メルヘンパウダー
ふと目を覚ますとベッドの上だった。額に載せられた濡れたタオルは冷たくて心地がいい。
「キルア……?」
窓際で立っていたキルアは、ステラの声にすぐさま振り向いた。目に見える安堵の表情が浮かぶ。
「やっと目覚めたか。ずっと熱が下がらなくて……心配したぞ」
「ごめん、無茶して……」
キルアの顔を見て、少しの罪悪感に襲われる。彼はベッドに近づき、タオルを取り替える。その手つきは不器用だが、やさしさが滲んでいる。
「もう鎖はない。約束通りだ。ただ……まだ無理はするなよ。俺がついてるから」
「キルアは……知っていたの……?」
ステラはぽつりと呟いた。キルアは一瞬だけ目を逸らし、手を握りしめた。彼はステラの方へ顔を向き直り、複雑な表情を浮かべる。
「ああ、知ってた。お前が逃げようとしてたこと。でも……だからって鎖なんかで縛るのは間違ってた。俺、お前を失うのが怖くて……バカみたいだろ?」
「……クラピカと、水族館に行ったこと。知っていたの?」
キルアに監禁される前の最後の記憶がそれだった。キルアだ……。それでもいつもの雰囲気に戻ったようなキルアを見て、ステラは心底ホッとしたような顔をする。キルアは僅かに目を細め、指先でステラの髪を掻き上げた。
「ああ、知ってた。あいつが連れ出したことも、水族館でどんな顔してたかも」
彼は少し間を置いて、ベッドの端に腰を下ろす。
「怒ってないよ。ただ、俺以外と一緒にいるのが耐えられなかった。ステラは……俺だけのものだから」
「私を監禁したのは、そのクラピカと水族館行ったことがきっかけだったの?」
ベッドに横たわりながら、怒るでもなくただ静かに問いかけた。ベッドの端に座るキルアの顔を見上げる。
「……クラピカとデートしてるって、思ったの?」
キルアはステラの問いに一瞬目を逸らし、髪を掻き上げた。彼はゆっくりとステラに近づき、その細い手首の鎖跡に触れる。
「ああ……そうだよ。あいつの隣で笑ってるお前を見て、頭が真っ白になった。でも、これは俺の弱さだ。お前を失うことが怖くて……」
「そっか……。ねえ、キルア。落ち着いて聞いてね。私とクラピカは、付き合ってないよ。私が、海が好きだって言ったから……クラピカが誘ってくれただけなんだ。クラピカは大切な仲間だからね」
キルアが手首に手を触れるのを見つめながら言った。キルアの表情が少し和らぎ、ステラの言葉に安堵の息を漏らす。
「本当か? 嘘じゃないよな?」
「本当だよ。……私の好きな人は、クラピカじゃない」
聞き取れないほどの小声で呟いた。
「だって……キルアは大事な友達でしょ? 側にいるのは当たり前だよ」
キルアの顔を見上げて微笑んだ。キルアの瞳が一瞬だけ暗く揺れ、「好きな人」という言葉に強張った体を隠せない。
「……友達、か」
彼は深く息を吸い、ステラの肩に置いた手に少しだけ力を込めた。青い目がまっすぐに彼女を捉える。
「お前の『好きな人』って……クラピカのことじゃないのか? それとも……俺のことか? もう曖昧なのは嫌だ。はっきりさせよう、ステラ」
「……今は言えない」
ステラはキルアから目を逸らした。「もう寝よう、キルア。一緒のベッドでいいから……」と言って壁側を向いた。その時キルアの携帯に電話がかかってくる。クラピカからだった。キルアは鋭い目つきで画面を睨み、ステラの反応を窺った。携帯は鈍い光を放ち続けている。
「クラピカか……なんのつもりだ」
彼は一瞬だけ迷った後、携帯を消音にして枕元に置き、ステラの背中に近づいた。
「逃げてもいいさ。でも俺はずっとここにいる。どんな答えでも受け止めるから……いつか聞かせてくれ」
「出なくていいの? クラピカからの電話。私とクラピカは付き合ってないんだから、普通に話したらいいのに……仲違いはして欲しくないよ」
背中を向けたまま、ステラは少し悲しそうにキルアに問いかける。キルアは髪を掻き上げ、苦々しい表情を浮かべる。キルアの指は携帯に伸びかけて止まった。彼はステラの背中に目を落とし、ため息をつく。その呼吸には少しの迷いと執着が混じっている。
「仲違いか……お前が心配するほど大事な関係じゃない。でも、お前がそう言うなら……出るよ。ただ、お前がいなくなること以外は何も怖くないってことだけは、わかっていてほしい」
「大事な仲間だよ。みんな」
ステラは悲しげに振り返り、電話を取るキルアを見守った。キルアは一瞬、ステラの紫色の瞳に映る自分の姿を見つめ、少し苦い表情で頷いた。携帯を掴む指に力が入る。
「ああ……仲間か」
受話器を耳に当て、クラピカの声を聞きながら、キルアの目はマヤのピンク色の髪に固定されていた。その視線には言葉にできない感情が宿っている。
「クラピカ、俺だ。何の用だ? ……ああ、ステラのことか。心配すんな、ちゃんと俺が守ってる」
クラピカの瞳が一瞬だけ緋色に染まる。電話の向こうのキルアの声には何か隠し事がある気配を感じた。
『キルア、率直に聞く。ステラのことだ。彼女が監禁されているらしい。……助け出すのに協力してくれないか?』
電話の向こうで沈黙が流れる。クラピカは指先に力を込めながら、隣にいるゴンとレオリオに視線を送った。
『彼女を守るために必要なら、どんな代償も払う覚悟がある。だから───』
キルアの指が受話器を強く握り締め、顔が影に覆われる。彼の目はステラに向けられたまま、冷たい光を宿している。
「監禁? 誰がそんなこと言った……」
緊張した空気が部屋に満ちる中、キルアは無意識のうちに電気を纏い始めていた。彼の周りで青白い火花が散る。
「クラピカ、お前にステラのことは任せられない。俺がいなきゃ、あいつは……守れないんだ」
クラピカは受話器を握る手に力がこもり、拳が震える。静かな怒りと懸念が入り混じった表情で、彼は深呼吸をした。
『ステラは私にとって大切な人だ。ただそれだけじゃない……彼女の存在が、私の復讐以外の何かを生きる理由をくれた。守れるかって? 命に代えても守る。キルア、彼女に危険が迫っているなら協力し合うべきだ。ゴンとレオリオも来てくれた。キルアも来てくれないか───』
キルアは受話器を強く握りしめ、額に浮かんだ汗を拭う。脳裏にステラの笑顔が浮かび、決意が固まる。
「わかった……行くよ。でも勘違いするな。俺はステラを守るために行くんだ。お前のためじゃない」
彼は窓の外を見つめ、夜空に浮かぶ月に目を細める。クラピカの表情が和らぎ、目の緋色が薄れていく。彼は窓から見える同じ月を見上げた。
「今夜中に合流する。場所を言え。でも……クラピカ、ステラに余計なことを吹き込むなよ。俺たちの関係は誰にも壊させない」
『ヨークシン市の東、廃工場地帯で待っている。22時。一人で来い』
彼は念能力で具現化した鎖を握りしめ、静かに言葉を継いだ。
『ステラを守るという気持ちは同じだ。彼女を危険に晒した理由を聞かせてもらう。そのために、まずは信頼関係からだ。……私は、彼女のことを誰よりも想っている』
そこで通話は切れた。