4話 夏の夜は酷く熱くて、




「ねぇ、パウリー…」

今まで聞いた事のない、甘ったるい声でおれの名前を呼ぶ。最近視界の端でふわふわふわふわとずっと跳ねているポニーテールの毛先は今や俺のチェック柄の枕や白いシーツに散らばっていて、まるでおれの家のベットじゃねェみたいだ。

「ねぇ、キスして…」

潤んだ瞳で見上げてくる彼女は両手を広げてそう言ってくる。恐る恐る俺が上半身を倒すと、いつも器用に木材に触れる細い指先が俺の首に絡んで痛んだ襟足の毛先に触れる。控えめに彩られた唇はおれのモノと違い乾燥なんかしていなくて、寧ろほんのり濡れていて柔らかそうだ。まさに、視覚的暴力。こんだけ至近距離にいれば俺がゴクリと飲み込む生唾の音がコイツにも聞こえてそうだが、彼女はからかって笑う事などなく甘えるようにおれの首裏を撫でた。


「……っ、うぉお……お!?」

まるで現場の足場で足を踏み外して急落下するように意識がいきなり覚醒し、カッと目を見開いて叫びながら起き上がる。暫く今どんな状態か理解できなかったが、荒くなっていた息が整ってくると少しずつ脳みそが起きてきた。

――夢だった。

いつの間にか汗ばんだ額に貼りついている前髪を乱暴にかきあげ、夢だと理解した途端に強張っていた体が脱力してまたベットでと倒れ込んだ。…リアルな夢だった。まるで、恋人のように触れ合って、名前を囁いて、ベットに広がる髪も今まで緩めの服に隠された肌も、強請られた唇も柔らかそうで……。

「……なんっつー夢見てんだよ……ッ!!」

思い出しただけで顔だけでなく全身に熱が込み上げてきて、まだ辺りは寝静まっているのにも関わらず大きな声で叫んでしまった。じゃないと、色々とどうにかなってしまいそうだ。ずっと胸がバクバクと高鳴っていて、妙に喉が渇いている。重くのしかかるような朝の蒸し暑さとは違う、別の火照りが体の芯に残っていた。

アイツにはそういうんじゃねェって言ったくせに、おれはアイツでハレンチな事を考えちまった…!クソみたいな妄想を頭から消し去りたいが、彼女の笑った顔も、潤んだ瞳も、全部リアルすぎて、今でも指先に感触が残っているような気がした。
やり場のない感情に顔を手で覆い低く唸っていると、頭上にある目覚まし時計がけたたましく鳴り始める。いつも遅刻ギリギリなくせに、どうやら夢のせいでアラームよりも早く起きてしまったようだ。早起きは出来たかもしれねェが、体が重たくて仕方がない。渋々もう一度体を起こそうとして、謎の異変に気付く。…なんか、変だ。特に下半身が。まさかと血の気が引いていき、恐る恐る腹にかかっているシーツを捲った。

「……マジかよ…」

下半身の違和感。風呂上がりに一枚だけ履いて寝たボーダー柄のパンツは、じんわりと中心部にシミが出来ている。やってしまった。しかも、それをアイツでしちまった。
おれが止めないせいで目覚まし時計は煩い音を鳴らし続ける。そろそろ止めないと近所からクレームがきちまいそうだが、呆然として暫く動けずにいた。結局騒音を止めれたのは、隣の住人から壁をドンッと鈍く叩かれてからだった。


◇◆◇


好きな職場に行きたくないと思える程に、非常に気まずくて仕方ない。なんなら告白された次の日よりもマジで気まずい。今回はアイツがどうのとかそういうんじゃなくて、ただただハレンチな夢を見てしまった事への罪悪感。ウダウダとそう思っているくせに、この煩悩を定期的に頭を振り回して削ぎ落とさねェと油断したらつい夢の事を思い出しちまう。そうしてる内に顔も腹の奥も熱くなってくるからクソ野郎過ぎる。…ちなみに出勤中にどうしても耐え切れず物理的に冷やそうと頭を水路にぶち込んだせいで、今現在おれは髪だけがずぶ濡れで最悪だ。ドックへ着くと俺が濡れていようが、どうせ借金取りに追われて水に落ちたんだろうと野郎どもは勘違いしてくれてそれだけは助かった。

「おーい、パウリー!そこにロープ頼む!」
「おう、任せとけ!」

ドックに行けば仕事が次々舞い込んでくる。今日ばかりはその忙しさのお陰で俺のハレンチな煩悩を殺す事が出来てかなり助かった。ロープを勢いよく投げマストの柱に巻きついていくのを確認し、力を込めて引くとキツく結ばれ目一杯引いても解けなくなる。ここが終われば、あともう一箇所だ。そのロープを引きぐっとつま先に力を込めて、ひとっ飛びする。風を切る瞬間は、潮風が頬を撫でていつも気持ちがいい。

「タイルストンさーん、この辺でどうですかー?」
「いや!もうすぐ左だな!!」

ロープがギチッと鈍く鳴るくらいキツく結び、切るために腰元のホルスターからナイフを取り出した時に耳元に聞き慣れた声が届いてドキリと胸が高鳴る。顔を上げなくたって、それは今日夢に出てきた彼女のものだとすぐわかった。
上から見下ろすと、足場に登り大きな板を両手で抱えてちまちまと右や左に動いている小さな背中が見えた。どうやら位置を確認しているようで、タイルストンが足場の下で腕を組み大声で指示を出している。彼女が動くたびに、相変わらずポニーテールがゆらゆらと風に揺れる。彼女の姿が変わってもうすぐ半月経つが、その姿はまだ見慣れない。でも真剣な横顔はショートカットの頃の彼女と変わらなかった。…人が同じなんだから、そりゃ当たり前か。

「…クソ、なんで夢に出てくんだよ…」

1人ぼやいた言葉も、潮風が吹いているお陰で掻き消されて誰にも届く事はなかった。
どうしておれは、こんなにもアイツの変化に振り回されてんだ?確かに最初は容姿の変化でハレンチすぎて慣れなかったが、指摘するのを彼女が嫌がるので言わないようにと意識すれば何だかんだ最近はそこは平気になってきた。しかしどうしてもあのポニーテールの毛先が頭の片隅にチラついてしまって、ついどこにいるか目で探しちまう。結局毎回考えても答えは出ずに、誤魔化すために額につけているゴーグルを着けて下へ飛び降りた。

「のう、パウリー。あれはいいのか?」
「うぉ…!」

昨日依頼しにきた海賊が出してきた条件で修理のプランを具体的に詰めていくか、と思っているところで耳元で名前を呼ばれて少しだけ肩が跳ねてしまった。不意打ちをしかけてきた声の犯人はすぐにわかって、後ろを振り返ればやはりカクが立っていた。

「……何がだよ。」

何が、とは聞いたが、カクのニヤニヤした顔を見れば何となくわかる。どうせアイツ絡みでおれを弄りに来たんだろう。面倒な奴が来たと眉間の皺を隠さずに舌打ちしてみたが、カクは気にすることなく腕を組んだままニヤリと人の神経を逆撫でする笑みを浮かべている。そんな姿にイライラしてきていると、絶妙にそれを回避する塩梅をしっているカクは肩をすくめて腕を解いて親指で背後を指差す。なんだってんだ、とイラつきながら肩越しに其方を見れば、案の定アイツと、そして隣にはまさかのアイスバーグさんがいた。

「借金まみれのギャンブラーのパウリーより、人望も厚いアイスバーグさんより良い物件じゃな。アイツも見る目あるわい。」
「あ?アイスバーグさんはあんなちんちくりん興味ねェだろ。」

アイツとアイスバーグさんだァ?そんなのあり得ない。カクの野郎、まだまだ考えが甘ェな。アイスバーグさんは絶対に大人の綺麗系な女性がお似合いだろう。確かに髪が伸びたりしてイメージは変わったが、彼女ではまだまだ絶対に役不足だ。おれを揶揄うためにすぐに色恋に発展させようとしているんだろうが、見当違い過ぎて呆れてイライラが治ってきてしまい鼻で笑いながら肩をすくめた。

「それがビックニュースでの。アイスバーグさん、なんとこの間ブルーノの酒場でアイツのこと口説いてたらしいぞ?」
「は、はァ!?あの人が!?」

そんなおれの態度も予想内だったようで、余裕そうに口端を上げるカクに思わず巣っ頓狂な声が出てしまった。あまりにも衝撃的で思ったよりもおれの声が周りに響き、近くのクレーン操作班がこちらを振り返る。慌てて口を紡いで聞かれてないかと噂の元の2人の方を見たが、変わらず楽しそうに雑談しているようだった。

…そ、そう言われると、前より距離が近い…か?

楽しそうに笑っているが、この距離だと喋っている会話は絶妙に聞こえない。でも彼女の笑い声はほんのりと耳に届く。…おれって、あぁやってアイツと笑い合ったのは最後いつだっけか?
ぼんやりとそう思っていると、アイスバーグさんの手が彼女に伸びる。どうやら作業中に頬が汚れていたようで、指の腹で彼女の頬を何度か摩ってアイスバーグさんが何かを言っている。アイツは驚いたように目を開いた後目線を彷徨わせて、そのまま頬を赤らめながら目を伏せる。汚れはすぐに取れたのかアイスバーグさんの手が頬から離れると、勢いよく彼女がお辞儀するのでまたポニーテールにした毛先が揺れる。おい、おいおいおい!アイツ何デレデレしてんだ…?!そりゃアイスバーグさんは男のおれも惚れ惚れするくらい良い男だけどよォ……お前この間までおれの事好きっつてたよな…!?

「ジロジロ熱い視線送るくらいなら、お前も素直にアプローチすればいいじゃろ」
「なッ…!見てねぇし!!」

嫌と言うほどガン見していたが、指摘されると反射的に否定してしまう。しかしおれの顔はみるみる熱が込み上げてきて、きっと情けなく赤く染まっているんだろう。そんなおれの様子にカクがプルプルと体を振るわせ、ついには腹を抱えて笑い出した。

「なんじゃ、恥ずかしがり屋のツンデレさんか?」
「〜ッ!ウルセェ!!」

大声で怒鳴り過ぎて、通りかかったルッチの肩に乗るハットリが『パウリー 、煩いっポー!』と鳴く。ルッチは迷惑そうな顔を向けてきて、腹の底から余計にイライラが込み上げてくる。どいつもこいつも、好き勝手おれを弄りやがって…!ガシガシと頭を掻き傷んだ金髪を振り乱して、ダンッとブーツで地面を踏み込んだ。

「大体な!おれが職場恋愛なんて浮かれたもんするワケねぇだろ!!」

そう叫んで顔を上げると、目の前のカクが目を泳がせていた。オイオイ、なんだよいきなり。そんなにおれが怒ってるのにビビっちまったか?怒りが沸騰しきっていたのに拍子抜けしまっていると、後方で軽い足音が背後でピタリと止まった気配があった。

「……あ。」

ついに目の前のカクは気まずそうに目を伏せてしまった。無性に何か胸騒ぎを覚え、ギリギリとゼンマイが壊れた人形のようにゆっくりと後ろを振り返ると、そこには噂の彼女が立っていた。どことなくその場が凍った気がする。夏が近付いてきて気温は高くなってきているのに、背中にはじっとりと寒気と嫌な汗が伝ってきた。
ヤベェ、ヤベェヤベェ!確実にやっちまった…!本能的にそう悟るが、さっきの言葉を聞いたであろう彼女はニッコリと眩しいくらいの笑顔を浮かべていた。

「パウリー、これタイルストンさんから。」
「…あ、あぁ……」

彼女は前と変わらぬ笑顔で小さなメモを差し出してきて、恐る恐るそれに手を伸ばす。
ふと手元に視線を落とすと、メモを握る彼女の細い指先にある爪が短く綺麗に切られていているのが目に入った。その瞬間、今日の夢で見た自分に伸ばされた指先がフラッシュバックしてザワリと背筋が震える。メモを受け取った瞬間、ほんの一瞬だけ彼女の指先がおれの指に触れて、思わず慌てて手を引っ込めてしまった。おれの手は指先一本一本に心臓があるのかと錯覚するくらいどこもかしこも熱いが、彼女の指先は妙に冷たい。自分が熱いせいかと思ったが、なんだかそうじゃない気がする。指先と同じように、彼女が纏う雰囲気がどことなくひんやりとしていた。
メモを受け取ると、すぐに踵を返す彼女に声をかけようと口を開くが喉の奥でつっかえて出てこない。だが今のまま誤解されたままではダメだというのはバカなおれでも流石にわかる。いや、誤解っつーか、おれが勢いであんなこと言ったのが悪ィんだけど…!頭と心で葛藤して、せめて彼女の名前を呼ぼうとしたところでまるで想いが通じたようにピタリと彼女の足が止まった。

「あ、そうそう。そういえば来週合コン行ってくるから。誰かさんが言うように浮かれた職場恋愛はする気ないんで、安心して?」

くるりと振り返って相変わらずニコニコ笑いながらも、ピシャリと断ち切るような彼女
のその言葉に、まさに言葉を失った。

「おま…ッ!なんだよ合コンって!?」
「合コンは合コンよ。ガレーラ大好きな町娘の子達にセッティングしてもらったの。」

動揺している俺を他所に、彼女は涼しい顔でケロリとそう言い放つ。いや、何だそりゃ!?町娘ってあれか?よくドックの前でカクさーん!とかルッチさーん!とか黄色い声飛ばしてるハレンチな格好してる娘達か!?んな格好してるやつらが、いい男紹介出来るワケねェだろ!!

「それって、どこの骨かわからねェ知らない男どもと酒飲むっつー事か!?」
「合コンってそういうもんでしょ?」

おれがあぁ言えばこう言う。俺肩を振るわせ息を切らせて怒鳴る言葉も、彼女には1ミリも響いてないようだった。

「だから、ご迷惑おかけしませんので。それじゃ」

涼しい顔してそう言い放つ彼女は、ひらりと手を振って背を向けて歩き出した。この間告白された夜の泣きそうな顔でも、後日おれがハレンチと言って怒った時とも違う顔だ。
おれはずっとグダグダとしているが、彼女はここ数日でどこか大人になったようだった。連絡事項を終えてただ持ち場に戻っているだけなのに、相変わらず揺れるポニーテールが酷く遠ざかっていく気がする。

どのくらいその場に立ち尽くしていたのかわからないが、ポンっと肩に置かれた手の感覚で何処かに飛んで行っていた意識がやっと戻ってきた。

「……パウリー、この前からドンマイじゃ」

先程まで揶揄ってばかりだったくせに、今ではカクは本気で不憫そうな目を俺を見ている。この間地雷を踏み抜いていると言われたが、全くだとここまでくると自分でも思う。おれはかなりドカドカと地雷を踏み抜き過ぎている。まるでデジャブのように感じる状態だが、確実に前回よりも悪化しているのは確かだ。カクに対してもう憎まれ口を叩く気力もなくて、ただただ額に手を当てて深い溜息を吐き出した。



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