七海さんのせいで死んじゃうかもしれません。
真っ暗で、寒い。何が何だかわからない中で、無性に不安が押し寄せて背筋がソワソワとする。只ひたすらに、居心地が悪いのだけはわかる。
『呪術師になれなかった紛い物が、知ったような口を聞くな!』
何回も聞いた事がある言葉が、頭の中に直接響くように聞こえてくる。呪力や術式が強くないと、同じ人間ではないような扱いをされるこの世界。血筋がないと、下級に見られる世界。そんな世界に残ることを決めたのだから仕方ないと割り切って、ずっと今まで生きてきた。
『補助監督なんてただのお荷物だろ。黙って言うこと聞いてればいいんだよ』
そんな私でも、せめて呪術師の方をサポート出来ればと一生懸命やってきた。それでも、報われない事も沢山あった。嫌悪の目、冷たい言葉がドロドロと溢れて押しつぶされて消えてしまいそう。耳を塞いでしゃがみ込みたいのに、脳みそのシグナルが上手く働かなくて動けない。ソワソワがゾワゾワとどんどん波が深く大きくなる。どうしたらいいのかわからない。誰か、助けてほしい。
『貴女は、自分がやりたい事をやればいいと思います。他人がどうこう言うことは気にしなくてもいい。全て、貴女自身が決めるべきだ。』
その言葉が聞こえた瞬間、真っ暗闇だった景色が一気に晴れる。まるで帷が上がったみたいに、木々が多い茂って青空が広がる。その先に立っている、さらりと揺れるブロンドの髪と瞳の色は知っている。その制服に手を伸ばそう羽とした所で、小さくパチンと世界が弾けた。
□■□
ふわふわと意識が浮上していく感覚がすると、あ、私は目が覚めそうなんだなって頭の片隅でいつも他人事みたいに思う。二度寝すると大体寝起きは悪いので、その感覚に委ねてゆっくり瞼を開けた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいて、体を起こし両手を頭上で絡ませてぐっと伸びをすればずっと寝ていた体はポキポキと小さい骨の音を鳴らしながら整った。
何か、夢を見ていた気がする。しかし全く思い出せなくて、欠伸を一つ漏らす。いい朝だぁ、なんて呑気に思ったけど、はたっと寝起きの頭が覚醒した。
「は……」
この部屋で目覚めるのは二回目で、そしてここは自分の家じゃなかった。改めて見ると、本当綺麗な内装のお部屋で、私が一日で寝たシーツもマットレスもきっといいお値段するんだろうなって明るい室内で改めて感じる。部屋の主は、当たり前だけど同じ部屋にはいなかった。
「ど、どうしよう…七海さんの家にお泊まりしちゃった…!」
広いベッドの上で体育座りをして頭を抱えると、頭も体もしっとり汗をかいていて余計に嫌になる。熱に浮かされていたとしても、本当至れり尽くせりしていただいた気がする。補助監督なのに、呪術師のしかも一級でお忙しい七海さんにご迷惑をおかけしてしまい大変申し訳ない。しかも、汗だくだしメイクも崩れてほぼスッピンだし…どう頑張っても立て直しが効かなそうな状態に項垂れてる。
すると羽織っているシーツから何となく七海さんの香りがしてドッと心臓が脈打つ。また別の意味で熱い頬を両手で覆っていると、ガチャリと音を立てて扉が開いた。今度は心臓が口から飛び出しちゃうかと思った。
「おはようございます。体調はどうですか?」
七海さんは昨日とは違ってラフなグレーのスウェットを上下身につけていて、普段しっかりとスタイリング剤で上げられてセットしている髪はサラリと落ちてきている。金髪の髪の隙間から見える瞳も自宅だから当たり前だがサングラスをしていなくて、なんというか、視覚の暴力か?と言いたい。
いきなりの情報量に呆けていると、何も返事しない私を怪訝に思ったようで眉寄せながら七海さんが一歩こちらに踏み出したので、慌ててベッドから降りた。
「ありがとうございます!すっかり復活しました!本当、沢山ご迷惑をおかけしまして…」
それはもう綺麗に直角ですってくらい深々とお辞儀をしながら謝罪すると、視界いっぱいに広がる床にネイビーのスリッパが入り込んできて七海さんとの距離が近付いたのがわかった。顔を上げてください、と言われたが、なんとなく近い距離に今対応できる気がしなくて動けないでいると頭上で溜息が漏れるのを感じる。
「お気になさらずと昨日伝えたはずですが?」
その声を聞き終える前に、ぐいっと七海さんに肩を掴まれて無理矢理上半身を起こされてしまった。勢いよく上げたせいで顔にかかった沢山の髪の毛を、七海さんがゆっくりと一束ずつ耳にかけてくれて少しずつ視界が良好になっていく。
「また、食事は後日にお誘いしてもいいですか?」
「は、はい!ぜひ!」
髪が全て退けられれば七海さんの顔が見えて短く息を呑んだ。寝起きになかなか破壊力が抜群だと思う。コクコクと激しく頷くとまたはらりと横の毛が落ちて七海さんが小さく笑いながら耳にかけてくれた。髪から手を離すときに最後自然な流れで耳筋を撫でて耳たぶを感触を確認するように一度だけ触れるから、ジンジンとそこが熱くなってくる。
「…ちなみに、今日の予定は?」
「え?あー…恥ずかしながら、特に何もないです」
必死に小さく深呼吸を繰り返して平常心を装おうとしてる時に頭上から声が降ってきた。いきなりの質問にすぐに反応できなくて一拍遅れて頭が理解する。
普段からいざ休みどいえど、いきなり仕事になったりするので休日は予定を詰め込んだりは特にしてない。友人もこんな仕事をしていると両手で収まるくらいしかいないし、みんな不定期休みというやつだから予定を合わせるのも難しい。キラキラした女性の休日じゃないのが申し訳なくて、苦笑いを零しながら頭をかくと七海さんは何かを考えるように顎に手を置き黙ってしまった。
「…もしよければ、今日はうちの家で映画など見てゆっくり過ごしませんか?」
「へっ?」
「本当はランチにでもお誘いしたいですが、貴女は病み上がりなのでゆっくり休んだ方がいい。貴女は家に帰すと、きっと仕事や家事などするでしょう?我が家にいてくれていただいたほうが昼食など私が作りますので世話できます。」
顎から手を離してこちらを見下ろしてくる七海さんに、またすっとぼけた声が出てしまった。そんな私を他所に、七海さんはいつもと違って少し早口に捲し立てるようにプレゼンしてくる。
確かに、休みだから溜まった掃除とかをしようとは考えていた。ぼけっとまとまり始めた思考で七海さんを見上げていると、何処となく落ち着きない様子で視線を逸らされてしまった。どうしよう、嬉しい。とても嬉しい。お休みの日に七海さんと過ごせるなんてとんでも無く幸せだ。人生の運を使い果たしてしまっているのかもしれない。いつもの私だったら、絶対に遠慮して断るところだが、最近の私は七海さんのお陰で大変貪欲になってしまった。
「そしたら、お願いします。」
「…えぇ、よろしくお願いします。」
真っ直ぐと見上げたまま答えると、その答えが意外だったのか七海さんが少しだけ目を丸くして顔を此方に戻して視線が絡まった。少し口を開けて何かを考えた後一度閉じ、改めて返してくれた言葉はどちらがお世話される側かわからなくて少し笑ってしまった。
「まずはお風呂にでも入ってきてください。汗をかいたでしょうし、体が冷めてまたぶり返すと元も子もない」
「えっ!お、お風呂ですか!?」
私が笑ったことに対してほんの少しだけムッとしたような七海さんが背を向けて部屋を出て行こうとするので、私の余裕は一瞬で消え去ってしまって大きな声が出て最後の言葉は裏返ってしまった。そんな様子に七海さんもすっかり元の調子に戻ったようで、扉を開けて首だけ振り返るとふっと口端を上げる。
「取って食ったりしませんよ」
えぇ、そりゃ、まぁ、はい。返す言葉はないまま部屋を出た七海さんについていくと、そのままお風呂場に導かれた。テキパキとシャンプーやシャワーの事など説明してくれる七海さんを上の空で聞いていると、七海さんは追い焚きボタンを押してさっさと脱衣所を出て行ってしまった。一分程立ち尽くして、やっと気持ちの整理がついて汗を沢山吸ったしわくちゃのスーツを脱ぎ始める。
いつもは脱ぎ散らかしてしまうところだがそういう訳にも行かなくて、下着姿のままシャツなども畳んで隅において、全て脱ぐと一応服の間に下着を隠しておいた。
葛藤もあったが、一日ぶりのお風呂は純粋に気持ちが良かった。シャワーのお湯を頭から思い切りかぶって頭皮の皮脂を取るように流してから、ちらりと先程説明を受けたシャンプーに目線を移す。
「……七海さんと同じ匂い…」
自分で呟いてどこの変態だよって引いてしまった。メンズ用のシャンプーだけど意外と泡立てても髪の毛が引っかかる事がなく、きっとこれも良い商品なのがなんとなくわかる。泡がもこもこの状態で少しだけ嗅いでみたけれど、七海さんにシャンプーの香りのイメージはないからよくわからなかった。
メイク落としは当たり前にないが、ほぼ汗で取れてしまっているから綺麗に洗顔だけしておいた。全て洗い終わって想像以上にスッキリとした。浴槽に張られたお湯に足先から沈めると丁度いい温度で、やっと力が抜けてゆっくり息を吐き出す。
「はー…広っ…」
ゆっくりと浸かるお風呂は私の家と比べ物にならないくらいに広くて、浴槽も足を伸ばしても余裕で全て最高だ。なんならうちには追い焚き機能もないから羨ましい。思わず歌い出したいのを抑えて天井を見上げたらチャポンと水面が揺れた。
「これは流石に伊地知くんに話せないなー…」
同級生からしたら今の私の状況はなんで?どういう展開?って感じになるだろう。流石に仲の良い彼でも、やはり異性だから赤裸々に話すのは恥ずかしくなってきた。ゆっくりとお湯に沈んで口元まで入りブクブクと水中で小さく唸っている時に、ガチャリと遠くで音がして危うくお湯を飲んで溺れるところだった。
「着替えとタオルおいておきます。」
「あ、ありがとうございます!」
浴室の扉にうっすらと長身の彼のシルエットが映って一気に心臓が激しく動き出した。返事をすると広い浴室に反響して、余計に自分の声が大きく感じる。こ、これ、少女漫画だと好きな彼がハプニングで浴室に入ってくるやつじゃん!なんて残念な脳で焦ったけれど、当たり前に七海さんはその後は出て行ってしまった。いや、うん、当たり前だけどね。何考えてるんだ自分痴女か。そんな感じで暫く悶々として唸ってから、そろそろ逆上せそうなので名残惜しいがお風呂から出た。
脱衣所を覗くと七海さんの言う通りタオルと服があって、とりあえずタオルを手に取り体と髪の毛の水分を拭く。自分の家と違う柔軟剤の香りで、またこれも七海さんの匂いだ!ってピンとこなかったけれど心は踊った。洋服はさておき、一度着た下着をまた身につけるのは折角綺麗にしたのに気が引けるなぁと重い気持ちで考えながら、ふと七海さんが準備してくれた着替えを見て動きを止めた。
「…、新品だぁ…」
シンプルな女性物のスエットと、あとその間に袋から未開封の新品の下着が挟まっていた。そのパッケージは私もよく行く大型チェーン店の物で、中身も本当シンプルなネイビーのパンツだ。よく見るとクリーム色のスエットも同じところのメーカーだった。なんならコンビニの化粧品などのお泊まりセットも一緒に置かれていて、準備物はまさに完璧だ。
暫く固まっていたけれど、このまますっぽんぽんの状態でまた七海さんが入ってきたらそれこそ痴女過ぎるので有り難く用意された服たちを身につけた。流石にブラジャーは昨日のものだけど、それくらいは仕方ない。化粧水などで肌を整えて、備え付けられたドライヤーで髪を乾かすまでしたらトータルで結構な時間がかかってしまった。脱衣所の扉を開けると、どことなくいい香りが香ってくる。
「お風呂ありがとうございました!」
ぺたぺたと素足で廊下を歩きリビングに顔を出せば、七海さんがキッチンに立っていてちょうどコップを取り出しているところだった。声をかけると、ゆるりとこちらに顔を向けてくれる。その姿は恋焦がれた女がいつの日か一人で妄想した彼のプライベートの姿よりも素敵で、きゅっと下唇を噛み締めて胸元のスエットを握り締めた。
「ゆっくり出来ましたか?…あぁ、よかった。サイズもちょうど良いですね」
ほっと息を吐くように私の頭から足先まで確認する七海さんの視線がくすぐったい。でも、私の心は曇っていてスエットの縫い目を触りつつ足元に目線を落とす。
「あの、これ、彼女さん用とか…ですよね…?」
こんなに用意周到にされていれば、嫌でも気付いてしまう。流石に洗面所に歯ブラシや風呂場に女物のシャンプーなどはなかったけれど、私が身に纏っているスエットは七海さんのものとは違ってサイズが小さくレディースものだ。何より下着やスキンケアセットまであれば確実に黒。七海さんの物ではなく他の人用の物なのは決定的だ。すみません、と漏らしながら少し冷たくなった足先を擦り合わせていると、遠くで息を呑む音と、その後深い深い溜息が聞こえてくるので覚悟を決めて顔を上げた。
「…いいえ、貴女の為に買ってきました。…が、すみません、スタッフの方に選んでいただいたのですが、気持ち悪かったですよね」
「え!?あ、いえ!そんな!ありがたいです!!」
でもそこには予想外にも眉間に皺を寄せて大きな右手で自分の顔を覆っている七海さんがいた。予想していなかった言葉に動揺してしまって、手と顔を両方ともブンブンと振るが七海さんはまた溜息を吐いた。いつもは余裕な大人オブ大人な彼が、どことなく少しションボリと肩を落としているように見えて何だか可愛らしい。いや、もしかしたら私の恋愛フィルターがかかってるからそんなふうに見えるだけかもしれないけど。
まさか私の為に買ってきてくれたなんて、いやでもいつ買ったんだろう?それに、最初から今日は滞在する予定で買ってきたのかな?とか沢山思考がグルグルしていると何だか2人とも無言になり微妙な空気が流れて何とも気まずい。
「…とりあえず、食事にしましょうか」
七海さんの一言でどうにかその空気が断ち切られて、目の前のダイニングテーブルに座るように促される。お手伝いしようかと思っていたけど、断られたので大人しく椅子に座った。手持ち無沙汰にぼんやりしている内に、七海さんが両手に持ったプレートの一つを私の目の前にコトリと静かに置いてくれた。
「…美味しそう。ホテルのビュッフェみたいです」
こんがりと丁度いい加減で焼かれた二枚のトーストと、半熟の目玉焼きにはブラックペッパーが少し振られている。レタスとミニトマトの他にも人参やカボチャの温野菜もあってカラフルだし、生ハムとクリームチーズも添えられていて主食として完璧だった。まるでレストランに来た気分になって呟くと、目の前の席に座った七海さんが小さく笑った。お腹の虫がきゅぅっと鳴き始めたので、二人で手を合わせて早速トーストにチーズを乗せて齧り付くと見た目通りサクリといい音が鳴る。
「お口にあいますか?」
「はい!とっても美味しいです!昨日のお粥もだし、本当料理お上手なんですね」
「それはよかった。自炊をしていた甲斐がありました」
どれもこれも美味しくて、頬が緩んでしまう。七海さんに問われて一生懸命頷くとその答えに満足そうにトーストに齧り付いていた。私よりも口が大きくて、トーストに刻まれた歯形がだいぶ違うように感じる。
「私も何かお返しできたら良いんですが…」
ついつい仕事柄早食いになりがちなので、じっくり味わいながら食べ進めていく。ミニトマトにフォークを刺せば薄い膜が破ける音がして、口に含むと水水しくて染み渡る。何度も言うが至れり尽くせり過ぎて困ってしまい苦笑いを零せば、少し考える仕草をして七海さんは目玉焼きの黄身の部分をフォークで切り分けた。
「それでは、今度は貴女の手料理を振る舞ってくれませんか?」
半熟の黄身はお皿の上で少しとろりと溢れていく。それをすくって目玉焼きをトーストに乗せるとそのまま大きな口でぺろりと食べてしまった。何でもお上品に食べるイメージだから、そんな七海さんの姿を見るのは何だかイケナイ事をしている気がする。
「………頑張ります。」
何だか意識すると恥ずかしくなってしまって、残りのチーズを全てトーストに乗せて咀嚼に専念する。こんな料理に敵うものなんて作れるのかな、と脳内レパートリーをどうにか探って手繰り寄せた。
「体調はどうですか?」
「すっかり元気です!たくさん寝たので、目が冴えてるくらいです」
朝ご飯を食べ終わってせめて食器を洗おうとしたけど食洗機があるので大丈夫ですとピシャリと言われてしまった。たしかに、こんないいお家に食洗機がないはずがない。ただ大人しく座っていると、コーヒーを二つ持って七海さんが戻ってきてくれる。私にそんなに筋肉はないが力こぶを作る気持ちで腕を上げて見せれば、それはよかった。と零しながら七海さんはマグカップに口をつける。
「そしたら、映画でも見ますか?」
「あ、いいですね!七海さんはどんな映画がお好きですか?」
「色々見ますよ。苦手なジャンルは?」
「ホラーは、ちょっと…」
七海さんが立ち上がってテレビのあるソファーの場所に移動するので、雛鳥のように後を追う。こんなお化けみたいなモノと触れ合う仕事だが、人工的に作られた恐怖は何故かあまり得意じゃなくておずおずと答えると、七海さんは馬鹿にする事なくただ頷いてくれた。
これまた質が良さそうなソファーに七海さんは腰掛けて、一瞬どこに座ろうか悩む。しかしそれも見透かされてるようで、隣を目線で訴えかけられるので諦めて横に座った。二人用よりも少し広いソファーも、重さで重心が少しお互いの方に傾く分距離が遠いわけではなくて緊張してしまう。
「それではコチラはどうですか?」
「これ、小説が映画化したやつですね!気にな、ってて…」
慣れた手つきでテレビのリモコンを操作して何個か映画をピックアップしてくれる。一つがコマーシャルで流れていた作品で、嬉しくなって隣の七海さんを見ると画面じゃなくて此方を見ていて次の言葉が出てこなかった。
「…あんまり、見ないでください」
「どうしてですか?」
「だって、スッピンですし…」
視線から逃げたくて肘置きの方に体を寄せたけれど、結局ソファーの中だとあまり距離を空ける事は出来なかった。飾り気もない今の自分は何やってもカッコいい七海さんの隣にいるのも申し訳なくて、せめて隠すように俯くけれど視界の中に入ってきた七海さんの手が頬に添えられそのまま簡単に顔も上げられてしまった。
「素の貴女も、普段の貴女も同じくらい魅力的ですよ。」
とんだ殺し文句だ。そんなわけないのは自分でわかってるのに。でも優しくまるで慈愛に満ちたような瞳で見つめられると、嫌でも期待してしまう。
「七海さんて、ズルイです…」
「ズルい私は嫌いですか?」
せめてもの抵抗で言葉を振り絞るけれど、百歩上の言葉を返されて脳みそはどんどん熱に浮かされてよくわからなくなって麻痺しそうだ。七海さんが少しだけ身を乗り出すと、あっという間に離れた時よりも二人の距離は詰まってしまった。
「いいえ…そういう訳では…」
ふるふると小さく頭を振れば、頬にあった手はそのまま耳へと滑っていく。触るか触らないかのタッチが擽ったいけど心地よくて、七海さんはもしかしたら耳フェチなのかな、なんてぽやぽやした頭で考えながら目を閉じた。
「髪、下ろすと普段と雰囲気変わりますね」
真っ暗な視界の中で、七海さんの声が響く。耳から髪に指先は移ったのが伝わってきて、どうやら指先でくるくると私の髪を巻き付けているようだった。目を閉じるのは、逆効果だったかもしれない。七海さんの声が耳から脳に伝わって溶けてしまいそうだ。ゆっくりと瞼を開けると、昼間なのに影が落ちていた。
「同じ香りがするのも、悪くない」
影の正体は、目の前の七海さんで、目を閉じた時よりも縮まった距離のせいでこつりと膝同時がぶつかった。七海さんは指先に絡めていた髪を解いて、そのまま私の肩口に顔を埋める。すぅっと息を吸い込む七海さんの呼吸と体温を全身で感じて、勢いよく血流が循環していくのが顔からも心臓からもわかる。
「な、なみさ…」
固まってしまってる私を他所に、七海さんは肩から体を起こすとゆっくりとした動作で顔を覗き込んでくる。キス、するのかと思って、ビクリと肩を揺らすと丁度そのタイミングで映画の軽快な音楽が部屋に鳴り響く。どうやら最初の他の作品の紹介コマーシャルはあっという間に終わってしまったようだった。喋り始めた主人公の声を遠くで聞きながら、目の前の七海さんの深い海みたいな色の瞳と視線が絡まり合って、本当に溺れてしまいそうだった。
「…始まりましたよ。」
奥にチリチリと熱を感じるような目を細めると、七海さんは静かに呟いて体を離して何事もなかったかのようにソファーに座り直しテレビに向かう。その横顔は相変わらず綺麗で、顔色なんてひとつも変わってない。やっぱり、七海さんは本当にズルい。これじゃあ、私ばっかりドキドキしていて、私ばっかり一喜一憂して、私ばっかり好きみたいだ。あんなに見たかった映画だけど、結局全然集中できなくて何一つ内容は頭に入ってこなかった。
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