした。

「いえ、別に。」

 しかしついついまた深く息を吐き出し、後部座席の背もたれに体を預け目を閉じる。そういえば事務室で伊地知くんと楽しそうに笑っているのも見かけた事がある。その光景を思い返しただけで胸の奥がモヤっとして小さく舌打ちが溢れてしまった。
 他の人と恋愛しろ、と遠回しに諭したのは誰でもなく自分だ。好意を伝えられるのは、悪い気はしなかった。しかし人懐っこい彼女は、きっと大切にして愛してくれる人間が他にいくらでもいるはずだ。そう思ってわざと素っ気なくして、彼女を突き放した。それなのに、今まで当たり前にあった日常がなくなるとどうにも調子が狂う。

「そ、そういえば、最近あの子の元気な姿見ませんね」

 どうにか話題を変えようとしたのか、伊地知くんから出た言葉はまさに今自分の中で悶々としていた話題で、墓穴を掘っている。しかし彼に当たり散らすのはお門違いなので、一度細く息を吐いて目を開けると少し身を乗り出して運転席の彼を覗き込んだ。

「彼女は、どこか悪いんですか?」
「えっ?いや、そんな事はないとは思いますが…先日もご一緒しましたが、任務もスムーズでしたし…」
「…そうですか。」

 せめて体調が悪いと言われれば、この変化にも納得したかもしれない。期待は裏切られてオドオドと言葉を返す伊地知くんに短く返事をするとその会話は終了してしまい、結局お互いに高専に到着するまで口を開かなかった。
 事務室に行くとき、共有スペースに向かうとき、廊下を歩いてるときいつでも無意識に小さくて動き回る彼女の姿を探してしまう。もうここ一ヶ月の癖になってきていて、それに自分で気付く度に何ともいえない気持ちになる。
 事務室に報告書を提出し、特に予定もないが彼女と最後に話した場所へと足が向かう。目的地に近づいてくるとコロコロと楽しそうに笑う声がして、すぐにそれが彼女のものだと気付く自分はもう末期なのかもしれない。

「ねぇねぇ、琢真ぁ」
「ん、なんだよそんな甘えた声だして。唐揚げはやらねぇからな」

 無意識に身を隠しながら部屋を覗くと、あの日の自分たちのように猪野くんと彼女が向かい合って座っていた。彼女は猪野くんの方を向いていて後頭部しか見えないので表情はわからないが、きっと声色的にニコニコと笑っているのが簡単に想像できる。古き学友だから仲慎ましいのはわかってはいるが、自分が最近心からの笑顔を向けられることがないせいで自分勝手だがそれだけで苛立ってしまう。

「違うよ、あのさ、合コンとかセッティングしてくれない?」

 もぐもぐと弁当を咀嚼していた猪野くんの口も止まり、私も一瞬時が止まったかのように動けなくなった。は?と自分にしか聞こえない位の小さな声が思わず漏れる。

「ハァ?いやいや、いきなりなんで?」
「だって琢真友達多そうじゃん。えっとね、優しい真面目な人で、私のことお姫様みたいに大切にしてくれて目一杯愛してくれる人がいいな!あとそんなに歳の差ない方がいい!」
「いや、高望みすぎだろ。…あのなぁ、本当いきなりなんだよ。いつもの七海さんはどうした?」

 呆れたような表情の彼をよそに彼女は身振り手振りに必死に熱弁している。その該当者が自分と全く真逆すぎて、一気にヒヤリと背筋が冷えていくのがわかる。己の名前が出てきた猪野くんの問いかけに、彼女は考える素振りを見せてから箸を弁当容器の上に置いた。

「んー…七海さんは、もういいかなぁ」

 まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。いつものように嬉しそうな熱っぽい声とは違って、淡々と吐き出された言葉は感情は何も乗っていない。色々脳内を駆け回る思考がまとまらないまま、衝動的に動き出して開けっ放しの扉をくぐった。

「この間も街コン行ったけど微妙で、さ、ぁ!?」

 最初に猪野くんと目が合い、まるでタチの丸い呪霊を見たように目がギョッと見開かれる。背を向けて何も知らない彼女の暢気な言葉の最中に、後ろから手を伸ばすと首を掬うように小さな顎を掴んで無理矢理上を向かせた。

「は、え、な、なみさん…?」

 普段も大きい瞳をこれでもかという程に丸くして、此方を見上げてきて彼女と久々に目があった。掴まれて身動き取れない彼女の黒目の中に私の姿が反射して映っているだけで、今まで穴が空いたようだった気持ちが少し満たされるのがわかる。街コンなど問題発言が聞こえたが、今はまぁいい。

「私のことが好きなんじゃないんですか?」
「へっ?」

 自分でも驚くほどその声色は怒りを孕んでいて、当の本人はポカンと口を開けたまま固まっている。自分ばかり掻き回されてるのが気に食わなくて、顎を掴んでいる手で頬を挟んでみせると思ったよりも柔らかくて指がふにりと埋まっていった。

「最近何故私のところに来ない?」
「えっと、なんというか…はははー…」

 思わず崩れた口調にやっと怒りレベルを感じ取ったのか、瞳を左右に泳がれながらひくついた口元でどうにか苦笑いしながら彼女は私の手を剥がそうと手を重ねてくる。小さな手を握り返してしまいたいところだが、どうにか耐えて逃げないように更に手の力を強めて自分に引き寄せる。後ろを向かされている首は辛そうで喉がうぐっと鳴る音が微かに聞こえた。思わず眉を顰めている彼女の方へ自分も身を屈めて、二人の距離が尚更近くなった。

「誤魔化さないで答えろ。」
「わ、わん…」

 余計に小さく感じる体を見下ろして言い放てば、包み込んだ頬が赤く色付き触れてる場所から体温が上がってくるのを感じる。瞳も前のような熱がこもってきて、ゆるりと薄い膜の中で揺れた。震える唇で鳴く彼女に、ぞわりと何かが込み上げる。

「七海さんが、迷惑だと思いまして…」
「今更でしょう?そんな事。もう慣れてます」
「不毛な恋をするなと、フラレましたし、」
「嫌いだとは一度も言ってません。」
「あと、えっと…恋人はいらないって…」

 触れている手のひらから彼女が喋るたびに喉が動く振動を感じとれる。ドクドクを早い脈も伝わって、彼女が生きている事とこの手に命が委ねられているのを実感する。投げかけられる言葉に矢継ぎに答えていくと彼女の瞳に困惑の色が見え隠れし始めて、最後はポツポツと気まずそうに語尾が消えるように呟かれた。あぁ、先月の自分をこんなに恨めしく思った事がない。

「そしたら、付き合いましょうか。」
「へっ!?」
「えぇえ!?」

 あんな態度をしておきながら、彼女がずっと求めていたであろう言葉を今更平然と返した私の言葉に驚きの声が返ってくる。すると彼女より大きな声で反応した猪野くんがソファーから勢いよく立ち上がって、その反動で机に膝を盛大にぶつけて低く悶えながら苦しみ始めた。そういえば彼の存在をすっかり忘れていた。

「いや、あの、その、えーっと…」

 手元に意識を戻せば、まるで茹で蛸のように真っ赤になった彼女が両手を行き場なく彷徨わせてしどろもどろしている。可愛らしい反応に、やっとこの一ヶ月胸に引っかかっていた感情に名前がついた。

「貴女が好きなのは私でしょう?」
「は、はひ…」

 頬をもう一度両脇から挟むと、柔らかそうな唇がぶにっと真ん中に寄るので本当にタコのようだった。思わず笑ってしまうと、気を抜くとうっかりこぼれ落ちてしまいそうな目をまんまるく見開いて驚かれた。気を取り直して改めて問い掛けると、コクコクと何度も頷いて返事をする姿はもう先月までの彼女に戻っていた。

「そしたら問題はないですね?」

 今までは伸び伸びと放し飼いしすぎていたのかもしれない。もう二度と逃げ出さないように、彼女を縛りつける為の言葉を吐いて自分の手の中に収めたい。ソファーに空いた左手を付き背を曲げて、前髪から覗く額に触れる程度に口付けると初々しい反応ではなく断末魔のような二人の悲鳴が部屋に響いた。


 あれから、七海さんと、まさかのお付き合いさせていただいた訳だけども、私は大変困っている。最初は夢じゃないかと信じられなくて、何度も確認してついに七海さんを怒らせたのが懐かしい。

「あの、七海さん…」

 カチコチに固まっている私を気にすることなく、名前を呼ばれた本人は構わず後ろから私の肩口に顔を埋めている。なんならさっきからスリスリとマーキングする猫のように擦り寄ってくるので、息も髪も擽ったくて心臓が何個あっても足りない。

「なんですか?」
「ちょっと、心臓がもたないので少し距離を取りたいのですが…」
「駄目です。貴女、すぐ逃げるでしょう。」

 顔を上げないまま七海さんは私のお腹の前で組んでいる手の力をさらに強めて抱きついてきて、流石に一級呪術師の力にぐえって蛙が潰れたみたいな声を出してしまった。

「逃げる為に言ってるんですー…」

 諦めて溜め息を吐き出して、どうにか煩い心臓を鎮めようと努力するところに集中する事にした。今日は、七海さんのお家で俗に言う映画デートってやつをしている。でも包み込まれるように抱きつかれるともう映画なんてなんにも内容は入ってこない。主人公とヒロインが手を繋いで逃げているシーンをぼんやりと見て、腹部にある大きな手を見下ろしてみた。
 七海さんとお付き合いが開始してから、今までと全てが真逆にひっくり返った。七海さんは私を見つけるとさり気なく近付いてきてくれるし、話している時もちゃんと私の目を見て話して時々微笑んでくれる。そしてデートにもたくさん誘ってくれて、それもまた凄い。ディナーの時は絶対車で迎えにきてくれるし、いつも素敵な美味しいお店を予約してくれる。不意になんでもない時にお花や私が好きそうな物をプレゼントしてくれて、理由を聞けば「これを見て貴女の顔が浮かんだので」だって。どういうこと?もしかして七海さんって王子様なのか?

「…七海さんって、こんなタイプとは思いませんでした」

 どうにか脈が平均程に戻ってきてくれて、ポツリと呟きながら腹部の大きな手の甲を撫でてみた。するとピクリと七海さんの体が揺れる振動が背中から伝わってくる。

「…嫌いになりましたか?」
「いや、そんな事は天地がひっくり返ってもありませんけど」

 即答で両手を振って真顔で答えると、後ろからの重さが少し増した気がした。どうにか腹筋を使って耐えている間に、組んでいた手が解かれて代わりに私の手を掬い指を絡めて繋がれる。俗に言う、恋人繋ぎってやつ。

「…歳の差は縮める事は出来ないので、それ以外で埋めていこうかと」

 まるで独り言のような言葉に、少しだけ身を捩って振り返れば思ったより近い位置にある七海さんと目がバチリと合った。どう言う意味かわからなくて、近い距離にドキドキしながら首を傾げると眉間の皺が浅く刻まれる。

「優しい真面目な人で、お姫様みたいに大切にしてくれて目一杯愛してくれる人、ですよね?」

まるで繰り返すようなその言葉たちは聞き覚えがあって、じんわりと顔に熱が集まってきた。

「そ、それは…例えと言うかなんというか…」

七海さんが言ったのは、前に私が琢真に伝えた理想の男性の条件だ。なるほど、それを意識して七海さんはお付き合いしてから私にあんな風に接してくれてたという訳か。だからあんな王子様だったんだと気付いたら、幸福感が胸に広がってもはや苦しいくらいだ。
 悶えているとそのまま手を引かれて、向かい直るように促される。今顔を見られたくなくて首を振って拒否したけれど、結局は彼の力には敵わなくて七海さんの長い足を跨ぐような形で正面から抱き寄せられてしまった。

「私はクリア出来ていますか?」

 いつも背の高い七海さんを、私が膝立ちしている体制なので見下ろす形になっている。少し不安そうにこちらを見上げている七海さんは、あざといのにカッコよくて、とてもズルい。

「…それどころか、全てそれ以上すぎて死んじゃいそうです…歳の差も、七海さんを思い出さない為に出した条件だし…」

 自分で言っておいて恥ずかしくてモゴモゴと聞こえるか聞こえないかくらいの声でボヤいたけれど、こんなに近い距離の七海さんは簡単に声を拾って満足そうに目を細めてる。くそぅ、そんな顔もカッコよくてツラい。七海さんが私の腰に手を回してぐっと引き寄せると二人の距離はもう間に人一人も入らない位近くなってしまった。

「それなら、好きと言ってください。」

 真っ直ぐと見つめてくる七海さんに息も言葉も詰まる。一度は時間をかけて忘れようと蓋をした感情は、彼に無理やり蓋をこじ開けられてもう留めてくれるものはなくなってしまった。

「好き、です。」

 今まで沢山言っていたのに、付き合ってからどうしても恥ずかしくて言えなかった。言葉を出してみると意外としっくりと胸に落ちてきて、簡単に溢れてくる。七海さんは今まで見たことないような穏やかな表情で、空いた手を私の頬に伸ばして優しく触れてくれる。七海さんの手が冷たいと思えるほど私の頬はとても熱かった。

「私もです。」

 指の腹で頬を撫でながら、七海さんが囁いてくれる。私が片思いの時に拗らせて時々見ていた夢よりも、それは優しくて胃もたれしそうなくらい甘くて、そしてドキドキした。

「ほ、本当ですか?どれくらい?」

 どうにもまだ信じられなくて疑いの眼差しを送れば、心外だと言わんばかりに七海さんは眉の皺を深める。でも、彼はそう思わせる程の態度ばかりだったので仕方ないと思う。心の中で責め立てていると、腰に回った手がゆるりと腰からお尻にかけて滑るように撫でるので思わず体がビクリと震えた。

「抱き潰したい、と思うほど貴女が好きですよ」

 ゆっくりと七海さんの顔が近付いてきて、耳元でそう囁くから私の頭はショート寸前だ。低い声が腰に響いて、崩れ落ちないように踏ん張って目の前の青いシャツをギュッと握りしめる。間近にある七海さんの瞳はジリジリと熱を孕んでいて、その意味がわからないほど私も子供ではなかった。もう一度撫でる手のひらの熱を感じて、私の体の奥がキュンッと疼くのを感じる。

「ひょぇ…」
「そちらの許可はいつくださるんですか?」

 もう体はピッタリとくっついて後ろにも左右にも逃げ道がない。まさに外堀から埋めてくる七海さんに絆されてそのまま流されてしまいそうになるが、どうにか踏ん張っていた理性で首を振り彼の肩に両手をついて頑張って体を離す為に力を込めた。

「わっ私は!とても待ちましたので!七海さんももう少し待てしてください!!」

 震える声で、でもハッキリとそう伝えると、七海さんは一瞬目を見開いてからすぐに眉間の皺を寄せる。それから溜め息をフゥーっと長く吐き出したと思ったら、強い力で腰を引かれて私が一生懸命開いた体の隙間は一瞬で詰められてしまった。ちょうど位置的に目の前にある私の胸の間に七海さんは顔を埋めて深く息を吸うので、ゾワゾワと擽ったさが込み上げる。

「………わん」

 七海さんは、谷間に沈んだまま此方を恨めしそうに睨んだまま低く鳴く。これでは忠犬のように見せかけた狂犬だ。そんな七海さんを手懐ける為のリードなんてちゃんと持てる気がしなくて、いつかあっという間に逆に飼い慣らされているんだろう。そんな目に見える未来の自分に同情するしかない。私たちを他所に見ていなかった映画は最後のクライマックスを終え、エンドロールの音楽だけが部屋に静かに響いた。

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