傷口に接吻を
七海と付き合い始めて、あ、気をつけなきゃいけないなと悟った事が一つだけある。
七海と付き合い始めて、勿論触れ合う機会は数え切れないくらいある。その時はそこに意識が向いてなかったし、何より当たり前過ぎて忘れちゃったの方が正しいかもしれない。
その日は気が滅入るほど暑くて、帰って速攻シャワーを浴びてから下着姿のまま脱衣所を出た。
「……こら、風邪ひきますよ。」
「わ!…なんだ、七海帰ってきてたのかぁ。ごめんごめん。」
冷凍庫のアイスを求めてリビングに向かうと、ソファーにはジャケットを脱いだ七海が座っていた。手元の本から顔を上げると、驚いたように少しだけ目を開けてからすぐに呆れたように眉を顰める。まさか彼が帰ってきてると思っていなかったから、思わず飛び跳ねてしまって大きな声が出た。普段見せないようにしてる無防備な姿がついにバレてしまって苦笑いしながら軽く手を上げて謝っておいた。折角此処まで来たからアイスを入手してしまおうと冷凍庫を開けると、足元に少しだけひんやりとした風が漏れてくる。バニラアイスもあるし、この間SNSでやってたコンビニの新商品の棒アイスもあるから悩ましい。
「っわ、」
体を屈めて冷凍庫を覗き込んでいると、背中に何か触れる感覚がしてバッと体を起こした。私の背後にはいつの間にか近付いていた七海がいて、きっとまた小言を言われるんだろうと思ってその場しのぎの謝罪の為に口を開いた。でも、彼の顔を見たら言葉は出てこなかった。七海は、とても苦しそうな顔をして私を見ている。いや、私というよりも私の体だ。さっき七海が触れた指先の元には、昔怪我した切り傷の痕がある。でも別に、ケロイドほど大きな傷じゃない。家入さんに頼むのも忍びないな、って当時は思うくらいで、でも思ったより痕になっている傷跡。そういう傷が背中やお腹、腕や足に細かく沢山ある。別にこの仕事をしてればしょうがない事だと思っているし、最初こそ落ち込んだけど今は忘れてた位だった。その後は特にその傷の話をしたわけでもでもないし、謝ってパジャマ着ていつものように楽しくご飯も食べた。でもこの時の七海の顔を見て、これはダメなんだなって私の心の中にはジクジクと棘は確実に残った。
「あ、これ可愛い。」
ソファーに体を沈めながらSNSを適当にスワイプしている間に、思わず指先を止めてしまった。そこに水着をきた女の子が素敵な笑顔で映っていて、彼女が此方を振り返るとオフショルのようにフリルがついた水着が揺れる。下も控えめにフリルがついていて、水着だから当たり前に露出は多いけど、不思議とやらしく感じなかった。スワイプすると、ネイビーとブラックと他にもピンクなどの色のレパートリーも多いらしい。
「貴女も似合うと思いますよ。」
私があまりにも熱心に見ていたので、横に座る七海が私の手元を覗き込んでそう言う。だけど私の気持ちは上がる事はなくて、苦笑いだけ溢した。
「んー…でもいいかなぁー…」
「…私の記憶では、昔貴女はこういう雰囲気のものが好きでしたよね?」
「まぁ、嫌いじゃないけど…」
水着は可愛いとは思うけど、プールや海に行きたいってわけではない。それに、私の胸には日頃から顔を隠しながらもジクジク私を蝕んでくるものもある。顔を上げて七海を見ると、当たり前だけどこの間みたいな表情はしていなかった。
「だって、夏服ってどうしても肌でちゃうし…」
そう言葉を漏らしたが、七海の目は水着だから当たり前なのではと言いたげだった。今まで彼に真相を確認する事は、出来なかった。だって、そうだと肯定されたら、傷だらけの私は七海に振られちゃう気がしてたから。
「七海、私の傷跡見るのあんまり好きじゃないでしょ?」
震えそうな口を開いて言葉を紡ぐと、普段よりも声が小さくて自分のことなのに笑っちゃいそうだった。またあの七海の表情を見るのが怖くて、ギュッと目を瞑りながら問いかけてみたが数秒しても返事はない。恐る恐る片目だけ薄目で開けてみれば、七海は眉間を押さえて俯いていた。
「………すみません。弁論の前に、まず何故そう思っているのか聞いてもいいですか?」
七海がずっと無言で俯いているから、両目を開けてどうしようかと思っていると、やっとふぅー…と長めの溜息を吐き出してから七海が口を開く。言っていいものか、と躊躇ったが、今更もう遅いからしょうがない。
「だって、前に傷跡見てドン引きした顔してたから…やっぱり男の人は肌綺麗な子の方が好きだよなーって思って…」
「…まず、ドン引きした顔はしていません。…が、そう思わせてしまったならすみません。あと、貴女の肌以外には触れたいとは思わないのでそこは安心してください。」
自分で言って泣きたくなったけれど、その後七海から言われた言葉にすぐに涙は引っ込んだ。やっと眉間から手を離すと七海は真っ直ぐに私を見据えた。
「私は、一度呪術師の世界から逃げ出しました。灰原を亡くした事も、祓っても祓ってもキリのない呪霊も、もう嫌になって全てから逃げ出したかった。」
七海の深い海のような色の瞳の中に、小さな私が映っている。七海の手が私の指先から手の甲、腕へと上がっていく。
「結果として、貴女を一人にして置いていった。貴女の肌に触れたあの日、小さな体に刻まれている傷跡を見てその重さを実感しました。」
七海が呪術師の世界を離れて、寂しくなかったといえば嘘になる。灰原くんが死んじゃって、唯一の拠り所の七海くんも去ってしまった。任務を終えて怪我した時は、心細くて傷跡をおさえてベットで泣いた事も沢山ある。でも、それはあの頃の七海くんのせいでは絶対にない。自分で残るって決めたせいだ。
「もしあの時残っていれば、貴女を守ってこの傷が一つでも減っていたかもしれない。痛みを味わう事がなかったかもしれない。そう考えると幼稚な自分が腹ただしかった。」
彼の指先が私の肘部分に触れた。昔腕を複雑骨折して、家入さんに治してもらった時の傷。骨は綺麗にくっついて特に後遺症も残らなかったけど、傷跡は少し残った。皮膚が薄く突っ張ってるそこに七海の指先が触れる。今はもう痛くないのに、七海がまるで痛みを感じてるような顔をしていた。
「…それでもしかしたら険しい顔になっていたのかもしれません。誤解を招いてすみません。」
やっとそこで自分自身がそう言いながら無意識に眉間に皺が寄っているのに気付いたのか、小さく溜息を吐きながら七海は顔を上げた。
「そっかぁ……」
そっか、そう言う顔だったのか。気が抜けてソファーにもたれかかりながら言葉を漏らす。七海の言葉たちが、ジクジクと黒く冷たく広がっていた感情を溶かしていくような感覚がした。そいつらを吐き出すように息を吐くと、重い憑き物が落ちたように肩が軽くなった。
「あ、いや、ごめ……あれ…っ?」
それと同時に、涙が溢れた。泣いているんだと気付いた瞬間、ボロボロと次々と涙の粒が溢れる。視界の端にいる七海がギョッとするのが見えたけど、視界が涙で歪んですぐにその輪郭は曖昧になった。
「わた、私…ずっと七海から幻滅されたかと思って……仕方ない事だから、そんなに気にしてなかったけど、七海に嫌われちゃうのは嫌だな、って…ッ」
ずっと思ってたけど、言えなかった。あの日の表情の意味を聞いたら、別れを切り出されるんじゃないかと思った。それか七海は優しいから、本当の事を言わないかもしれない。そうだとしても、彼から触れられる時や見られる時に、幻滅されるのではと思って怖かった。嗚咽を漏らしながら自分の気持ちをぶち撒けると、肘に触れていた指先は強く私の腕を掴んで引き寄せた。
「嫌うわけない。ずっと、貴女が欲しかったんですから」
強く抱きしめられて、少し苦しい。七海の全てで包み込まれて、肌でも耳でも目でも五感全てから七海の存在を感じる。その温もりが愛おしくて、初めて彼の前でわんわんと子供のように大きな声で泣いた。
「…ごめんね、シャツ濡れちゃった…」
「これくらいどうって事ありません。」
暫くして涙が落ち着く頃には、私が顔を埋めていた七海のシャツは涙と鼻水で濃い青に一部色が変わっていた。申し訳なくて鼻を啜りながら謝るが、特に七海は気にする素振りはなかった。涙を適当に拭おうとすると、七海に制された。
「貴女が良ければ、今度の休みにショッピングでも行きませんか?久々に、いろんな服を着た貴女を見たいんです。」
代わりに七海の指先が、目元を擦らないように優しく涙を拭ってくれる。私を見下ろす七海は優しい目をしていて、この間の表情の奥底も同じ色だったんだなと今更気付いた。
「…ふふっ、沢山試着するけど付き合ってくれる?」
「勿論です。寧ろ、役得ですね。」
私が首を傾げて笑って見せれば、七海は口元を少し上げる。目尻を拭いていた指先はそのまま私の前髪に触れ、軽く横に払って分けると曝け出された額に七海が触れる程度のキスを落とした。
「貴女の全てを愛してます。」
真っ直ぐ見つめられてそう囁かれてしまえば、もう降参以外出来なさそうだ。夏服や水着を着れば傷痕が多少なり見えてしまうだろうけれど、もう私は怖くないし、今まで以上に気にならなくなってしまいそうだ。なので返事の代わりに、少し背伸びして七海の薄い唇にキスをした。
- 3 -
←→
TOP