溺れる。


週末、パン屋さんで待ち合わせ


小走りで目的地を目指しながら腕時計で時間を確認すると、普段の退勤時間よりも早い定時の時間前を表示している。どうにか時間の5分前に到着出来て、少しだけ上がった呼吸を立ち止まって整える。此処に来ると、いつも少しだけ緊張する。大きく息を吐き出して、インターホンを押した。
「はーい。」
「すみません、お電話した者なんですけど…」
機械越しの声は落ち着いた女性の声と、沢山の子供達のわーきゃー笑う声が聞こえてくる。私が名前を名乗れば自動ドアは開いて中へ踏み出した。
「あ、おねえちゃんだー!」
壁には画用紙で作られた沢山の動物の壁画や園のお便りが張り出されている。教室を覗き込めば十数人の園児がいて、その中で一人の女の子が私を見つければ大きな声をあげて手を振った。ひらりと手を振り返している間に、先生に手を引かれて連れてニコニコ笑顔で来られる。今日の園での様子を聞いて連絡帳や鞄を受け取ってから、その小さな手を今度は私が繋ぎ直した。
「どうしたの?今日ママはー?」
「ママね、ちょっとお仕事入っちゃったんだって。だから今日はお姉ちゃんとご飯食べよっか」
「うん!たべる!」
私の手をしっかり握り返してくれるのは私の妹の娘で、姪っ子ってやつだ。旦那が帰りが遅い妹は、どうしても仕事が抜けられない時に私に連絡してくる。呪術師の任務に同行や送迎がなければ、最悪私たち補助監督は自宅でも仕事は出来るからそういう時は申し訳ないが早上がりさせてもらってる。…その分、家でほぼ睡眠時間がないほど徹夜しなきゃいけないけど。呪術師の方々と違って補助監督は黒のスーツだから、こういう一般社会的に見ればただの公務員風に見えるから大変助かる。
「保育園はどう?楽しい?」
「うん!あのね、ママにはないしょだけど、なっちゃんたっくんがすきなの!」
「いいじゃんいいじゃーん!」
私と繋いだ手をゆらゆらしながら笑うなっちゃんは、今年で4歳になった。ついこの間まで赤ちゃんだったのに、今ではこんなにお喋りするから毎回会う度に驚きしかない。しかも好きな人がいるまでおませさんになったらしい。
妹の家まで大人が歩くと保育園から10分くらいだけど、彼女の歩幅だと倍以上かかる。ゆっくり歩幅を合わせて歩いて、時々私の手を引きながら小走りになるのでコケないように繋ぐ手に力を込めて追いかける。今日は途中で階段を登ったり座り込んで蟻を観察したりしないからスムーズかもしれない。そう思った矢先、なっちゃんの足がピタッと止まった。
「おねえちゃん、パンやさんいこ!」
キラキラとした目線と指差した先には住宅街の中にポツンと小さなパン屋さんがあった。きっと個人でしてるお店は外に黒板型の看板が置いてあって、何時にどのパンが焼けたのかが書かれていた。
「えー、ダメだよ。ママに怒られちゃうかも。」
 彼女がイヤイヤ期の時に、泣き狂ってテコでも動かなかったので一度だけスーパーでジュースを買ってあげた事がある。数日後に、その日から私から買ってあげたのを覚えたなっちゃんが毎日スーパーの前でギャン泣きしていると動画と共に妹から苦情がきたのが記憶に新しい。ダメだと首を振って見せるが、小さい手が繋いだ私の手を引っ張る力は体から想像出来ないくらい強かった。
「なっちゃんいつもママといってるよ!」
「えー、本当にぃ?」
 私を見上げてくる瞳は純粋でキラキラしている。本当の事を言っているのか、それともあざとく私がチョロいってわかってるからなのか子育て歴のない私にはわからなかった。悩ましくて唸ってる内に、ふんわりと良い匂いが香ってくる。ちょうどパン屋さんからお婆ちゃんが紙袋を抱えて出てくるところで、仕事終わりで疲れた胃には唆られる香りだった。
「…まぁ、明日の朝ご飯にもなるしいいか。」
「わーい!」
 諦めて立ち止まる為に彼女の手を掴んでいた力を緩めれば、なっちゃんは嬉しそうに飛び跳ねてパン屋さんに駆け出していく。慌てて追いかけて、小さい体で扉を一生懸命押そうとしているのを手助けしてやれば、カランコロンと鈴の音が鳴って扉が開いた。
「こんにちわぁー!」
 元気よく挨拶する声が、小さな店内に響き渡る。店内には店員さんの他に高校生らしき女の子二人組もいて、元気な挨拶にクスクス笑っていた。店員は慣れているのか挨拶を返してくれて、疑ってたけど本当に常連なのかもしれない。
「なっちゃん、レジでピッてするまではお店のパン触っちゃだめだよ」
「わかってるよ!なっちゃんおねえちゃんだもん!」
 トレイとトングを持って、机の上にあるパンを精一杯背伸びして覗き込んでいる彼女に声をかける。本当にわかってるのか怪しかったが、変に触ったりしないで店内をうろちょろしているから一応選んでいるっぽい。いつ予測出来ない動きをするか警戒しながら、自分も店内を見渡した。中身がぎっしり詰まってそうなクリームパンに色々な種類のライ麦パン、一斤やもう切られた食パンもあればフランスパンなど沢山のパンが並んでいた。もう夕方近いから欠品してるトレイもあって、商品名の横に人気ナンバーワンと書いてあるからきっとすぐ売り切れちゃうんだろ。仕事が忙しくてパンを買うのもコンビニに行くことが多いから内心ウキウキしていると、カランコロンとまた鈴が鳴る。反射的に振り返ると、背の高い男性で見慣れた柄のネクタイだった。
「…あれ、七海くん」
 そこには高専時代からの後輩の後輩がいて、思わず名前を呼ぶと彼も此方を見る。サングラス越しに薄らと見える瞳は少しだけ見開かれて、少しすればいつも通りになり彼も入り口周りに置いてあるトレイとトングを手に取った。
「こんにちは。こんな所で会うなんて奇遇ですね。」
「うん、初めて来たんだ。七海くんは?任務中?」
「いえ、家が近所なのでよく来るんです。」
 言葉を交わしていると、彼の目線はパンの棚に向かう。そうか、確か七海くんてパンが好きなんだっけ。知らなかったけど七海くんと妹の家は近所なのかなーっと呑気に考えていると、足元にどしんと小さな衝撃がした。よろける程ではない力に視線を下すと、すぐに原因が私の足にしがみついていた。
「ほら、ご挨拶は?」
 私にしがみついておずおずと七海くんを見上げている姪っ子に声をかけて背中を押そうと手を下ろしたけど、その前に私の後ろに素早く隠れてしまった。
「ムゥ…」
 どうやら人見知りしているらしい彼女は、モジモジとしながら小さく言葉を漏らす。確かに考えてみれば、小さな世界で生きている彼女は七海くんなんて超超超巨人さんなんだろう。そんな様子に困って笑ってしまっていると、七海くんは蹲み込んだ。
「こんにちは、お嬢さん。」
「……こんにちわぁ…」
 七海くんはサングラスを外して胸ポケットに外すと、なっちゃんと目線を合わせてゆっくりとした口調で話しかける。いつもより一音高い声色は優しくて、なっちゃんはひょっこり私の足から顔を覗かせてちょと舌足らずの声で挨拶を返す。返事を貰えたことで、七海くんはふっと笑った。
「私は七海建人と申します。」
「…わたし、なっちゃん!おにいちゃん、なっちゃんとおなまえいっしょだね!」
 七海くんの名前を聞いた途端、なっちゃんはパァっと顔を輝かせてあっという間に私の足から出てきて七海くんの目の前で飛び跳ね始めた。まさに私と七海くんは最初呆気に取られて、暫くして吹き出して笑ってしまった。
「ふふ、そっか。七海くんも一応なっちゃんなんだね。」
「なっちゃんね!3さいだよ!」
「なっちゃんは3の指が出来るんですね。すごいですね。」
「あのね、このパンおいしいの!よくママとたべるんだよ!」
 二人のなっちゃんを見下ろして私がクスクスと笑っていると、七海くんは彼女の頭を撫でてから立ち上がった。褒められてご満悦なようで、撫でられた所を自分でなでりなでりと小さな手で撫でながら得意げに聞かれてもない事を答えていた。それを聞くと、言われたパンを七海くんが自分のトレイに乗せるので、もうなっちゃんはさっきの人見知りが嘘みたいに満面笑顔で得意げだ。
「折角のオフなのに騒がしくてごめんね。」
「いえ、可愛らしいお嬢さんですね。」
 気を使わせてしまって申し訳なくてこっそり謝ると、七海くんは何でもないように答えて棚にあるカスクートもトングで掴んで乗せた。ずっとお喋りしていて全然私のトレイにはパンが乗っていないから、さっきのなっちゃんオススメの白パンをとりあえず妹と姪っ子の分と、あと自分の分で三つ乗せる。せっかくだから明日の私の昼ご飯用にもう一つ欲しくて、足元で何か言ってるなっちゃんの頭を撫でてあしらいながら残ったパン達を見渡して吟味した。
「…お子さんいらっしゃったんですね。」
「え?」
 ぽそりと言われた言葉に、ウィンナーパンを持ったまま振り返る。多分その言葉は私にかけられたもので、意味を理解するのに時間がかかった。数秒してなっちゃんの事を言ってるんだとわかって、思わず吹き出してしまった。
「あぁ、違う違う!この子は妹の娘なの!今日残業になっちゃったから迎えに行ってくれーって頼まれてさ!」
 足元でずっと喋ってる姪っ子を片手で抱き上げると、私が思っているよりもずっと重たかった。9キロくらいの抱っこしてくれー時期で体感時間が止まっているけど、きっとこの体重は十五キロなんて余裕で超えているんだろう。すぐ下そうとしたけど、今まで放置されていたのが抱っこしてもらえて嬉しいようで、私の首元に抱きついて来たから出来なくて気合いを入れて抱き上げ直した。
「やっぱり、この仕事してると中々婚期逃しちゃってさ。結婚式も孫も妹が叶えてくれたから、最近は重圧ないから楽でいいよ。」
 もう三十路も一歩手前になってくると、この手の話は聞かれ慣れたしのらりくらりと返事するのも慣れた。最初こそ昔からの体質のせいでこの仕事に着いたのもあり、親が“普通の幸せ“ってやつにこだわってお節介に色々言われた。大体、今のご時世で結婚するのが最大の幸せって概念が古すぎる。結婚して子供が生まれたとしても、今は共働きの人も多いし、何より独り身が寂しいなんて決めつけないでほしい。私は今の仕事が嫌いじゃないし、私が生きる場所だと思っている。そんな中、妹が結婚して孫が産まれてからは意識がそっちに行って、ぐんと口煩く言われるのが減ったのは助かっている。内心私の将来の心配の気持ちはあるんだろうけど、私の返事がずっと変わらないから半分諦めてるんだろう。
 
 いつもの様に笑ってそう言えばみんな何となくな相槌を打つけど、七海くんはただ黙っていた。思った反応じゃなくて何だか変に滑ってしまったような気持ちになって、ゆっくりとなっちゃんを下ろすと彼女からはブーイングを食らった。
「そしたら、私が立候補して大丈夫ですか?」
「ヘ?」
 体を起こしたタイミングで、予想してなかった言葉が飛んできて思わず間抜けな声が出てしまった。なっちゃんは難しい言葉だから理解してないのか、きょとんとして私と七海くんを交互に見ている。
「今回、ご結婚されているんだとショックでした。…しかしそういう訳ではないなら、もうこんな思いをするのはゴメンです。…なので、きちんとアピールさせて頂こうかと思いまして。」
「えっ、え…?」
 七海くんはそう言いながら、私の空いた手を取った私を見つめて予想外の言葉を並べてくる。ショックって、私が結婚してるかもって思ったことが?なんで?そう自問自答しながらも、ウブな少女ではないので遅れながらもちゃんと意味が理解出来る。触れ合った指先から顔まで徐々に熱が込み上げてきて、上手に返事が出来なかった。すると、足元で私たちを見ていたなっちゃんがハッとした表情をして七海くんを見上げる。
「おにいちゃん……もしかしておうじさまなの⁉︎」
 真面目な少女の発言は、あまりにもすっ飛んだ言葉で思わず二人で顔を見合わせた。彼女の瞳は今までにないくらいキラキラと輝いていて、まさに夢見る少女だ。
「よかったね、おねえちゃん!いつもはおうまさんにのったおうじさまがくるの、まってたもんね!」
「ちょ、ちょっと!なっちゃんシー!だよ!」
 ふんふんと鼻息荒く興奮した様子のなっちゃんの声が、店内に響き渡る。いつの間にか学生さんはいなくなっていて、代わりにおばあちゃんとおじいさんのご夫婦がレジにいらっしゃる。店員さんも含めて、私たちと様子と何よりなっちゃんの発言にクスクスと声を漏らし微笑ましく見守っていた。いつも彼女に絵本を読んであげながら夢を壊さないように答えていた内容をいきなり暴露されて、別の意味で顔が熱くなって慌てて彼女の口元を塞ぎたいけど、私の手は七海くんとトレイで塞がっていて身動きが取れなかった。慌てている私を他所に、足元の彼女は悪気のない笑顔でニコニコしている、
 きっと茹蛸みたいに真っ赤になっている私を見て、七海くんは口元を緩めると繋いでいた手を離す。するとまた蹲み込んで、なっちゃんと目線を合わせた。
「なっちゃんさん、お姉ちゃんを貰ってもいいですか?」
「いいよ!おにいちゃん、たっくんのつぎにかっこいいから!」
「そうですか、ありがとうございます。」
 いつの間にか私の知らないうちに、私自身の取引が決まってしまったらしい。とりあえずそのたっくんの顔は次のお迎えの時に探して拝まなければ。もうこのパン屋さん恥ずかしくて来れないなぁと現実逃避で色んな事を思っていると、七海くんが立ち上がったのでドキリとしてつい一歩後ずさってしまった。
「とりあえず、明日食事でもいかがですか?」
「え?あ、うん。わかった…」
 反射的に答えてしまったけれど、仕事何時までだっけ。あと確認しなきゃ。呆けている私の様子に七海くんは小さく笑って、指先で私がトレイを持つ手を撫でて、ほんの少し触れ合う程度に包み込まれる。すると七海くんとの距離が一瞬縮まった。
「今日は子供の目もありますので、また後日しっかり口説かせていただきます。」
私の耳元で囁かれた言葉は、確かに鼓膜に届いた。頭の位置が低いなっちゃんはきっと何も聴こえていないだろう。低い低音のその言葉に、全身の血液が心臓から一気に送り込まれるような感覚がした。それだけ言うと、七海くんは周りの人たちに怪しまれないようにすぐに体を離す。
「それでは、また遊びましょうね。」
「うん!バイバーイ!」
 なっちゃんの頭を撫でると、嬉しそう笑いながら彼女は大きく手を振った。軽く私にも挨拶をしてから、七海くんはレジへと歩いて行ってしまった。きっと厨房からも噂を聞きつけてレジで私たちを見ていた定員さんが、慌てて裏に戻って行ってレジ担当のエプロンをしたお姉さんも頬を赤らめながらワタワタと会計をしている。
「おねえちゃん、かぜひいちゃったの?おうちでなっちゃんの、あまーいおくすりあげようか?」
 七海くんがお店を出るのを両手を振って見送っていた彼女が、ずっと立ち尽くしている私を見て首を傾げた。きっと薬を飲めるように妹が専用のシロップでも買っているんだろう。自慢げに自分は薬を飲めるお姉さんなのだと胸を張っている小さな頭を撫でて私もレジに向かった。
「ううん、大丈夫だよ。なっちゃんありがとね。」
 今の私はなっちゃんにも定員さんのお姉さんにもバレちゃうくらい顔が真っ赤なんだろう。恥ずかしくて定員さんの顔が見れなkて、白パンを一つずつ梱包してくれるお姉さんの手元だけ見ていた。そうしていると、スマホがポコンと通知音が鳴って画面が明るくなる。五分前に迎えに行ってくれてありがとう!と妹から来ているトークの通知と、今さっきまで心回乱してきた後輩の名前も表示される。トークはURLが途中まで表示されている。多分明日行くお店の候補なのかもしれない。仕事が早すぎる。彼が去ってもまだドキドキと煩い心臓の音を感じながら、財布の小銭を出すと動揺が指先に出て十円玉を落としてしまった。意気揚々と拾ってくれるなっちゃんにから受け取って、また変な噂を立てられないように家に帰ってから一人別部屋でトークは見ようと決心し、とりあえずパンのお代の支払いをして小さな手を握りしめ店を出た。



- 13 -

*前次#


ページ: