心臓が冷えていく音がした
「おはようございます。体調はもう大丈夫ですか?」
クルクルと、ただただ無心に指先でボールペンを回している時に、隣の席からギィッと軋む音が鳴り聞き慣れた声で話しかけられる。その声でどこか遠くに飛んでいっていた意識が戻ってきて、その拍子で指先からボールペンが逃げ出しテーブルに静かに転がった。隣を見れば伊知地くんがそんな私の顔色を伺うように覗き込んでいて、椅子を引いて体ごと彼の方に向き直り小さく頭を下げた。
「うん、もう平気。仕事変わってくれてありがとね。」
「いえいえ、こういうのはお互い様ですから。」
伊知地くんも頭を下げ返してくれて、二人で頭を上げてなんとなく笑い合う。本当に学生の時から彼にはたくさん助けられてばかりだ。改めて互いに一晩であっという間に溜まった書類の山に取り掛かるけれど、私はどうしても上の空でただ書類の文字を目で追うことしか出来なかった。
「…ねぇ、」
「はい?」
やっぱり集中出来なくて、声をかけると伊知地くんが書類から顔を上げる。今日の伊知地くんは少しだけクマが薄い気がして、昨日は少し休めたのかもしれない。
「あの、」
折角手を止めてくれてるのだから話さなきゃ、と思うのに、上手いこと言葉が出てこない。口を開けては閉じてを繰り返していると、それでも伊知地くんは急かすこともなくじっと此方を見て言葉を待ってくれていた。じわじわと背中の方から何か込み上げてきて、変な汗が出てきた気がする。ゴクリと一度唾を飲み込んでから、意を決して膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「あのね、私、な…七海さんに、告白…しようかと…思って…ですね…」
この間、七海さんに食事に誘われた。伝えたい事がある、と。これまで七海さんとお話しして、一緒の時間を過ごして、そして触れ合って。もし、私の思い過ごしでなければ、私のこの想いと彼も同じ気持ちでいてくれたらとずっと考えていた。明日がついに約束の食事の日で、それがどんな内容でどんな結果であっても、自分の気持ちを絶対に伝えようとこの数日でやっと決心した。
なので、その前にずっと隣で見守ってくれていた伊知地くんにどうしても報告したかったのだ。恥ずかしくなって握った拳に視線を落としたまま途切れ途切れに決意表明をしたけれど、いつまでも返事が返ってこないのでおずおずと顔を上げる。すると、伊知地くんは何だか泣きそうな顔をしていた。
「頑張ってください!!」
普段の彼からは想像も出来ない大きめの声量に、私だけでなくて事務室にいる何人かも驚いたように書類の隙間から顔を覗かせて此方を見てきた。伊知地くんは慌てて周りにすみませんと謝っていて、その姿を見るとつい吹き出してしまった。
「ははっ!もー、なにー?力強すぎるよー」
「す、すみません!つい…」
オロオロとしている姿にまた笑ってしまって、それを見て伊知地くんも釣られて少しだけ笑う。その姿が何だか学生の頃の幼さが残った彼の顔が脳裏に過って、彼との過ごした月日の長さと今まで沢山相談して愚痴と惚気を聞いてもらった日々をしみじみと思い出された。
「ふふ、ありがとう。」
フラれたとしても、今なら何だか怖くない気がする。私はもう昔の焦がれていただけの何も出来ない少女ではなくて、これでも大人になった。私なりに背伸びして考えて彼の事を想って頑張った、つもりだ。玉砕したら伊知地くんを連れ回して浴びるほどお酒を飲んで、五条さんに高級店に連れてってもらって美味しいご飯を食べてやろう。そう思いながら自分に気合いに入れるついでに伊知地くんの背中を思い切り手のひらでバシッと叩くと、次は痛みに悶えた声が事務室に響いた。
□■□
「やっと終わったー……全く、社畜にも程があるわ」
最近はペーパーレスな世の中で自分達もパソコンやタブレットなどを使っているのにも関わらず、あんなに報告書や調査資料などが山積みになるのは本当によく意味がわからない。外はあっという間に陽が落ちてきており、窓の外の遠い先に夕陽が沈み、夜空とグラデーションが出来ている。凝り固まった肩を回しながら気分転換がてらに自動販売機を目指して廊下を歩きながら、ふと自分の指先が視界に入って視線を落とした。
「…明日、何着ようかな…」
短く切られていて何も色が塗られていない艶のない爪。仕事柄こまめにメンテナンスすることが出来ないから仕方ないけれど、味気ない爪はとても貧相に見えて爪先を弄ると少し先が欠けていた。七海さんと食事に行くときは少しでも可愛く見られたい。彼が可愛いタイプが好きなのか、それともセクシー系な大人な雰囲気が好きなのかは知らないけれど、それでも少しでもマシに見られたいと思う。
今から帰ってクローゼットの中を漁って服を決めて、お風呂に入りスキンケアを念入りにして明日のシュミレーションをしたら結構遅い時間になりそうだ。寝坊しないようにしなくてはと思いながら爪から顔を上げると、廊下の先に角を曲がっていく恋焦がれた後ろ姿が視界の端に過ぎった。
「なな…」
「七海さん、」
小走りで後を追って私も角を曲がろうとした瞬間、自分よりも先に彼の名前を呼ぶ声が聞こえて寸前のところで慌てて壁に沿って隠れた。そろりとあちら側を覗き込んでみると、自動販売機の前に七海さんと女性の姿があった。
「先日はご馳走様でした、とても美味しかったです。」
ふんわりと巻かれた栗色の髪の毛は艶やかで柔らかそうで、顔はちょうどこの角度では見えないけれど凛と響く声できっと綺麗な人なのは伝わってくる。背丈は平均より高めで、スカートに包まれた脚は程よい筋肉と脂肪がついており女性としても呪術師としてもスタイルが良いといっていいだろう。
「いえ、大したものじゃないので構いません。」
彼女に向き直って恋焦がれた声で話す彼の言葉は、一言一句しっかりと私の耳に届く。会話的に、食事にでも出かけたのだろうか?何だか胸と背筋がソワソワして落ち着かなくて、胸元をぎゅっと握り締める。二人に存在を気付かれないように彼らから目を逸らして、壁に背中を沿わせるように身を隠すと息を顰めた。
「七海さん。もしよろしければ、今度お食事でもいかがですか?」
ヒュッと、短く自分の呼吸の音がする。まるで水中に潜っているみたいに耳元に膜が貼って、二人の話し声が上手く聞こえず脳で内容を処理出来ない。二人で、食事に行くのか。どんなところに行くのかな?私と行ったお店とまた違うお店かな?七海さんは大人だから、きっと他にもお洒落なお店も沢山知っているんだろうな。
「…あの、七海さんはお付き合いされてる方はいらっしゃるんでしょうか?」
グルグルと脳内で色々な事が巡っている時に、その声だけはハッキリと耳に届いてハッとして物陰から顔を出した。立ち話で立ち位置が変わったのか、七海さんは広い背中しか見えないけれど相手の顔はちょうど見える位置に立っていた。
確か、何度か送迎で任務に同行したことのある呪術師の女性だ。補助監督の私たちにも気配りも出来る優しい人で、切れ目な瞳が笑った時にくしゃっと細められるのが可愛らしかったのを覚えてる。その質問をした彼女は、頬が赤く色付いていて瞳は潤んでおり、どういう意図で質問しているのかなんて私でもわかった。
「あまりそういう事に興味がありませんので。」
そんな彼女にそう言う七海さんがどんな表情をしているのかは見えないけれど、キッパリと言い放たれる言葉はズクリと私の胸に刺さった。背筋から指先まで冷たい感覚が広がってきて、学生時代からちょっとずつ積み上げてきた宝物の思い出達が崩れ落ちてしまう気がしてぎゅっと拳を握りしめる。私はそうやって自分の手を握りしめて己を保っているのに、悲しそうに一瞬眉を寄せた彼女は一度だけゆっくり瞬きをして、細い指先で七海さんの腕を撫でる。七海さんはピクリと一瞬揺れて、そのまま彼女を見下ろしていた。
「…そしたら、私なんてどうですか?」
七海さんが拒絶しないのを確認すると、彼女はするりとスーツの布地を撫でるように手を這わせて腕を絡めた。声色は先程よりも甘さを帯びていて、また一歩距離を詰めると彼女の髪が揺れる。嗅いだことのない良い香りが、此方まで届くんじゃないかと思った。すると、七海さんが一歩足を踏み込んだので背中しか見えなかった位置から体の角度が代わる。もう少しで彼の顔が見えそうと思った瞬間、七海さんが彼女をどんな瞳で見つめて、どんな言葉を囁くのかを知るのが怖くなって思わず背を向けてその場から逃げ出した。
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