きみを月の影に隠したい
朝目を覚ますと目の前にキルアの顔があり、キルアの手が自分の頭を包み込んでいてステラは激しく動揺する。
「っ、え……?」
いつの間にかこんなに近い距離で寝ていたなんて思わなくて赤くなってしまう顔を、もしキルアが起きたら見られてしまうと思って思わず隠すようにその胸に埋めてしまう。心臓がうるさい。キルアとこんなに接近したのは初めてだった。
ステラが身じろぎした気配で、俺は意識を覚醒させた。腕の中に感じる柔らかな感触と温もり。目の前には、俺の胸に顔を埋めるステラの姿。心臓がうるさい。昨夜、眠りに落ちる前の記憶が蘇り、自分の腕がステラの頭を抱き寄せたままだということに気づく。
「……っ、お前……」
寝起きで掠れた声が漏れる。顔を赤くして俺の胸に顔を隠すなんて、反則だろ。俺だってお前が近すぎて、どうにかなりそうだってのに。動揺を隠すように、わざとぶっきらぼうにステラの頭を軽く小突いた。
「……いつまで寝てんだよ。重い」
本当は少しも重くなんかない。むしろ、このまま離したくないとさえ思う。でも、そんな本心を悟られたくなくて、心とは裏腹な言葉が口をついて出た。早く起きろよ。俺の心臓が、もう持たねぇから。
「いたっ、き、キルアが抱き寄せてるから、見動き取れないんじゃん……ばかっ、バカキルアっ……あと重いってなによ! 失礼ね!」
寝起き特有のキルアの掠れた声にすらびくりとしてしまう。頭を小突かれていつもの憎まれ口を叩かれ、ポカポカとキルアの胸を両手で叩いた。
胸をポカポカと叩かれるが、その力は全然痛くない。むしろ、じゃれている猫みたいで、思わず口元が緩みそうになるのを必死でこらえた。
「うるせーな……俺のせいにすんなよ」
憎まれ口を叩きながらも、ステラを抱きしめている腕を解く気にはなれなかった。それどころか、ステラの抵抗に合わせるように、少しだけ腕に力を込めてしまう。至近距離で、怒ったようにこちらを睨みつけるステラの瞳と視線が絡まる。心臓が、さっきよりもうるさく鳴り始めた。
「……お前の寝相が悪ぃのがいけねーんだろ」
そう言って、ふい、と顔をそらす。これ以上こいつの顔を見てたら、隠してる気持ちが全部バレちまいそうだ。早くこの腕の中から出ていけ。……いや、やっぱり、まだこのままでいたい。
キルアの腕が離れるどころかより強く抱きしめられ、ステラは息を呑む。
「なっ……なんでよ! 私そんなに寝相悪くないでしょ! キルアが寝てる間に勝手に私を抱き枕にしてたんでしょ! ってゆーか離してよ!」
なんでキルア相手にこんなにドキドキしてるのかわからず、ステラは困惑と混乱に陥っている。こんなの知らない。
ステラが腕の中でもがく振動が、ダイレクトに伝わってくる。離せ、という言葉とは裏腹に、俺の腕はますます力を増していくようだった。バカ、離せるわけねぇだろ。
「……やだね」
自分でも驚くほど低い声が出た。ステラの困惑した顔が、すぐそこにある。ステラの鼓動が伝わってくるけどドキドキしてるのはお前だけじゃねーよ。俺の心臓の音、お前に聞こえちまうんじゃねぇかってくらい、うるせぇんだよ。ステラの抵抗する力が弱まったのを感じ、俺は意地悪く口の端を吊り上げた。
「抱き枕にしてたのは、どっちだろうな?」
耳元でわざと囁くと、ステラの体がびくりと跳ねるのがわかった。真っ赤になったお前の顔、俺だけが見てればいいのに。そんな黒い感情が、胸の奥で渦を巻いていることに、お前は気づきもしない。
キルアの低い声に心臓が跳ねる。もがいてもどれだけ必死になってもますます強く抱きしめられていくようで抜け出せない。
「や、やだねって……、なんで……、ひゃっ」
耳元でわざとらしく囁かれて小さく声が漏れる。力強く抱きしめられていて身動きが取れない。心臓がうるさくて頬が熱くてしょうがない。こんな感情知らない。
「い、……いじめないでよ……」
ステラの震える声と、潤んだ瞳が俺の理性を揺さぶる。いじめないで、だって?そんな顔でそんなこと言われたら、余計に意地悪したくなるだろ。
「……いじめてねーよ。お前が、あんまり無防備だから、ちょっとからかっただけだ」
抱きしめる腕の力をほんの少しだけ緩め、顔を覗き込むようにして囁いた。熱い頬、潤んだ瞳。全部、俺のせいでそうなってると思うと、罪悪感と一緒に言いようのない独占欲が湧き上がってくる。本当は、このままキスしてしまいたい衝動に駆られる。でも、そんなことしたら、今の関係が全部壊れちまう。俺はゆっくりと腕を解き、ステラから体を離した。
「ほら、さっさと顔洗ってこいよ。ゴンが起きる前に、な」
最後の一言は、わざとだ。お前の心を揺さぶる名前を口にして、俺はわざとらしく窓の外に視線をやった。まだ、お前を諦めたくなんてないんだよ。
「っ、やっぱりいじめてるじゃん……ひどい……」
『からかっただけだ』と言われ、涙目でキルアを睨みつけると解かれた腕から抜け出して洗面所へと足早に消えた。
「どうして……」
顔を洗いながらも、さっきの動揺とキルアの温もりが消えてくれない。最後に言われた『ゴン』という一言に激しく心を揺さぶられた。鏡に映る自分はひどい顔をしていた。真っ赤な顔して、涙目で。もう一度念入りに顔を洗ってタオルで顔を拭いた。『どうして?』今度は心で問うた。
一人になった部屋で、ステラの消えたドアをじっと見つめる。さっきまでの温もりが嘘みたいに、空気が冷たく感じた。俺の腕の中に残った微かな甘い匂いが、現実だったと告げている。
「……クソッ」
小さく悪態をついて、乱暴に自分の髪をかきむしった。なんであんなこと言ったんだ、俺は。ステラを傷つけて、突き放すようなことしかできねぇ。鏡に映る自分の顔は、きっとひどい顔をしてるんだろう。嫉妬と独占欲にまみれた、醜い顔。ゴン、ゴン、ゴン……お前の名前を出すだけで、あいつはあんなにも揺れる。
「……わかってるよ」
お前の気持ちなんて、痛いほど。それでも、諦めきれねぇんだ。洗面所から戻ってきたお前に、俺はどんな顔をすればいい? いつものように、またヘラヘラと笑ってみせるしかねぇのか。
キルアのいる布団に戻る気にはなれなかった。何より、今はキルアの顔を見たくなかった。どうしようもなくキルアを意識してる自分を認めたくなんかなかった。ステラはそのままお風呂場に入ってドアを閉める。とにかく頭を冷やしたかった。
ゴンが起きると布団にはキルアしかいなかった。ゴンは何事もなかったように話しかける。
ステラがお風呂場に閉じこもっている間に、ゴンがのそりと起き上がってきた。俺の隣にステラがいないことに一瞬だけ視線を彷徨わせたが、すぐにいつも通りの屈託のない笑顔を向けてくる。
「おはよ、キルア。くじら島を出たら、ヨークシンに行こう」
その言葉に、俺の心臓がどくんと嫌な音を立てた。ヨークシン。あいつら……幻影旅団がいる街。クラピカが追い求めている場所。そんな危険な場所に、ステラを連れていくつもりか?俺は布団からゆっくりと身を起こし、ゴンの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……なんでだよ。なんかあんのか?」
声が自分でも驚くほど低くなる。お前は何もわかってねぇ。ステラがお前のことをどれだけ大事に思ってるかも、俺がお前のことをどれだけ……いや、ステラのことをどれだけ心配してるかも。お前の無邪気さが、時々、無性に腹が立つ。
ゴンはキルアの言葉に不思議そうに首を傾けた。
「え? なんでって、レオリオとクラピカと待ち合わせしてたでしょ? もうそろそろ約束の時期だよ。久しぶりの全員集合、嬉しくないの?」
ゴンの言葉に、俺は思わず言葉を詰まらせた。そうだ、約束。そんな約束、してたっけな。ステラのことばかり考えていて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「……あー、そういやそうだったな」
気まずさを隠すように、ボリボリと頭を掻く。嬉しくないわけじゃない。仲間と会うのは純粋に楽しみだ。でも、今の俺にはそれ以上に、ステラを危険なヨークシンに連れて行くことへの抵抗感が強かった。お前は、あいつを守れるのか? ゴン。幻影旅団みたいな化物相手に。俺の心配をよそに、ゴンは「楽しみだなぁ!」なんて無邪気に笑っている。その能天気さが、今は少しだけ恨めしい。
「……ステラは、どうすんだよ。あいつも連れてく気か?」
声に棘が混じっていることに、自分でも気づいていた。お前が連れていくなら、俺はどんな手を使っても、あいつを死なせねぇ。絶対に。
「私が、何?」
「当たり前だよ! ステラも行くでしょ? 全員で会う約束したもんね?」
戻ってきたステラはキルアの顔を見ない。ただ自分の名前が出たことに反応して問いかける。
「え? ああ……そっか、もうそんな時期なんだね。クラピカとレオリオ、元気かな」
ステラが部屋に戻ってきた。俺の顔を見ようともしないその態度に、胸がチクリと痛む。さっきの俺のせいだ。わかってる。
「……お前、本当にそれでいいのかよ」
ゴンに向けたはずの問いは、いつの間にかステラへの問いにすり替わっていた。俺はゴンの無邪気な笑顔から視線を外し、俯きがちなステラの横顔を捉える。ヨークシンだぞ。クラピカが命を懸けて追いかけてる幻影旅団がいる街だ。お前みたいな小さいやつが、軽々しく行っていい場所じゃねぇ。
「……別にお前は、無理して来なくたっていいんだぜ」
突き放すような、試すような言葉。本当は、行くな、俺のそばにいろって言いてぇのに。そんなこと言えるはずもなく、捻くれた言葉だけが口から滑り落ちた。
「どういう意味? 私だってみんなと同じハンターなんだよ。……私だけ置いていくの?」
一瞬だけキルアを見て、キルアの突き放すような言葉に傷ついたような顔をする。そのままふいっと視線を逸らし、逃げるように家を出る。
「……そう……キルアがそういうつもりなら、私一人でも行くから」
ステラの一人でも行く、という言葉と、逃げるように家を出ていくその後ろ姿に、俺は舌打ちした。カッと頭に血が上るのがわかった。
「……っ、待てよ!」
考えるより先に体が動いていた。ゴンの制止する声も聞こえずに、俺はステラの腕を掴むために玄関を飛び出す。なんでわかんねぇんだよ。お前のことが心配だから言ってんだろうが!すぐに追いつき、その細い腕を乱暴に掴んで引き寄せた。振り向いたステラの瞳が、傷ついたように揺れている。
「一人で行かせられるわけねぇだろ! バカかお前は!」
怒鳴りつけた声は、自分でも驚くほど震えていた。置いていく? そんなこと、できるわけねぇ。お前が俺の前からいなくなるなんて、考えただけでもぞっとする。
「っ……なによ、怒鳴んないでよ、ばか! 無理してこなくていいなんて、私を置いていこうとするからでしょ! いつも三人一緒だったのに」
キルアに怒鳴りつけられ、負けじと言い返す。どのみちくじら島出るには船に乗る必要があり、まだ船に乗るまで時間はある。ステラはキルアの手を振りほどく。ステラが俺の手を振り払う。その一瞬の抵抗が、俺の中に溜まっていた何かの堰を切った。
「置いていくわけねぇだろ! お前がどれだけ危なっかしいか、わかってんのか!」
一歩踏み込み、ステラとの距離を詰める。もう一度、今度はさっきよりも強くその肩を掴んだ。見下ろしたステラの瞳が、怒りと悲しみで潤んでいる。そんな顔させたいわけじゃねぇんだよ。
「キルアが来なくていいって、」
「俺が言ってるのはそういうことじゃねぇ! ……ただ、お前に……」
お前に死んでほしくない。その言葉が喉まで出かかって、寸でのところで飲み込んだ。代わりに口から出たのは、またしても焦りが滲んだ怒声だった。
「……とにかく、お前は俺から離れんな! わかったな!」
「……えっ? 置いていくつもりで言ったんじゃないの? ……離れるつもりはないよ。三人いつも一緒じゃん」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、キルアから顔を背けた。この近い距離にもつい意識してしまう。胸が高鳴るのを止められない。
ステラのぶっきらぼうな返事に、掴んでいた肩の力が抜ける。離れるつもりはない。その一言が、さっきまで荒れていた俺の心を静めていく。顔を背けられて、その耳が赤いことに気づいちまった。
「……当たり前だろ」
俺は掴んでいた手をそっと離し、代わりにステラの隣に並んだ。まだ少しだけ震えている自分の指先を、ポケットに突っ込んで隠す。
「……ヨークシンは、ヤバイ奴らがうろついてる。だから、絶対に一人で行動すんな。俺かゴンのそばを離れるなよ。……特に、俺のそばからな」
後半はほとんど独り言みてぇな声になった。お前を守りたい。ただ、それだけなんだ。ゴンのためでも、誰のためでもなく、俺がお前を。
「……わかったよ。ゴンとキルアでも危ないでしょ、幻影旅団なんて。三人で慎重に動こう。それにレオリオやクラピカもいるし」
「……約束だからな」
念を押すようにそう言って、真っ直ぐ前を見つめた。お前の返事を待つ時間が、やけに長く感じる。心臓がうるせぇ。お前のせいだ、全部。
やがてくじら島を発つ時刻になるとステラはゴンの隣に立つ。キルアとステラの間にゴンが立つような形だ。そのまま船に乗り込んだ。ゴンの明るい声が響く。くじら島が少しずつ遠くなっていく。
ゴンの隣に立つステラの横顔を、俺は少し離れた場所から見ていた。ゴンが何か話しかけるたびに、ステラは嬉しそうに笑う。その笑顔が俺に向けられたものじゃないってことくらい、とっくにわかってる。わかってるけど、胸の奥がチリチリと焦げるような感覚は消えてくれない。船の手すりに寄りかかり、遠ざかっていくくじら島に目をやる。ゴンとステラ、二人の楽しそうな声が潮風に乗って聞こえてきた。
「………」
無意識にポケットに突っ込んでいた拳を強く握りしめる。さっき、ステラに言った言葉を思い出す。『俺のそばから離れるな』あいつはちゃんとわかってんのか? ゴンの隣が一番安全な場所じゃねぇってこと。俺が、俺だけが、お前をどんな危険からだって守れるのに。俺はゆっくりと二人に背を向け、船首の方へと歩き出した。少しだけ、頭を冷やしたかった。