美味しい貴女の食べ方。
「つーかーれーたぁ…」
玄関のドアを開けた瞬間、自然と本音が漏れ出してくる。パンプスを乱雑に脱ぎ捨てると足先の圧迫感は少し減ったのに、何だかどっと疲れが込み上げてきた。重い足でダラダラと廊下を歩いて扉を開けると、クーラーの涼しい風が肌を撫でると共にいい匂いが鼻腔を擽った。
「おかえりなさい。お疲れ様です。」
「んー…ただいまー」
キッチンに食器を洗っている七海くんのがいて、力無く返事しながらノロノロと近付いて隣に立つ。そしたら私の意図がわかったのか、少しだけ身を屈めてちゅっと触れ合う程度のキスを落としてくれた。お付き合いを始めてから、おかえりとただいまを言う事と、挨拶をするようにキスするのがいつの間にか日課になってきた。
「晩御飯の前にお風呂に入ってきますか?お湯溜まってますよ」
私の顔を覗き込んで問いかけてくれる瞳はいつもの特徴的なサングラスをしていない。七海くんのガラスみたいに透き通った綺麗な瞳の色が、私は好きだ。疲れた体は湯船できっと癒やされるのは分かりきっているけれど、どうにも離れ難くて曖昧に返事するように唸りながら彼の背に回ると後ろからぎゅっと抱きついた。
「あと五分したら動く…」
「そう言って、30分は動かないでしょう?」
どうにか手が回るくらい、七海くんの体は分厚くて改めて男女の体格差を感じさせる。青いシャツに顔を埋めて鼻先を押し付けるようにぐりぐりと広い背中に擦り寄ると、七海くんの嗅ぎ慣れた香水の香りとほんのり汗と男性らしい体臭がする。全て見透かしたような台詞を呟く声色は少し笑っている気がして、顔を離すと先程の香りがする。
「今日の晩御飯、もしかして…」
「カレーですよ。」
彼の逞しい腕の間からひょっこり顔を覗かせて手元を見ると、鍋の中のカレーを七海くんがゆっくりと混ぜている。それを見るとお腹が正直にきゅうっと鳴って、その音が聞こえたのか頭上でまた七海くんは笑った。お腹は空いてるけど、胸があったかいもので満たされていく。
「覚えててくれて、ありがと!七海も疲れてるのにごめんね?」
昨日、テレビで今人気なカレー店!と大きなテロップで芸能人がロケに行ってるバライティーをテレビをつけてたら流れ出したから何となく見ていた。色んなスパイスや隠し味を使うお店が順番に紹介されると、思考は正直でまんまとカレー食べたいなとポツリと呟いた。七海くんは読みかけの本を読んでいたけど、きっとその一言を拾ってくれていたんだと思う。そういう小さな幸せが嬉しくて、もう一度ぎゅーっと精一杯の力を込めて抱き着くと、七海くんは回された私の手を指先で撫でて大きな手で包み込んでくれる。
「忙しいのですから、お互い様です。私も貴女の手料理が好きなので」
紳士的で、優しい七海くんが好き。一緒に暮らしているからずっと一緒なのに、毎日好きが更新されて尽きることがない。トクトクと規則正しい鼓動に耳をすませてると、抱きついていた手を剥がされた。空いてしまった距離が不服で唇を尖らせると、口元を緩ませた七海くんが可愛らしいリップ音をたてながらキスしてくれる。そうすると、少し身を屈めて私の膝裏に腕を回してきた。
「ひゃ、わ!?」
ぐんっと体がいきなり重力に逆らって浮上して、慌てて近くにあった彼の首に手を回した。どうやら一歩歩き出した七海くんに俗に言うお姫抱っこをされているらしくて、宙ぶらりんの足が彼が歩くたびに少しだけ揺れる。
「もう…動くって言ったのに。」
キッチンを出て廊下を歩くと、すぐに脱衣所についてしまった。触れ合う体温が心地よく感じ始めた時にゆっくりと足元から床へと下ろされてしまって、また私は表情に出ていたのか今度は額にキスを落としてくれる。
「ゆっくり湯船に浸かって疲れを取ってきてください。」
頭を撫でる指先がそのまま髪を結んでいたゴムを解いて、それだけでも頭の圧迫感が減った気がした。手が徐々に下がっていって私の第一ボタンにかけられた時にハッとして自分でやると声をかければ、珍しくすんなりと離れていった。危ない、今日はあんまり可愛くない下着だから見られたくない。同じ屋根の下にいるから洗濯物なんて把握されているかもだけど、一緒に暮らしてるからこそ大切な事だと思う。
私が脱ぐまで動かない七海くんを無理矢理脱衣所から追い出して、汚れた衣服を手早く脱いで浴室の扉を開ければ蒸気が外へと漏れ出してくる。シャワーを頭から浴びて、私用と七海くん用に分けられたシャンプーを泡立てれば花の香りが浴室に広がってきた。
「あったかーい…」
湯船に足先を入れただけで、ほぅっと思わず息が漏れる。追い焚きをしてくれたのか、温度は冷めてなくて丁度いい。ゆっくりと瞼を閉じたら、そのまま寝れちゃいそうだ。炭酸の入浴剤を入れるとシュワシュワと泡を立てながらお湯に色付けてくる。すぐに上がるのは勿体無くて、10分くらい浸かりながら足や肩をマッサージしてると意識もスッキリしてきた気がする。一番風呂を譲ってくれた七海くんにもこの気持ちを味わって欲しいなと思ってると、たかが10分そこらなのに会いたいなと思ってしまって名残惜しいけれどお風呂から上がってしまう私はいろんな意味で逆上せているのかもしれない。
「こら、髪を乾かしなさい。」
「先に七海くんの作ったご飯が食べたいの!お腹減っちゃった!」
いつの間にか脱衣所に用意してもらっていた寝巻きに着替えて、ある程度水気を拭き取った髪をお団子にしてリビングに戻るとすぐに七海くんからお叱りの言葉が飛んでくる。でもその声色はそんなに尖っていないからとても怒ってる訳ではなくて、私は無視して先にダイニングテーブルのいつもの定位置に腰掛けた。そうすると七海くんは諦めたように、深く溜め息を吐いてキッチンに戻っていく。
「何か飲みますか?ビールとワインもあります」
「んーーー、そしたらビール!」
冷蔵庫を開ける音を聞きながら答えれば、キンキンに冷えた缶とコップが運ばれてきてそれだけで唾が溢れそう。泡との黄金比を意識しながらお揃いのコップに注いでいる内に、温め直されたカレーも運ばれてきた。カレーを盛り付けているお皿も、この間二人でアウトレットの雑貨屋さんで購入したものだった。向かい側に座る七海くんと視線を合わせて、お礼も込めていただきますと呟く。お互いに労いの言葉をかけながらコップを傾けるとガラスのぶつかり合う音が部屋に響いた。
「美味しー…沁み渡る…」
お肉を掬いながら少し大きめの一口を口に招き入れた瞬間、美味しさが広がって思わずテーブルの下の足をばたつかせて目を細める。そんな様子を見て、七海くんは安心したように食べはじめた。
「すごく美味しいね!ルー変えたの?」
「いえ、水の代わりにトマト缶を使いました」
3口食べて、ビールを流し込むと疲れた体にじんわりと広がってくる。もう一口カレーを口に運んで首を傾げると、もぐもぐと咀嚼して飲み込んだ後七海くんが答えてくれた。なるほど、だからいつもより深みもあってそれでいてフルーティーな食べやすさもあるのか。きっと玉ねぎだってしっかり飴色になるまで炒めてくれてるし、下ごしらえもしっかりしてくれてるんだろう。人によって同じメニューでも作り方が全然違うから面白いなぁと愛情の込められたカレーを見下ろしてると、冷めますよと声をかけられたから美味しい内に食べることに専念することにした。
「ご馳走様!美味しかったです!」
「喜んでいただけてよかったです。」
空腹が満たされると、それだけで疲労などで体に空いた穴も満たされる気がする。二人で軽く水で汚れを流してから食洗機に入れ終わると、七海くんが先にキッチンから出ていってしまった。トイレかな、なんてお茶を立ったまま飲んでると七海くんがドライヤーを持ってすぐ戻ってきた。ソファーに腰掛けコンセントにドライヤーを刺して、ポンポンと足の間を叩いてくる。意味がわかると、どうしようもなく頬が緩んでしまった。
「えへへ…」
カーペットの上に膝を抱き寄せるように七海くんの足の間に体育座りすると、ゴムを解いてくれてまだ少し濡れている髪が肩に落ちた。きちんとオイルを手のひらで馴染ませて絡まらないように手櫛で整えてから、スイッチの音と共に風の音が部屋に響き渡る。ゆっくりと、まるで撫でるように根本から乾かしてくれて大きな手の感触も温風も全て気持ちがいい。
「熱くないですか?」
「うん、平気ー」
風の音が耳元で鳴っているけど、七海くんの声は何故かクリアに鼓膜に届く。何だか眠たくなってくるタイミングで、水気がなくなってきていた髪の毛はあっという間に乾いてしまった。
七海くんにお礼を言えば、つむじにキスをしてドライヤーを置きに立ち上がり脱衣所に行ってしまう。この短時間で体が軽くなった気がして、伸びをしてると戻ってきた彼の手にまた違うものが握られていた。
「そこまでしてもらわなくていいよ、」
「私がやりたくてやってるんです。」
それは私がお気に入りのボディークリームで、少しだけ蜂蜜みたいに甘い香りのやつ。流石に仕事に追われてる日はお手入れなんて全然だが、こっそりとデートの前には絶対つけている。流石に申し訳なくて首を振るけれど、七海くんはまたソファーに腰掛けて次は此処に来いと空いている空間を叩いてくる。それ以上断る理由が見つからなくて、体を起こしてそろりとソファーに乗り上げるとそのまま七海くんの膝に足を投げ出すように体制を整えられてしまった。クリームを手のひらに出してよく温めてから、ゆっくりと足を滑らせていくのをただただ見つめて息を細く吐き出す。
「気持ちいいですか?」
「んー…きもち…」
アキレス腱を関節を使って解して、浮腫んでしまって硬くなってるふくらはぎを強弱つけながら揉みほぐしてくれる。その力加減が絶妙で、どんどん血流が流れて暖かくなっていくのがわかる。知らなかった、七海くんはマッサージも上手なのか。いつも鉈を振るい硬くなってる指先もクリームで潤って柔らかくて、とても気持ちがいい。素直に言葉を漏らしながら体の力を抜けば、七海くんは口元を緩めて次の足に移るべくまた手のひらにクリームを出していた。
「私、このままだと七海くんなしじゃ生きてけなくなっちゃいそう…」
ご飯からお風呂、髪の毛にマッサージまで至れり尽くせり過ぎる。それ以外にも、七海くんがいてくれるから大変な任務も頑張れると最近は思えるほどだった。このままだとダメ人間になってしまいそうで、困ったように眉を下げれば逆に七海くんは嬉しそうに切長の瞳を細めている。
「そのようにいてもらって構いません。」
ほら、この人は私をダメにしようとしてくる。心地よいマッサージも終わって物理的に足も軽くなって朝よりも万全の状態になった気がする。七海くんはクリームをサイドテーブルに落ちて、じっとこちらを見つめてくるのでソファーから落ちないように彼の元へ近寄って向き合うように跨ってみせた。そうするとちょうど胸元に七海くんの顔が埋まって擦り寄ってくるものだから擽ったくて笑い声を漏らしながらその頭を抱きしめた。
「ありがとね、七海くん。」
「ん、」
いつもはスタイリングして固められているブロンドの髪はシャンプー後だと羨ましいくらいサラサラで、ゆっくり感触を楽しむように撫でながらお礼を言えば短めの返事が下から返される。谷間に高い鼻先を埋めて深く息を吸い込んでいるのを見下ろしていると、見えない後ろで大きな手が太ももからお尻に這ってくる感覚がした。
「ふふ、七海くん、えっちしたいの?」
さわさわとお尻を撫でられるので、思わず笑ってしまった。首を傾げれば、やっと七海くんが胸元から顔を離して少しだけ上目遣いでこちらを見てくる。そんな姿も新鮮で、胸がキュンと締め付けられた。
「…次は、私がいただいても?」
「いーよー」
間延びした返事をすれば、お尻の手は服の隙間から中へと入ってきて直接腰を撫でゆっくりと背中へと登ってくる。そんな途中で、ふんわりと蜂蜜の匂いがしてふと何となく思考が過った。
「もしかして、私下ごしらえされてた?」
育てて、茹でて、捏ねて、味付けて。まるで丁寧に調理されてるみたいだな、なんて。本当に何気なくそう思っただけで、私にとっては冗談みたいな話題だった。
「さぁ、どうでしょう?」
でも私を見上げてくる瞳は一度瞬きした後細められて、口元は緩んでいる。肩甲骨の骨の形を確かめるように滑る指先に、やられたと思った時にはもう遅かった。私は本日二回目のいただきますとごちそうさまを言わなきゃいけないみたいだ。
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