君は私の特効薬
時々、本当に不意に突然襲いかかってくる気分の波がある。一ヶ月の時もあれば、一年何もなくていきなり顔を覗かせる時もあるから、タイミングは自分でもわからない。けど、急に笑うのがしんどくなって、あ。今そんな時期なんだな。って自分でやっとその時気付くことが出来る。
「ただいまー…。」
いつもより重たく感じる玄関の扉を開けて習慣付いた言葉を吐いても、誰も帰りを待ってくれる人がいない部屋は静寂しかなかった。それが余計にこの胸の空洞をぽっかりと感じさせてしまうけれど、いつからなのかすら忘れた習慣はなかなか思う通りにいかない。
廊下を歩く途中で靴下や上着など足跡を残すように脱ぎ散らかして、タンクトップと下着になった状態でそのままベットに沈み込んだ。任務帰りで埃っぽかったり、クタクタでお腹が減り過ぎて胃が辛いが、そんなのどうでもよかった。
「疲れた…」
布団に潜り込みながら、その中に私の小さな呟きは吸い込まれていった。助ける人達の事や祓う呪霊の強い想い、自分が連携が取りきれなくて怪我させてしまった同僚にど偉い上司のダラダラと面倒臭い案件、連勤徹夜続きの日々。何に落ち込んでいるかなんて、考えるのもしんどいくらい疲れた。そんな日は死んだように眠って、少し気分が落ち着いてきたらカロリーなんて気にしないでたらふく食べるに限る。
「はぁー……」
天井を見上げていると、じんわりと視界が歪んで目尻から涙が溢れる。ストレス発散に一番欠かせないのが、涙を流すこと。これは結構キてるな、なんてぼんやり考えながら一粒目が蓋を開けたようでボロボロと涙が頬を伝った。
「……しんど。」
泣けない時はわざと切ない動物系の映画を見たりするけど、今日は気持ち的にそれを見るのも大変そうだから助かった。大人になって泣くことなんてほぼない分、こういう時は泣くのが一番スッキリする気がする。
仰向けで泣いているせいで重力のまま頬を伝って落ちてくる涙が耳に入ってくる。そろそろ気持ち悪いなと思っている時に、ずっと静かだった部屋にピンポーンと機械音が鳴り響いた。
「……。」
荷物が届く予定もないし、営業かもしれない。何より今人と話すのは億劫だ。息を潜めて居留守を決め込むと、冷蔵庫が小さく働いてる機械音だけ微かに聞こえる部屋に戻った。詰めていた息を吐き出しながら寝返りを打つタイミングで、またインターホンが鳴った。次は2回連続で。
「え、」
流石に体を起こすと、またもう一度ピンポンと鳴る。普段呪霊と戦ってる女も少しだけギョッとするが、追い討ちをかけるようにもう一度鳴る音にそんなの通り越してイラっとした。これが緊急の用事でなければ、とんだ迷惑な営業だ。文句を言ってやりたい気持ちと、もしかしたら私が家にいなさすぎて大家さんとかそういう人だと申し訳ないしと仕方ない気持ちで数秒葛藤した末、渋々立ち上がって玄関に向かった。
「なんなのよ本当…」
ブツブツ漏らしながらとりあえず廊下に脱ぎ散らかしたズボンだけ履いて目元の涙を拭ってから扉の前に立つ。でもいきなりドアを開けるのは危険な気がして、扉の小さな覗き穴を覗き込むと、え、とまた短く声が漏れてしまった。そこ覗き穴から見えた人影は見慣れた人物で、ドア越しに私のその声が聞こえたのか顔を上げた彼とレンズ越しに目があった気がした。
「やっぱりいるじゃないですか。」
慌てて開けると呆れたように溜息を吐く七海がいて、改めてぽかんと口を開けて呆けてしまう。そんな私の顔を見下ろす七海は、サングラスを外してそのまま胸ポケットにそれを押し込んだ。その時に彼の手元のビニール袋がガサリと小さく音を鳴らした。
「えっと、七海、今日来る約束してたっけ…?」
「いいえ、していません。」
そのビニール袋には見るからに色々食材が入っていて、首を傾げ問いかけて見せればさらりと否定される。それなら何で来たんだろうと困惑するけど、七海はそんな私の頭を撫でてそのまま腰を抱いて大きな体を潜り込ませ玄関の中に入ってきた。
「普段は元気すぎて手をつけられない貴女が、そろそろこうなる時期かと思ったので。」
パタン、とドアが閉まる音の後に告げられた言葉が、一瞬空耳かと思った。きっと七海を見上げる私の顔は、驚きで変な顔をしているんだと思う。そんな私を七海は笑うことはなくて、静かに私を見つめると頬に手を這わせてそのまま目尻を親指で撫でた。
「…私、七海に言ったことあるっけ?」
「言われてませんね。」
私の頬が涙で湿っているせいか、それとも七海が寒くて乾燥してるのか硬い指先は少しかさついている気がする。そのまま身を屈めて額に一度口付けてを落とすと、くしゃりと頭をひと撫でして七海は台所に向かって短い廊下を歩いていった。
「定期的に目を腫らしているのを見れば、何となくわかります」
一人暮らし用のキッチンに、ビニール袋から飛び出してあるネギや卵のパックを続々と出していく。そういえば、最近家に眠りにしか帰ってないから腐らないように冷蔵庫の中はほとんど入ってない。ただ後ろに立ってる私を他所に、七海は家主よりテキパキと動いていて炊飯器のお釜の中にお米を測って入れて冷たい水で研ぎ始めた。
「…七海、私の生理の周期も把握してそうだね」
ポツリと、そんな様子の七海の背中に声をかけると、ゆっくりと振り返ってまた視線が合う。怒るかな、と思ったけど、早炊きのボタンを押した七海はタオルで手を拭いた後にまたゆっくりと髪に指を通して絡めながら頭を撫でてくれる。
「食欲はありますか?食欲があれば何か温かい食事を作ります。もしなければホットミルクだけ飲むだけでも効果的ですよ」
生理周期の把握のことは否定しないんだ、とか。お母さんみたいだね、とか。色々いつもみたいにふざけた言葉は喉の奥で引っかかって出てこなかった。
「貴女の好きな入浴剤も買ってきました。先にお風呂にしますか?」
いつも仏頂面なのに、いつだって私を見つめてくれる瞳や優しく細められてる。そこから嫌というほど彼の感情は伝わってきて、せっかく止まっていた涙がまたボロボロと溢れて大好きな七海の顔が歪んでよく見えなくなってしまった。
「そ、んなに甘やかされたら…七海なしじゃ、生きっ、られなく…なっちゃ…っ」
「私はそれでも構いませんよ。寧ろその方が有難いです。」
漏れる嗚咽と涙の間にどうにか言葉を振り絞しながら目を擦ろうとすると、手首を掴まれてそのまま引き寄せられていとも簡単に七海の胸元へダイブした。涙で彼のシャツが汚れてしまうから身を引こうとするが、むしろ頭を抱え込むように再度胸元に押し当てられてしまったので目尻の涙がそのまま七海の青いワイシャツに吸収されていったのがなんとなくわかる。
「その代わり、私の知らないところで泣かないでください」
耳元で聞こえる低音が、背中をさする手の温もりが心地よい。流石に子供のようにワンワンと大声をあげて泣くことは出来ないから、グズグズの鼻を啜りながら嗚咽を漏らして彼の逞しい背中に手を回すとやっぱり暖かかった。
「んぐ…っ、…面倒な女じゃない?」
「そんな事この十年で慣れましたよ」
少し落ち着いてきた時に鼻声で全くもって可愛くない顔と声で顔を上げると、ずっと見ていたのか七海とすぐ目があった。即答で返されたその言葉に、そんなに怒っている訳ではないけどムッと唇を尖らせて見せればフッと笑った七海に鼻をぎゅむっと摘まれた。痛い訳ではないけど、そのせいで鼻水が出ちゃいそうだからやめて欲しい。
「冗談です。貴女の全てを知っておきたいんです」
少女漫画で見たらクサイ台詞だなと思ってしまうのに、悔しいが彼は顔も声もいいし、カッコつけて言っている訳じゃないってわかるから様になってる。何だかそれがやっぱり悔しくて、一度胸元を叩いてみたけど鍛えられた体は動じる事なく寧ろお返しとばかりにワザと強めに抱きしめ返された。ぐぇっ、とカエルが潰れたような声が出てしまったから、どうか聞かなかった事にして欲しい。
「……んふふ。」
思わず笑ってしまうと、七海も小さく笑い返してくれる。なんだか、全部どうでも良くなってきてしまった。こういう時はスパダリな彼に精一杯甘えて、美味しいご飯を食べて良い香りに囲まれた浴槽に体を沈めよう。自分へのご褒美で買っていたちょっと高めのアイスを二人で分けて、クソみたいな上司の愚痴をこれでもかってくらい吐き出してやる。そして、二人で足先までくっついて寝てやるんだ。新しい解決方法をくれた恋人に感謝の気持ちを込めて、少し背伸びして薄い唇に触れる程度のキスを贈った。
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