溺れる。


七海建人の誕生日に一緒にパンを焼くお話



「七海さんに相談があるんですけど…」

お風呂も済ませてソファーで先月買って読めていなかった小説のページを捲っている途中で、キッチンにいた彼女が濡れた手を拭きながら此方にやってきた。顔を上げるとなんとなく様子を伺うように私を見ていて、一度読みかけのページに栞を挟み本を閉じる。隣のスペースを促すように手で数回叩けば、彼女は素直に腰掛け少し低い位置から見上げてきた。

「どうしました?」

頬にかかった柔らかい髪の毛を耳にかけてやりながら問いかけると、彼女の目は柔らかく細められる。少しだけ手に擦り寄ってくる仕草は、まるで猫のようだといつも思う。おずおずと此方を見上げてきて、少し悩ましそうにしてからゆっくりと小さな口を開けた。

「ホームベーカリー、買おうかと思うんだけど…どう思う?」

深刻な話かと思って身構えていたので、出てきたワードに一瞬反応出来ずに動きを止めてしまった。彼女はそれを良い答えだと思わなかったのか、瞳を不安で揺らすので柔らかい頬に手を這わせてゆっくりと撫でる。

「パンを作りたいんですか?」

ホールベーカリーが欲しいということは、そういう事だろう。彼女は一緒に暮らし始めてから様々な料理を作ってくれる。彼女自身も補助監督として忙しいのにも関わらず、先に帰っている時は夕飯のいい香りと共に出迎えてくれて、その度に帰ってくる幸せを噛み締めている。料理のレパートリーを増やしたいと数日前にボヤいていたのでそのせいだろうかと思い問いかければ、撫でていた頬はほんのりだけ赤く色づき触れている場所の体温が上がるのを感じた。

「七海さんが、パン好きだから…少しでも美味しいの、作ってあげたいなーって、思いまして…」

照れ臭そうに、後半消え入りそうな声を漏らしながら視線を外して伏せられる長い睫毛は少しだけ影を作っている。自分の事を想ってそんな事を考えてくれる彼女が愛おしくて、前髪に隠れた額、伏せられた瞼、赤らんだ頬の順番で唇を落としていく。

「とても嬉しいです。ありがとうございます。」

最後に柔らかい唇に口付けると彼女は擽ったそうに、そして恥ずかしそうにへらりと笑う。そして向かい合って座っても少し低い位置にある頭が背伸びして触れる程度のキスをしてくれると、ちゅっと小さく可愛らしいリップ音が鳴った。

「でも、忙しいからちゃんと使いこなせるか自信なくて…」

一度だけキスをしてゆっくり離れた彼女が困ったように薄く眉間の皺を作りながら呟く。なるほど、意見を求めてきた理由がやっとわかり刻まれた皺を親指で伸ばしてあげながら少し考える。

「そしたら、一度作ってみますか?」

すぐに元通りに戻った彼女は私の言葉に本当にキョトンと音がつきそうな表情で見つめてくる。本当に、毎日毎時間新しい表情が見えて全く飽きないなとそんな顔を見て改めて思った。

「…ホームベーカリーなしでも作れるんですか?」
「確かオーブンで発酵などすれば作れたはずです」

テーブルに置いたスマホを手に取りWebサイトで検索しながら指を滑らせていると、すぐに様々な初心者向けのページを紹介してくれる。ページを次々に開いている間、隣の彼女が声を発さなくなった。どうしたのかと顔を上げると此方を見て何か探るような目線を送られていたので、彼女の意図がすぐにわかって口元を少し上げる。

「作ったことはないですよ、動画などは見たことあるくらいです。」
「なぁんだ。」

おおよそ私も自炊はするので完璧にパンも作るのかと期待していたのだろう。社会人の時に特に作る暇などないが時折動画サイトでパンをこねる動画などをただただ無心に眺めていた事を伝えれば、少し残念そうに足を投げ出している。彼女は少し考えるように天井を見上げ、十秒もしない内にまた体を起こすと嬉しそうに顔を綻ばせて笑う。

「作ってみたいです!」

彼女の表情の中で、一番笑っている顔が好きだ。仕事場でも皆の前でいつも笑っているが、二人きりの時は体温が高そうな頬を緩め幸せそうに目を細めながら笑う。そんな顔を見ると何でもしてやりたくなる。思わず引き寄せられるようにまたキスを落とせば、彼女は恥ずかしそうにクスクスと声を漏らした。



アラームをかけずに目覚めるのは、同じ時間に起きていても気持ちよく感じるから不思議だ。ゆっくりと瞼を上げて起きると、七海さんはもう起きていてすぐに目が合った。

「ななみさん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。」

きっと今日彼は沢山送られる言葉をどうしても一番最初に伝えてくて、まだ寝起きで舌が回らない中言葉を囁けば、腰を引き寄せられて抱きしめてくれる。昨日そのまま眠りに落ちたので触れ合う素肌が気持ちいいし、彼の体温は寝起きだからかいつもより暖かい。誘われるように微睡みそうになるけれど、今日は目的があるからシーツに引きずり込もうとする手からどうにか抜け出して少しだけ冷たい床に足を下ろした。

パンを作ろう!と計画して、次の二人のお休みが重なる日がなんと七海さんのお誕生日の当日だった。流石に誕生日の日に私のワガママに付き合わせるのは申し訳ないのでまた次回にしようと提案したけれど、

「貴女と一緒の時間を過ごせるなら、なんだって嬉しいですよ。」

なんて優しく頭を撫でられてしまえば何も言い返せなかった。
仕事が早く終わった日に、お互いに強力粉やバターなどそれぞれ必要なものを買い足していって当日まで少しずつ準備を整えていった。どうしても近所のスーパーでイースト菌が売ってないとメッセージを送ったら、その日のうちに七海さんがちょっといいスーパーで見つけてきてくれた時は、なんだかんだ彼も楽しみにしてくれてるのかなとちょっとだけ嬉しくなったのが記憶に新しい。

「これくらいでいいかな…」

パンをこねるのは広い場所がいいと書いてあったので、今回はダイニングテーブルで行う事にした。最初に隅々まで消毒していつもよりも綺麗に感じるテーブルを見て腕組みしてふむと声を漏らす。タブレットで今日のパンのレシピページを出してそれに書かれた材料を机の上に並べて準備していると、寝室のドアが空いて七海さんがキッチンへと歩いてくる足音が聞こえる。声をかけようと顔を上げたけれど、その姿に何を言おうか忘れてしまった。

「あれ、七海さんお出かけするんですか?」

いつもの部屋着のスウェットじゃなくて、グレーのTシャツにデニムといったラフな私服を身に纏っている。髪の毛もいつもより柔らかいワックスで軽くスタイリングされていているようでふんわりと束感を作っていて何束か顔周りに落ちてきていて、それがいつもと違ってドキマキしてしまう。ずっと一緒にいても、やはり彼が好きだから少しの事でときめいてしまうみたいだ。近所に出かけるような格好に、買い忘れたものでもあっただろうかと財布を探しに行こうとするが、七海さんは緩く頭を左右に振った。

「いえ、外には出ませんよ。」

だとしたら、なんでそんなにお出かけ準備しているのかわからなかった。私の表情で考えていることがわかったのか、七海さんは隣に立ちきっと寝癖がついている髪の毛を治すように撫でてくれる。

「貴女が私のお誕生日を祝ってくれるみたいなので、着飾ってみようかと思いまして」

撫でるだけでは私の寝癖は治らなかったのか、七海さんはその様子を楽しそうに小さく笑った。七海さんのその仕草にも、普段とは違う格好にも、少しお茶目な心遣いにも全てにギュンっと心臓が痛くなってうぅっと小さく呻き声が思わず漏れてしまった。

「七海さん、それ反則…」

俯いて悶えていると、頭を撫でていた手が頬に滑りそのままの流れで顔を上に上げられてしまう。きっと私の顔は真っ赤だから恥ずかしいのに、七海さんが嬉しそうに目を細めるので結局いつも何も言い返せはしない。七海さんが何かを求めるような視線でこちらを覗き込んでくるので、少しだけ震える唇を息を呑みながら開いた。

「今日もかっこよくて、好き。」

自分の言葉がそれを自覚させるように、体がじんわりと熱くなってくる。七海さんの表情は満足げで、それが正解だったのが伝わってくるのと同時に触れる程度のキスを落とされた。

「ちょっと私も身支度整えてきます!」

パジャマのままだし寝癖がついてるしスッピンだし、何だか恥ずかしくなってするりと彼の腕から抜け出してパタパタとスリッパの音を鳴らしながらひとまず洗面台に向かう。最近よくリモート会議でもすっぴん風に見える可愛いメイク、なんて動画を見るけどきっと今日みたいなお家デートの日にもそんな可愛い子は事前にやってるんだろうなと女子力の高さを尊敬してしまった。

「パンをこねるので、汚れない洋服にしてくださいね」

キッチンから七海さんの声が聞こえる。一緒に作るのが嬉しくて、二人分のエプロンを買っておいて正解だったかもしれない。とりあえず待たせる訳にはいかないので、メイク道具をひっくり返してまずは寝癖を直すべくドライヤーを手に持った。

必要最低限のメイクをして髪をゆるふわに巻いて大きめのシュシュで高めの位置でまとめた。ボーダーのTシャツワンピの上からエプロンをして、早速レシピ通りに分量を計る事からスタートしたのだけどまさかの最初から悪戦苦闘した。

「七海さんがいないと、分量測るの難しいかもしれません…」

なんたって大雑把な私はいつも料理は目分量で作っていたから、グラムだったり少々とかよくわからなかった。よく任務でもまぁいいかと投げやりにしちゃうときは必ず伊地知さんに感づかれて注意されてしまうのが今回にも大きく影響している。それと違って何事もきっちりと真面目に正確な七海さんは、レシピ通りの分量で強力粉や砂糖など計ってくれてもう早速無理かもしれないと心が折れそうになった。

「まだ序の口ですよ。」

落ち込んでいる私を見て、七海さんは苦笑いしながら全て計り終えた材料の入ったボウルを差し出してくれる。強力粉やドライイーストが入った粉の中に水を入れて、木べらで混ぜるとどんどん粘り気が出てきて大きな塊になってきた。普段ペンを握ることの方が多いので、生地が固まってくるとどんどん重たくなってきてちょっとだけ疲れてくる。

「代わりましょうか?」
「いや、もうちょっとでいい感じになりそうです!」

挽回したくて黙々と混ぜていると、レシピの動画くらいの質感になってきた。ひっくり返して塊をテーブルに落とすとべチャリと重たい音が鳴る。塊を半分に切り分け二人でテーブルの上で捏ねると粘土遊びをしているようで楽しくて、顔を上げて七海さんを見れば彼もこちらを見ていて、二人で顔を見合わせて笑った。

「本当にこれだけでいいんですかね…?」
「えぇ、開けちゃダメですよ」

生地を丸めて40度に温めたオーブンに入れてその中身を扉越しにじっと見つめる。なんだか気になってそわそわしてしまって、一分もしないでオーブンの前に行くので七海さんに手を引かれてソファーに座らされてしまった。

「30分って暇ですねぇ…」

ドラマを見るにも中途半端になってしまいそうで、お昼のニュースをただ何となく眺めながら隣に座る七海さんの肩にもたれかかる。先程から繋いだままの手を七海さんは何気なくにぎにぎと握りしめてみたり、指の腹で手の甲を撫でてくるのでその体温が心地よい。

「ふふ、くすぐったいです」

七海さんの手はとても大きくて、全てを包み込んでくれるから好きだ。いつもは鉈を振るっている手は豆が出来た痕で硬くなっていて、少しカサカサしてるけどそれが男性らしくていつもドキドキする。クスクスと笑い声を漏らしていたのにその内に擽ったいを通り越してソワソワしてきたので、息を吐き出しながら手を引こうとしたけど離さないと言わんばかりに握り締められた。

「こうしていれば暇じゃないでしょう?」

この人は確信犯でこうしているんだとすぐに悟った。すりっと手の甲を親指で撫でながら此方を見つめてくる七海さんは昨晩と同じような熱を感じて、慌ててもう一度手を引くと次はすんなりと離してくれる。

「だ、ダメです!絶対30分じゃ終わらなくなっちゃう…っ!」

手を守るように両手を握りしめると、彼は楽しそうに小さく笑い声を漏らす。揶揄われてるのが悔しくて、肘で小突いてみたけど当たり前に七海さんの逞しい体はびくともしなかった。そんなじゃれあいをしているとあっという間にオーブンが時間を仕上げる音が部屋に鳴り響いてそういえば待っている時間だったと思い出す。二人でオーブンの前に立ちゆっくり開けると、少しだけ暖かい空気が外に溢れてきた。

「わぁ…!膨らんでる…!」

七海さんがオーブンからトレイを出してくれると、生地がさっきよりふっくらとしていてやっとパンになる気配が見えてきて心踊った。

「一次発酵させたあとは、空気を抜いて形を作っていくらしいです。ホームベーカリーだとここまでをやってくれるみたいですね」
「ほうほう…」

七海さんがタブレットに指を滑らせながら先生みたいに解説してくれる。作りたいと言い始めた私が当たり前に生徒役になってしまった。
ここまで機械がしてくれるならやっぱりホームベーカリーは便利なのかもしれない。今の所買う方向性に心が半々に傾きながら、大きな塊の生地をテーブルに置いてまた捏ねていくとさっきより滑らかな気がする。ある程度出来上がればあとは焼くために切り分けていく作業に移って、ヘラを差し込めば弾力のある生地はもっちりとゆっくりと半分に分けられた。

「これ!均等だと思いませんか!」

慎重に、丁寧にを意識して息を止めながら切り分ければどうにか同じくらいの大きさの塊が6個出来上がった。なんだか嬉しくて優しい彼に褒めてもらう為に彼を見れば、七海さんは絶妙な顔で自分の手元を見下ろしている。

「…普段7:3ですので」

どことなく、片方が小さくもう片方は少しだけ大きくて、まさしく見事な7:3の比率で切り分けられていた。大人な七海さんが叱られる前に言い訳する子供のように呟くので、なんだか可愛らしくて笑ってしまった。不服そうな彼と一緒にどうにか一緒に均等な大きさに調節して、クルクルと表面を丸めてまんまるの形を何個も作っていく。

「ふふ、七海さんのパン綺麗ですね!」
「貴女のも丸々してて可愛いですよ」

七海さんの生地は大きさはああだったけど、形は皺もなくツルリとして綺麗だった。少しだけ笑ってしまったのはもう彼はスルーする事にしたようで、私のコロンとした生地を見て呟く。一緒に作ったパンなのに、なんだか違うものみたいに見えて不思議だ。
丸めたものをトレイに並べて、次は二次発酵を行うらしくまたオーブンの中に生地が戻っていってしまった。

「食パンだったら、創作パンと違って形を作るこの工程もないのでホームベーカリーで完成まで焼けるらしいですよ」
「出来立てのパンが食べれるのいいですね!パンの匂いで目が覚めるのかー…幸せだなぁ」

美味しいパンがあるなら起きる楽しみになるし、その香りがするなら仕事に行きたくないと毎朝思う気持ちも少しは晴れるかもしれない。そして、何より七海さんが幸せそうに朝ご飯を食べているのを眺められるなんて、とてつもない幸せだと思う。

「ちょっとご飯も作っちゃいますね!」

想像してにやけそうになる口元を隠すように七海さんに背を向けて冷蔵庫の扉を開ける。今日の為に昨日の夜から色々準備していたので、予定通りトマト缶とタマネギやにんじんなどの沢山の野菜を沢山取り出していってキッチンに並べた。野菜たちを細かく切って鍋にどんどん放り込んでいって、オリーブオイルとニンニクで炒めていくと香ばしい匂いが広がってきて換気扇のスイッチを入れた。

「出来ましたよ。焼く前に見ますか?」

黙々と作業しているともう時間が経ったのか、七海さんがオーブンからトレイを出して此方にやってきてくれた。さっきオーブンを入れた時よりも膨らんでいて隣のパン同士が少しくっついていてなんだか仲良しそうで可愛らしい。そう言えばSNSで今回のちぎりパンでヒヨコなどデコレーションして作っているのを見たことあるな、と思いながら少し顔を近づけるとふんわりと温かい空気と香りが鼻腔に届く。

「甘い香りがする」

すんっと鼻を鳴らして言葉を漏らして笑うと、七海さんも小さく笑ってくれる。先程よりも温度を上げたオーブンに吸い込まれるそれを見届けてから、私も鍋に水を入れて少し火加減を上げた。

「今日の献立はなんですか?」

底が焦げないように木べらでゆっくり混ぜていると、手持ち無沙汰になった七海さんが後ろに立って私の腰にゆるりと腕を回して抱きついてきた。身長差のある彼は私の頭に顎を乗せて上から手元を覗き込んでくるので、沸騰した鍋にトマト缶を投入していく。

「ミネストローネです!色々悩んだんですけど、パンに合うかなーと思って」

彼の誕生日で、そして主食のパンに合わせるにはどうしたらいいのかこの数日ずっと悩んでいた。料理アプリで色々調べた結果が今日の献立になる。時間はちょうどおやつ時だし、ガッツリすぎないけどお昼もまだだからお腹は満たされるもの。きっと夜変な時間にお腹が減ると思うから、その時はアヒージョを作ってあげようと下処理をしたエビはまだ冷蔵庫で眠っている。
顔が見えない七海さんに言葉を返しながらコンソメなどの調味料を入れていくと、トマトの香りちょっぴり深みが出てきた気がして、小さな小皿に少しだけお玉で掬って舌先でちろりと舐めるとちょうど良い味の濃さで安心した。

「いい香りですね、お腹が減りました」

七海さんにも味見させてあげようかと思ったけど、七海さんは背を丸めるように私の頭からゆるゆると肩口に移動してきて首元に擦り寄ってくる。髪をアップしてるせいで、ダイレクトに喋るたびに首にかかる息がくすぐったくて、肩をすくめるとお腹に回された手に力が込められてピッタリと背中が彼一面にくっついてるみたいだった。

「幸せだなぁ…」

思わずポツリと言葉が漏れる。私の首元で息を吸っていた七海さんがゆっくりと顔を上げて、距離が近過ぎてあまり焦点が合わないまま見つめられる。柔らかくセットした髪はくっついたせいでいつもと違って崩れていて、目元にかかっていて邪魔そうなので指先で払ってあげた。

「あ、いや、普段仕事してるとこうやってお休みが合うこともなかなか無いですし、のんびりなんて本当貴重だし…」

誰にでもなく言い訳みたいになってしまった。いつも死と隣り合わせな私たちが、二人でこんな何でもない日常を過ごせるのは本当に奇跡でもあると思う。ましてや憧れだった七海さんが補助監督の私なんかを好きでいてくれるなんて、何回生まれ変わってもこんなに幸せな事はないんだろうなと常日頃考えている。でもきっとそれを本人に言ったら怒られるんだろう。私の内側の気持ちを隠すようにお腹に回った手を重ねると、指を絡めて大きな手で握り返してくれる。

「私も幸せですよ。愛すべき人と、同じ時間をこんな風に過ごせている。」

七海さんの声は不思議だ。私の気持ちや不安も色々溶かしてくれるし、簡単に私の体温は上がるし鼓動を煩くさせてしまう。混ぜる手が止まっていた鍋の火を七海さんが空いてる手で止めてくれた。熱っぽい彼の瞳と視線が絡むと、自然に引かれ合うように触れ合う程度のキスをする。七海さんが好きだな、って改めて感じた。
何分くらい経ったのかよくわからないけれど、七海さんの舌が唇を舐めて割って入ろうとノックしてきた時にオーブンが音を鳴らして仕上がりの合図を出してきた。近すぎて焦点が合わなかったが体を離すと不満そうな七海さんと目があって、そんな様子に笑ってしまいながら縫い付けられたような体をどうにか離して再度冷蔵庫の扉を開いた。

「何かお酒飲みますか?」
「今回は食事の味を楽しみたい気分なので、なしにしましょう。」

スモークサーモンとクリームチーズを出しながら、白ワインとか飲むだろうかと大きな背中に声をかければ熱々のトレイを運んできた七海さんが答える。ふわりといい香りが部屋に広がって、お腹がきゅうっと小さく鳴いた。

「うわ!見てください!ふわっふわ!」

先程は隣同士少しだけ余裕があったのに、膨らんだパンはきゅうきゅうに密に膨らんでいて可愛らしい。嬉しくなって少し飛び跳ねそうなのを抑えて隅っこのパンを指先で突くと、ちょっとだけ沈んだ場所もゆっくりと戻っていく。

「さて、食べましょうか」

出来立てのパンとミネストローネとトッピングにスモークサーモン、クリームチーズ、スライスオニオン。片付けたダイニングテーブルに並べて、七海さんと向かい合うように座った。日本人離れした七海さんの前にあるその食事は、映画に出てくるランチタイムのワンシーンみたいだ。

「それじゃ、いただきます!」

二人で手を合わせて、早速端っこのパンを摘んで引っ張り切り分ける。まだ少し熱いうちにまずは何もつけずに口に運ぶと、ふわりと口内に甘い味が広がった。

「サクサクのふわふわで美味しいー!」
「やはり焼き立ては違いますね」

思ったよりコンビニのパンとは違って思わずテーブルの下で足を揺らすと、長い彼の足に当たった。今回は味をつけてないプレーンのパンだけど、全然そのままでも美味しかった。ゆっくりと大切に味わって、次のパンはクリームチーズをつけてみたけどこれも美味しい。細かく切られたオリーブが練り込まれてるチーズだからほんのり酸味もあって、パンの味を引き立たせてくれてた。

「これは、もうホームベーカリー買いですね…」
「そうですね。そのうちピザを焼くのもいいかもしれません」
「え!何それ楽しそう!」

もう半々だった気持ちは白旗を上げて完全に買う方向に全力で傾いてしまった。一つ一つゆっくりと食べながら、ぽつぽつと言葉を交わして笑い合う。きっと今日この後は二人でタブレットを覗き込んでどこのメーカーのものを買うか考えるんだろう。
あっという間に四個食べちゃったけど、まだ二個余っているから悩む。美味しい気持ちで食べるならやめた方がいいかもしれないけど、お腹の空き具合は食べられないことはない。

「ケーキもあるんでしょう?無理せず明日の朝食用に取っておきましょう」

スープを飲みながら悩んでいると七海さんから声をかけられる。本当、なんで毎回私が考えていることがバレてしまうのかよくわからない。そんなにわかりやすいのかな?お互い二個ずつ残して一つずつラップをかけておく事にしてふんわりと包んでおいた。

「ちょっと待っててくださいねー」

彼の言葉で思い出して、今か夜か悩んだけど甘いものを食べたい気分になってきたので席を立って冷蔵庫からケーキの入った箱を取り出す。崩さないようにお皿に移して、ポットのお湯で先週後輩からもらったアールグレイの紅茶を淹れると香りが広がった。
ケーキは色々悩んだけど、白ワインでコンポートした白桃がたっぷり乗ったフルーツタルトと、真っ赤なイチゴが乗ったシンプルなショートケーキにした。七海さんはその間に食器をシンクに戻してくれていて、ソファーの方に紅茶を持って行ってれている。蝋燭はないけど、代わりに書いてもらったクッキーのプレートをショートケーキに乗せて、ゆっくりと彼の待つ場所に運んでいく。

「ハッピーバースデー歌いますか?」
「歌ってくれるですか?」
「冗談です、改めてお誕生日おめでとうございます!」

『happy birthday けんとくん』と書かれたプレートを見せるようにショートケーキを目の前に置いてあげると、七海さんは少しだけ眉毛を上げてそれをじっと見ている。私も隣に腰掛けて、折角だから誰に見せる訳じゃないけれど二つ並んだケーキをスマホで写真に撮っておいた。

「…言ってくれないですか?」
「へ?」

最近のカメラの画質の良さを噛み締めていたので問われた質問に変な声が出てしまった。七海さんは、プレートを指さしてこちらを見ていて、やっぱり歌が聞きたかったのかな?と思っていると違いますとキッパリと言われた。やはり彼はエスパーなのかもしれない。

「えっと、ハッピーバースデー?」
「その後です。」
「え?…あー、はい。…お誕生日おめでとうございます、建人さん。」

流石に建人くんとは言えなくて、小さく初めて呼ぶ彼の名前を呟くとサングラスをしていない瞳は満足そうに細めらえる。そのプレートは私の言葉と一緒に彼の口の中に消えてしまった。
いつもケーキやプリンなど、七海さんと半分こにしてお互い分け合ってる。一個食べれない訳じゃないけど、両方味わえて楽しいし、何より分け合うって事にとても意味がある気がする。季節物の白桃も、白ワインの風味に負けることなく瑞々しくて美味しいし、素朴なショートケーキも生クリームの甘さと苺の酸味のバランスが良くてどちらも美味しくまさに別腹だった。

「そういえば、プレゼントもあるんです。大したこと物じゃないんですけど…」
「貴女からの贈り物ならなんでも嬉しいですよ」

少しだけ冷めた紅茶を飲みながら、お昼のトーク番組からドラマの再放送が流れるテレビを横目に見て呟く。自分で準備したプレゼントだけど、少しだけ気恥ずかしくなって彼の逞しい腕に擦り寄りながら少しだけ顔を俯いて隠した。

「お、お揃いのパジャマを、買いました…」

この年でお揃いなんて、恥ずかしいかもしれない。でもSNSでたまたま見かけた黒の細めのストライプのお揃いのパジャマが可愛くて、あと七海さんに似合いそうで、ついポチリとボタン一つでクレジットカードを切ってしまった。家だったらお揃いくらい、という自分と、いやいや相手は大人オブ大人の七海建人さんだぞ?という自分が交差していて悩みながら今日を迎えてしまった。白状した後の反応に不安が込み上げてきながら彼の腕を握りしめると、ピクリと青筋が震える。

「…新しい下着も、今日見せてくれるんですか?」
「えぇ!?な、なんで知ってるんですか!?」
「クローゼットに貴女の好きなブランドのお店の紙袋が大切に置かれていたので。中身は見てません。」

流石にエスパー過ぎて驚いて声を上げながら隠していた顔を上げればまんまと七海さんと目が合った。してやられた、と思った時には両手で頭を包み込むように添えられて動けなくなってしまった。

「え、えっちなのとかじゃないですよ!?本当、折角だから新しいの買おうかなー…って思っただけで、本当にそんな風に期待して買った訳では…!」

よくちょっとえっちな漫画であるような、布面積の少ない際どい物を準備した訳じゃない。ただ、お店を見て回っていたら七海さんのスーツの色合いに似てるなってフリルの可愛い下着があったから、折角なら誕生日の日に自己満だけど着ようかなと思っただけであって。絶対真っ赤になっている顔で言い訳を沢山並べていても、結局彼の前では全て意味のないものになっている気がする。顔をそのまま引き寄せられてキスされると、なんとなく苺の味がした。

「それでは、下着もパジャマも脱がす権利を私がいただいてもいい、という事でよいですか?」

七海さんは優しいけど、時々意地悪だ。普段も、そういう行為の最中も、わざと私に言わせようとしてくる。すっかり雄の目をした七海さんにまるで捕食される前の餌みたいに見つめられて、もう頷くしかなかった。それを確認すると七海さんの顔がまた近付いてきて、またキスするのかと思って目を閉じたがそのままべろりと唇を舌で舐め上げられる。

「ひょえ…!」
「早速お風呂を沸かしてきましょう。」
「えっ、ダメです!夜になってからにしてください!」

パチリと目を開ければ、最早色々通り越して真顔になってきてる七海さんが立ち上がろうとしていて慌てて腰に抱きついてそれを止めた。きっと彼にとって動きを止めるほどの抵抗じゃないだろうけど、溜め息を一つ零してソファーに座り直してくれる。抵抗の時間は増えたけれど、結局夜まで私の方が意識して緊張してしまって、生殺しみたいな状態になってしまい後悔した。彼の誕生日が終わるまで、あと五時間。私がいただかれるまで、あと数十分。


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