恋の駆け引きをする話




もう日が暮れてきたのに蝉はミンミンと休む事なく鳴いている。仕事熱心だなぁ、なんて考えながら風が通らないせいで少し湿っぽい薄暗い廊下の先にある自動販売機にのろのろと重たい足取りで向かっていくと、その求めていた先に真っ黒な洋服に身を包んだ見知った姿があった。
「あ、猪野くん。」
私の声かけにくるりと体を回転させて此方を見つめてくる彼は、後輩の猪野琢真くんだった。少し垂れ目気味の瞳は私を写すとくるりと一回り大きくなって、歯を見せながらニカッと効果音がつきそうなくらい口角を上げて笑う。その表情が非常に爽やかで若々しく、そして何だかワンちゃんを連想させる。
「お疲れ様っす!」
「ふふっ、お疲れ様。」
遅かった歩調はいつの間にかいつも通りになって、あっという間に猪野くんの隣に到着してしまった。元気な彼の様子に疲れなんて吹き飛んだ気がして、つられて笑うとまた猪野くんが頬を緩める。そんな後輩から自動販売機に目線を移すと、まだお金は入れられていないようで色々なボタンがピカピカと消えたり付いたりしている。とりあえず自分の飲み慣れた珈琲のボタンを押して、隣の猪野くんに催促する様に目線をやればパチクリと瞬きを返される。
「あざっす!」
意図がわかったのか、頭を下げながらお礼を言って猪野くんは炭酸のペットボトルのボタンを押した。スマホをかざして電子決算をすれば、ガコンと音を鳴らして出口に落ちてくる。二人分の飲み物を取って、今度は猪野くんに休憩しましょ。とお誘いを受けて自動販売機横のベンチに二人で腰掛けた。
「もう今日は仕事終わりですか?」
「うん、報告書出してきたところ。猪野くんは、今日千葉の方に任務だったんだっけ?」
「え!?なんで知ってるんスか!?」
疲れた体に珈琲が染み渡って、思わず息を細く吐き出してしまって改めて疲労を噛み締める。それに比べて隣の彼は元気ハツラツで本当に羨ましい。何気なく声をかければ、ちょうどペットボトルの蓋を開けていた猪野くんが驚いたように目を丸くして此方を見つめてきた。自動販売機から落ちてきた拍子に少しだけ刺激された炭酸が、彼の手の中でしゅわしゅわと音を鳴らしている。
「昨日七海くんが言ってたよ。二人で任務だったんでしょ?」
「あー…なる、ほど。」
私の返答に納得したのか、歯切れが悪い返事で正面に向き直ると猪野くんは炭酸を煽るように飲んだ。ゴクリと上下に動く喉仏が二十歳を超えて大人の男性になった事を知らせているみたいだった。
同級生の七海くんは、よく猪野くんの話をしてくる。あと虎杖くんも。きっと二人が七海くんの事を慕ってくれてるから、彼も嫌いじゃないんだと思う。なのに何だか肩を落とし気味に見える猪野くんに首を傾げながら、また珈琲を一口含んでから声をかけた。
「猪野くんはさ、七海くんのどこが好きなの?」
「好きっつーか……七海さんすげぇ強いし、大人だし、ガタイもいいし…って、全部かっこいいですね」
なんとも言えない表情で顔を上げた猪野くんが、少し唸った後に指を折りながらポンポンと好きな部分を上げてくる。途中からハッと気付いてしまいましたった顔をして最後に呟く
から、思わず吹き出して笑ってしまった。
「あはは!やっぱりすごい大好きだね!」
これはあの堅物の七海くんが絆されるのもわかる。私だって思うけど、猪野くんは後輩力が抜群でついつい構ってしまいたくなるから七海くんは好意を正面から受けるから余計なんだろう。お腹を抱えながらひとしきり笑って、落ち着いてくる頃には目尻に少しだけ涙が浮かんでしまった。
「先輩は、七海さんの事好き、ですか?」
「ん?そうだね、好きだよ。今やたった一人の同期だしね〜」
そんな私に嫌な顔する事なく猪野くんはサイダーの表面に浮かんできた結露を吹いて隣の空いているベンチに置いた。おずおずと、猪野くんの方が背が高いのにどことなく上目遣いで問いかけてくる彼はやはり可愛らしい。猪野くんには負けるけどね、と笑って見せれば、少し悩ましそうにもごもごと言い淀んでいる。
「いや、なんていうか…異性的には…?」
やっと発せられた言葉はその一行で。脳みそが考えて理解するまで時間がかかって、私たちが何も話さない今でも蝉の鳴き声が響いてる。暫くして、やっと意味がわかると収まってい
た笑いがまた喉奥から吹き出してきた。
「いやいや、ないない!だって昔から一緒なんだもん、今更そんな風には見えないよ。それに、私すごーく大雑把だから七海くんと付き合ったらお互いに胃に穴が空いちゃうと思う」
「そ、そうですかー…」
家も帰ってきたら至る所にそこにいた印を残すように鞄や上着など置いてしまう。一回家に遊びにきた七海くんに「いい加減にしてください。」って怒られた時は、お母さんかって思ってしまった。七海くんのお家はいつ行っても綺麗で整理整頓されていて、私とは真逆過ぎる。嫌そうな顔をする脳内の七海くんがまた面白くて、ひーひー言いながら足をばたつかせていると猪野くんが黙ってしまった。
「どうしたの?ヤキモチ妬いちゃった?」
「えっ、いや、そんな!…あれ、どっちの意味で言ってます?」
少し顔を覗き込んで意地悪く問いかけて見せれば、弾かれたように上半身を上げて猪野くんの顔が遠ざかる。少し赤くなった頬で慌てて否定するけれど、少ししてコテンと首を傾げてくるからまた笑わないように気をつけながら口角を引き締めた。

「大好きな七海くんと私が仲良しだから?」
「まぁ、うん、違うけど違わないような…うーん…」
でもやっぱりニヤニヤしてしまってるんだろうなって思いながら、私も太腿に肘を置き頬杖をつきながら首を傾げて見せる。そうすると猪野くんは悩ましそうに腕を組んでうーんうーんと唸るから、やっぱり彼は可愛らしい。最後缶にちゃぽんと残る珈琲を飲み干して、立ち上がってビン缶分別されているゴミ箱に放り投げた。多分、こんなとこも七海くんにはちゃんと捨てなさいって怒られると思う。
「猪野くん、もう今日はおしまい?せっかくだしご飯でも行く?」
「え!行きます!!」
両手を頭上にあげて背伸びして、私が立ったことで猪野くんを見下ろしながら問い掛ければ元気よく返事しながら彼が立ち上がるからあっという間に目線は負けてしまった。スマホの画面を表示すると、なんとまだ18時過ぎ。こんな早く帰れるのは珍しいから今日はラッキーデーかもしれない。
「七海くんも誘う?もう帰っちゃったかな?」
定時大好きマンの彼は、ここにさっきまで任務が一緒だった猪野くんがいるということは
もう帰路についているかもしれない。そのままスマホをタッチしながら同期の名前を探してトーク画面を開くと、最後の会話は先週だった。
「いや、あの…」
頭上から聞こえてくる声に、スマホに落としたままだった視線を上げる。そうすると四方八方に視線を彷徨わせる猪野くんがいて、私が見ていることに気付くとギュッと目を閉じた。今日は何だか猪野くんはモゴモゴ悩むように喋ってて珍しい。私が言葉を発そうとするのと猪野くんが目を開けるのが同時で、音のない言葉は喉にそのまま残ってしまった。何かを覚悟したような猪野くんは、先ほどと違って真っ直ぐ此方を見ていて、スマホを握る私の手にゆっくりと重ねられる。
「俺、先輩と二人でご飯に行きたいんすけど…」
最後の語尾は消えていって、手の体温はとっても暖かい。ぱちぱち、と2回瞬きしてから、するりと彼の手から離れて持っていたスマホを尻ポケットに押し込んだ。
「うん、わかったよ。」

私の動作に一瞬悲しそうな顔をしていたけど、言葉にバッと顔色が明るくなる。でも少しするとまた曇っていって、彼は表情筋が豊かだなぁなんて観察して思った。
「…ねぇ、これ伝わってます?なんかまた勘違いしてませんか?」
「勘違いって?なんか私に相談したいから二人が良いんじゃないの?」
「やっぱりかぁー…」
てっきり、七海くんに相談できないことがあるから二人がいいのかと考えがまとまっていたから、そうではない事が意外だった。そんな気持ちが表情に出ていたのか、ガクリと後ろに効果音が出そうなくらい肩を落とす猪野くんに申し訳なさを感じた。ごめんね、と言いながら肩を撫でてあげると、上目遣いで此方を見上げてくる。その瞳は先程の可愛いだけじゃない気がして、撫でる手が止まっているとまた猪野くんの手が重なってくる。次は逃げないように、しっかりと包み込まれて彼の手の大きさが伝わってきた。
「俺は、先輩と休みの日も二人きりで会いたいし、しょーもない話でも連絡しちゃいたいし、…あわよくばこうやって触れ合いたい、って、意味なんすけど…」
体を起こした猪野くんはやっぱり身長が大きくて、私とは違うんだという事を噛み締める。繋いだ手から猪野くんの脈拍が伝わってきて、彼の赤らんだ頬の熱が移ってしまったみたいにじわじわと体が熱い。
「えっと、それって…」
「え!?これでも伝わらねぇの!?マジかぁー…」
次は私が言葉を探していると、猪野くんは驚愕!という言葉がぴったりなくらい驚いてまるで空気が抜けた風船のようにへなへなと座り込む。それでもまだ私の手は握っていて、さっきまでドキドキしていたのに今では迷子の子供を引率しているような気分だ。
「えっと、なんかごめんね?なんとなく慕ってくれてるっていうのはわかったんだけど…」
「そっか…七海さんもどストレートに行かないと絶対気付かないって言ってたしな…」
さっきみたいに肩を撫でてあげたいけれど、あいにく手が塞がっているので言葉で伝える事しか出来なかった。そんな私の対応に、猪野くんはブツブツと俯きながら呟いている。どうやら、今回の議題は七海くんにも相談済みらしい。暫く見守っていると、よっしゃ!と空いている左手で勢いよく自分の頬を叩いて立ち上がった。繋いでいた手が離されて、その代わり両手で私の肩を掴まれる。力加減は全然痛くなくて優しくて、少しだけ震えてるのがわかった。
「俺、先輩の事…しゅぎ、ぃで!」
真剣な瞳に息を呑んで、ゆっくりと瞬きをしてその言葉を受け止めていたけれど、途中でそれは止まってしまった。驚いた私と、それ以上に目を見開いてる猪野くんの間で時が止まる。夏だから遅れてこの時間になってやっと日が落ちてきて、自動販売機の光がやけに眩しかった。ダメだ、ここはダメだ。笑っちゃダメ。どうにか耐えていたけれど、じわじわと猪野くんの大きな瞳が涙で潤んできてどうしても耐えきれなかった。
「ぷ…あははは!猪野くん、今のは痛かったね!大丈夫?」
「だ、だいじょうぶれす…」
どうやら舌を噛んでしまった猪野くんは、涙目でどうにか返事してくれた。ちろりと覗く舌が赤くなってしまっていて、痛々しくて可哀想だ。肩を浮かんでいた手がダラリと落ちて、誰が見ても落ち込んでいる様子の猪野くんにどうにか笑いを耐えながらニット帽越しに頭を撫でてあげると、ピクリと大きな身体が震える。いつも深めにかぶっているニット帽を頭の丸に沿わせて少しだけ後ろにズラすと、長い前髪の間から額の傷口が見える。傷跡を撫でたらどんな反応するかな、なんて意地悪な心が顔を覗かせていると、そんな事を知らない猪野くんと目があった。
「あー!もう俺ダッセェー!…今度またやり直ししてもいいですか!?」
どうやら彼の中で反省会は終わったようで、大きな声を上げながら体を起こした猪野くんはいつもの調子に戻っていた。一喜一憂するところは、大人になるにつれどこかに落としてきてしまって、純粋に羨ましくて眩しかった。
「…今日聞かせてくれないの?」
その代わり歳と一緒に身についてきたそれでわざと首を傾げて見せれば、またピシャリと猪野くんが揺れて動きを止める。何回もやりとりをしたせいで私の反応を疑うように言葉を濁していたけど、察しのいい彼はすぐに私の視線の意図に気付いたのか、ゴクリの喉を鳴らした。
「私、もうすぐアラサーだよ?」
「そんな、まだ全然じゃないですか!寧ろ大人の色気があるっつーか、あ、いや、可愛さもあるんすけど…」
「ふふ、ありがと。」

先程と違う笑みを浮かべれば、猪野くんの顔がさっきと比べ物にならないくらい真っ赤に染まっていく。今まで彼はどんな顔で私を見つめていてくれたんだろう。気付かなかった事がもの凄く惜しい。
「七海くんみたいに、尊敬じゃなくて?」
「絶対それは有り得ないです。」
キッパリと言い放つ猪野くんの瞳は、さっきまで涙を浮かべていたのに今では熱を孕んでいる。ゆっくりとした動作で、私の右手を包み込む両手は少し震えていて、それでいて熱かったけど自然と嫌じゃない熱さだった。
「そしたら、とりあえず次のお休みにお出かけしよっか?」
私の二度目のお誘いに、今にも溢れそうなくらいに猪野くんの目が見開かれる。ギュッと握り締められる手越しに猪野くんの額が押し付けられて、何だか懇願されているみたいだ。
「そ、れは…彼女として?先輩として?」
上目遣いで、もう半分くらいはわかってるくせに問いかけてくる猪野くんは可愛らしく
て、あざとくて、そしてズルい。胸が苦しいけど私だって年上と威厳はあるので、唯一動かせる親指で彼の手をすりっと撫でた。
「その時の猪野くんのエスコートプランにもよります。とりあえず、私もまだドキドキしてるから、今は彼女候補ってことで!」
期待してます、と業務連絡のように伝えればポカンと口を開けて猪野くんは固まっている。怒ったのかな?と心配になったけれど、その唇がワナワナと震えてその内に口角が上がっていく様子を見ていると違うようだった。
「い、やったぁー!!」
「わっ!」
両手を上にあげ大きな声を出したと思ったら、勢いよく腕を引かれて体制がぐらりと傾いた。地面より先に猪野くんの胸元に受け止められあっという間に抱きしめられてしまった。
「俺、頑張るんで!楽しみにしといてください!!」
真っ暗な服が一面に広がっていて顔が見えないけど、きっとニコニコと満面の笑顔なんだろうとわかるくらい声が弾んでいた。ギュウギュウと苦しいくらい抱きしめられて猪野くんの早い鼓動の音が耳にも私の体にも響いてくる。大変だ、自分で言っておいてお出かけまで焦らされるのは私かもしれない。ちょっとだけ後悔しながら、でもその分楽しみな予定に高鳴る胸の音に気づかれないように、彼の服の端を控えめに握り締めた。



- 19 -

←→

TOP