溺れる。


大人になって夜食を作る話


 ふと意識が浮上してきて、ゆっくりと瞼を開ける。眠りから覚めたけれど、まだ部屋は薄暗かった。枕元のスマホを手探りでとって横のボタンを押すと、いきなり目の前が明るくなって眩しくて目を細める。液晶に表示されているのは二時半の数字で、アラームが鳴る時間よりもだいぶ早い。外は雨が降っていて、しとしとと地面を濡らす音が窓から聞こえてくる。どうやら眠りが浅い時間に雨の音で起きてしまったみたいだ。
「…まだ七海帰ってきてないんだ…」
 のそりと起き上がって隣を見ると、クイーンサイズの大きめのベッドに七海の姿はなかった。今日は日付を跨ぐ前に帰れそうと言っていたけど、どうやら彼の大嫌いな定時を大幅に超えているらしい。
 目が覚めると今まで気にならなかった喉の渇きを感じてベットから抜け出る。生温い廊下の感触を感じながらキッチンに向かって、電気をつけないまま冷蔵庫を開ける。冷やしていたお茶を手にとって、食洗機を開けると寝る前にスイッチを入れたので食器たちはすっかり乾いていた。乾かされてまだ少し暖かいコップと、冷たいお茶は寝起きには逆にちょうどいい温度になってくれて、一気飲みすると乾いた喉が潤うのを感じる。
「なんか、変に目が冴えちゃったな…」
 コップをシンクに置いて、小さく息を吐き出す。このままベットに戻ってもいいけど、多分寝付けなくて1時間くらい目を閉じてずっとゴロゴロしている気がする。かといって、テレビを見る気にもならない。
「…お腹空いた。」
どうしたものかとシンクに手を置いて考えていると、今度はちょっと小腹が空いている気がしてきた。珍しく定時終わりだったし七海も待たなくて良かったから、今日は夕方過ぎに夕飯を食べた。もうすっかり消化されきっていて、きっと胃の中は空っぽだ。
「よし、作るか。」
 自覚すると、余計にお腹が空いてきた気がする。とりあえずキッチンの電気だけつけて、お茶を戻すついでに冷蔵庫の中身を覗き込んだ。食材は野菜などはあるけど肉魚などのナマモノは少ない。今日の残りのおかずはあるけど、明日のお弁当に使いたいから悩ましい。冷凍庫にならお肉もあるけど、わざわざ夜食程度に解凍するのも億劫で、手軽で食べれるものはないかと唸っていると、ふと思い出して冷蔵庫を閉め代わりに戸棚を開けた。
「おっ、」
 中を見ると缶詰や海苔などの他に、インスタントラーメンの袋もあった。一人暮らしの時は面倒だからカップラーメンを沢山買いだめしていたけれど、七海と暮らすようになって時間がある方が食事を作るので中々買う機会が少なくなった。この間スーパーで不意に食べたくなって買ったのをすっかり忘れていた。過去の自分グッジョブだ。
 早速鍋に水を入れて火にかける。短い火花を出しながらコンロに火がついて、せっかちな私はとりあえず強火にしてお湯が沸くのをじっと見つめる。その時、廊下の向こうでガチャリと音が鳴った。
「おかえり七海。お疲れ様」
 音の主は同じ鍵を持っている七海で、キッチンから顔を覗かせて声をかける。七海は疲労を滲ませた顔を上げて、少し驚いたような表情をしていた。
「ただいま帰りました。…起きてたんですね。」
「ううん、寝てたけどなんか目ぇ覚めちゃって。」
 それだけ伝えると、火をつけたままなので早足でキッチンに戻った。強火のお陰でお湯は沸々と沸いていた。一旦中火にして戸棚からラーメンの袋と取り出している時に、ジャケットを脱いで抱えている七海がリビングにやってきた。
「七海も食べる?まだ間に合うよ。」
「そしたら、お願いします。」
「はぁーい。お風呂は?」
「先に食べてしまいます。」
「了解!手洗っておいでー」
 七海が荷物を置きに自室に向かうのを見守って、キッチンにあるお風呂の追い焚きボタンを押してあげる。私が入ってから結構な時間が経ってるから、きっとラーメンを今から作って食べた頃に冷めたお風呂が温まってちょうどいいタイミングだろう。さて、七海も食べるとなるとお湯が足りないから、計量カップで一人分の水を入れて沸いたお湯に注ぎ込む。温度が一気に下がって湯気の出が収まったので、もう一度強火にし直した。再度沸くまでじっと見つめて待っていると、ネクタイを外して少しくたびれた様子の七海がキッチンに入ってきて、私の背後にやってくると腰元に腕が回ってきた。
「こら、火傷するよ。」
 別に揚げ物じゃないから平気だけど、何となく照れ臭くてそう言うが特に七海が離れることはなかった。寧ろ腕の力は弱まって、少し身を屈めると私の肩に顎を置いてくる。背中全体で七海の体温を感じて、それがとても安心した。
「…懐かしいですね。」
 私の手元を覗き込む七海はそう言葉を漏らす。お湯は案外すぐに沸いたので、インスタントラーメンの袋を二つ分開いて鍋の中に小さなカケラも残さずに入れた。
「そうなの、なんか無性に思い出しちゃって。深夜の誘惑に道連れにしてみた。」
「あの頃と違って、歳を重ねた今は明日に響きそうですね。」
「ね。明日顔浮腫んじゃいそう。」
 七海が言っているのは、多分学生時代の話だ。一番最初に彼とラーメンを食べた事は、昨日のことのように鮮明に覚えてる。美味しかったし、何より楽しかった。そして何より、私たちは3人だった。
きっとあの頃と違ってアラサーに近づいている私たちは、明日は朝から胃もたれに苦しむと思うし、顔がパンパンで五条さん辺りにいじられると思う。クスクスと笑いながら鍋に視線を落とすと、もうすぐで茹で上がりそうだった。
「……ねぇ、七海、」
 七海は死なないでね。とか、沢山生きてほしい。とか。そういう言葉は、簡単に呪いになってしまうから言えない。大好きなのに心の底からの言葉を全て言えないなんて、本当に難儀な世界だ。名前を呼んだけれど何も言葉に出来ないでいると、肩に顎を置いていた七海が私の頬に頬擦りした。首を回して彼を見ると、目が合うけど至近距離過ぎて少しピントが合いずらい。七海は多分私が言いたいことをなんとなく伝わってみたいで、返事するように触れる程度のキスを一つ落としてくれた。
「…熱いので私が器を持って行きます。」
 そう言って体を離すと、七海は食器棚から丼を二つ取り出す。いつの間にか手元のラーメンは茹で上がっていた。お言葉に甘えて二人分のお茶を持って席に座って待っていると、暫くして七海がラーメンを両手に持ってやってくる。テーブルに置かれたラーメンは湯気が揺らめていて、お腹がきゅぅと小さく鳴った。
「いただきまーす」
 食卓を囲む頃には時計の針は三時過ぎていた。二人で手を合わせて目の前に覗き込む丼の中には素朴な麺だけが入っていて、あの頃と違って卵もネギもない。またあの頃のようにドライネギを買っておこうと思いながら麺を箸で掬うと湯気が沸き立った。息を何度か吹きかけて麺を頬張ると、豚骨の汁を吸った麺の味が口の中に広がった。 
「うん、やっぱり深夜のラーメンは美味さ二割増だね!」
「そうですね。疲れた体に沁みます。」
 そう感想を漏らすと、それからは二人で無言で麺を啜った。具がない分、あっという間に食べ終わってゆらゆらと控えめに入ってる加薬のネギと揺れるスープを眺めて息を吐き出す。昔はスープまで飲み干していたけど、もう大人の私には胃的にも明日の浮腫み的にもそんな事は出来なかった。
「食器は洗っておくので、歯磨きして先に寝ていてください。」
「うーん……。」
 暖かいラーメンに胃も体も温まって、空腹が満たされたのもあり一気に眠気が押し寄せてきた。座って動かない私の丼も持って立ち上がる七海の背中を見送りながら間延びした返事を返す。シンクに置き手早く洗ってる七海をぼんやりと眺めて、純粋に恋しいと思った。
「…一緒に寝たい。」
 ぽそりと呟くと、洗い終えた七海が顔を上げる。かけてあるタオルで手を拭いて此方に歩いてくると、きっと寝癖がついている私の髪を撫でた。
「シャワーを浴びて私もすぐにきます。一緒にいますよ。」
「ん…」
 髪の毛一本一本を解くように撫でて、前髪を避けると額に軽く口付ける。あの時は隣に並んでいただけの私たちでは、きっと今の彼との関係は想像出来なかったんだろうな、と思いながら気の抜けた返事を返して目を閉じる。すると真っ暗な世界で七海が笑う気配がして、次は唇にキスを落としてくれた。


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