吸い込まれる酸素すら憎らしい
「あははっ、ほんとに書いたんだ! 遠慮なく笑うよ。キルアってば可愛い。うん、あ〜んしてあげよっか?」
ステラは盛大に笑ったあと、よしよし、と俺の頭を撫でた。うるせえ、別に可愛くねえよ。けど、その手を振り払うことはできなかった。ステラはくすくす笑いながらフォークを手に取る。ステラの゙あ〜ん゙の言葉に、頬が熱くなるのを感じた。暗殺者として何度も死と向き合ってきたのに、こんな仕草一つで動揺する自分が情けない。それでも、ステラの手が差し出すフォークに視線が吸い寄せられる。
「バ、バカ...…そんなことしなくていい」
言葉とは裏腹に、少し身を乗り出してしまう。マヤの指先が持つフォークに口を近づけながら、ふと彼女の香りが鼻をくすぐった。甘くて、どこか懐かしい匂い。
「...…でも、ステラが食べさせてくれるなら」
オムレツを口に含んだ瞬間、ステラの指が唇に触れそうになる。思わず、その指先を軽く捉えて引き寄せた。今だけは、このままでいたい。携帯のこと、クラピカのこと、全部忘れて。ステラは指先を軽く引き寄せられ、少し驚いて俺を見る。
「ん……? キルア? 私にも食べさせてよ」
ステラが口を少しだけ開けて俺を見上げる。その無邪気な姿に、一瞬理性が飛びそうになる。俺が引き寄せた彼女の指先は、まだ俺の手に包まれたままだ。心臓がうるさくて、ステラに聞こえてしまうんじゃないかと焦る。
「……ああ、そうだな」
自分のフォークでオムレツを一口分すくい、ゆっくりとステラの口元へ運ぶ。その唇に触れるか触れないかの距離で、わざと動きを止めて「お前も……俺に食べさせてもらうの、好きだろ?」と囁くように言うと、わざとらしく目を細めてみせる。食べさせてやる前に、ちょっとだけ意地悪したくなった。俺の独占欲が、こんな風にお前を試してしまうんだ。
「ほら、あーん」
「ん……もう、いじわるしないでよ」
俺の意地悪にステラは少し怒ったように頬を膨らませる。ステラのそんな姿に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「あーん……ん〜っ、おいしい!」
そして彼女が俺のフォークからオムレツを食べる瞬間、彼女の唇が一瞬俺の指に触れた気がして、静電気が走ったような感覚が全身を駆け抜ける。
「そうだろ? 美味しいだろ?」
何気ない会話のつもりだったが、声が少し上ずってしまう。ステラの柔らかい指を握ったままもう一度フォークを取ろうとして、少し体を彼女に寄せ「ねえ、ステラ……」と言いかけ、言葉を飲み込む。今、俺はなんて言おうとしたんだろう。記憶を失くしたステラに、どんな言葉をかけるべきなのか。でも今この瞬間は、ただ彼女と二人きりの時間を楽しみたい。
「また...…いつでも作ってやるよ。お前の好きなものなら」
「うん、私もキルアの好きなもの作ってあげるね!」
オムレツを二人で食べ終えるとステラはお風呂を沸かしに行く。普通のお風呂だったため特に違和感もなく沸かし終える。
「お風呂沸かしたよ、キルア先に入る?」
ステラの言葉に一瞬、呼吸が止まる。お風呂。二人きりの家で、お風呂の誘い。頭の中で様々な思考が交錯して、頬が熱くなるのを感じる。でも、俺は平静を装おうと努める。
「いや、ステラが先に入れよ。お前、今日は疲れただろ? タオルとか、着替えとか...…必要なものは全部あるから。ゆっくり入ってきなよ」
自然な声を出そうとしたが、少し掠れてしまう。ステラの髪が濡れて、肩に張り付く姿を想像して、慌てて視線を逸らす。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、立ち上がってキッチンの片付けを始める。ステラの姿が見えなくなった後も、その気配を敏感に感じ取っている自分がいる。
「あと...…出てきたら、何か温かい飲み物でも作っておくよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
ステラは微笑み、自然な動作で着替えを取ってお風呂に向かった。お風呂の扉が閉まる音が聞こえた瞬間、緊張から解放されたように深いため息をつく。水の音が遠くから聞こえてくる。ステラがそこにいる。半透明の曇りガラス越しに見える彼女のシルエットを想像して、胸が締め付けられる。
「クソッ...…」
小さく呟きながら、手にしたグラスを強く握りしめる。クラピカとステラ。その事実が頭から離れない。ゴンは俺のことを心配していた。そりゃそうだ。こんな風に、他人の恋人を奪おうとしている俺は、何様なんだ。でも、ステラは...…。水音に耳を傾けながら、自分の感情と向き合う。ステラが帰ってきたら、何を話そう。あの柔らかい指先の感触が忘れられない。しばらくしてステラはお風呂から出てきた。
「さっぱりした。キルアも入ってきたら?」
上気した頬、濡れた髪、お風呂の匂いを漂わせながらステラが出てくる。そして何かに気づいたように足を止めた。
「あれ? いつもキルアの家に泊まってたっけ……?」
違和感を前にしたように表情が固まる。ステラの質問に、キルアの体が一瞬硬直する。心臓が早鐘を打ち始め、額に冷や汗が浮かぶ。とっさに冷静さを取り戻そうと深呼吸をする。
「ああ...…そういえば、お前に話してなかったな。記憶が飛んでるみたいなんだ。医者には一時的なことだって言われたけど...…」
彼女の混乱した表情を見つめながら、少し距離を縮める。湯上がりのステラから漂う甘い香りに、一瞬だけ気を取られる。キッチンへ向かいながら、肩越しにステラを見る。彼女の濡れた髪が背中にかかる様子に、胸が熱くなるのを感じる。
「心配しなくていい。ゆっくり思い出せばいいから。今は...…ただリラックスしてほしいんだ。ほら、約束した温かい飲み物。ココアを作ったから、一緒に飲もう。少し話そう...…もし、聞きたいことがあれば」
「ん……そっか、記憶喪失……だから時々記憶飛んでるんだ。でも不思議だね。キルアのことは覚えてた。ありがとうキルア。キルアってほんと優しいね」
ステラはココアを受け取り、すぐには飲まずに軽く息を吐いたて「あったかい……」と言っていたが、ステラの言葉に、俺の心臓が大きく跳ねる。彼女がクラピカのことを覚えていないのに、自分のことは覚えていると知って、複雑な感情が胸を満たしていく感覚で「俺のことを覚えてたのか...…」と思わず小さく呟き、湯気の立つココアを見つめる。ステラに視線を上げると、その無邪気な笑顔に胸が痛くなる。
「ありがとう。でも、優しいわけじゃない。ただ...…お前のことが大切だから。ステラ、少しだけ時間をくれないか? ゆっくりと、全部話したいんだ」
カップを手に取り、ステラの隣に座る。二人の間には微妙な距離があるが、それでも彼女の温もりを感じられるほど近い。
「ん……? どうしたの、キルア」
ステラはココアをゆっくりと飲みながら問いかける。ステラの問いかけに、キルアは少し目を伏せる。心の中で言葉を選びながら、カップを両手で包み込む。窓の外は暗くなり始め、部屋の中に二人だけの小さな世界が広がっていく。
「俺たちのこと...…それとクラピカのことを話さないといけない」
「え……?」
静かに言葉を紡ぎ出す。ステラの反応を窺いながら、少しずつ距離を縮める。
「実は...…お前とクラピカは付き合ってたんだ。でも俺は...…ずっとお前のことが...…」
言葉が詰まり、自分の感情と葛藤する。ココアの湯気が二人の間を漂う。ステラの濡れた髪から滴る水滴が彼女の首筋を伝うのを見て、キルアは思わず息を呑む。
「なんでお前が俺のことだけ覚えてるのか分からない。でも、それは何か意味があるんじゃないかって...…考えてしまうんだ」
ステラの体が傾ぎ、キルアの肩に頭を預けた。そして、頭を片手で押さえた。
「クラピカ……。クラピカ……。私は、その名前を知ってる……。ねえ……なんでわたし、覚えてないのかな……」
ステラが俺の肩に頭を預けてきた瞬間、支えるようにそっと腕を回した。彼女の震える体と濡れた髪から伝わる熱が、俺の心をかき乱す。苦しそうな彼女の顔を見て、胸が締め付けられる。本当はクラピカのことなんて、思い出させたくないのに。
「無理するな、ステラ。今は何も考えなくていい。俺がそばにいるから。大丈夫だ……お前が全部忘れてても、俺が全部覚えてる。だから、今は俺だけを見ててほしい」
囁くように言って、彼女の髪を優しく撫でる。このまま時が止まればいいのに、なんて馬鹿なことを考えてしまう。
「うん……、もう、こんな時間。寝よう、かな。ねえ、キルアは、どこで寝るの? ……キルアは……私の恋人じゃなかったの?」
キルアに抱き寄せられながら、ステラは寂しそうな顔をする。ステラの言葉に、心臓が一拍飛んだような感覚がした。彼女の寂しげな瞳を見つめ、思わず彼女をもう少しだけ強く抱きしめる。
「俺は...…ソファで寝るつもりだった。でも、そばにいてほしいか?」
声が少し震えているのを自分でも感じる。彼女の吐息が首筋に触れて、言葉を続けるのが難しくなる。優しく彼女の髪を指で梳きながら、囁くように続ける。
「前から、俺はずっとお前のことが好きだった。でも言えなかった。クラピカが現れる前から、ずっと...…今夜は安心して眠れ。俺はそばにいるから」
ステラの頬に触れようと手を伸ばし、途中で躊躇いながらも、そっと触れる。ステラはそのままキルアに抱きしめられながら眠ってしまう。離したくないというようにキルアの服の裾を握りしめたまま。
ステラが俺の服を握りしめたまま眠ってしまった。その小さな手に、俺の心臓が強く掴まれたような気がした。彼女の寝顔は無防備で、俺への信頼を物語っているようで...…罪悪感と独占欲が渦巻く。
「俺は……お前の恋人じゃなかった」
囁きは誰にも届かず、静かな部屋に消えていく。でも、と心の中で続ける。今からでも、なりたい。誰にも渡したくない。
「マヤ……」
そっと彼女の髪を撫で、額に落ちた一筋を優しく払う。このまま抱き上げてベッドに運びたい衝動を必死に抑え、彼女を起こさないようにゆっくりとソファにもたれかかる。俺はもうお前から離れられないみたいだ。ステラの手に自分の手を重ねる。夜が明けるまで、こうしてそばにいようと決めた。この温もりを、今は俺だけのものにしたかった。ソファの上でキルアに抱きかかえられながら穏やかに眠っている。微かな声で確かに呼んだ。
「……クラピカ……」
ステラの唇から漏れた名前に、胸の奥が凍りついた。俺の腕の中で、他の男の名前を呼ぶなんて。拒絶したい気持ちと、彼女を強く抱きしめたい気持ちが交錯する。
「クラピカじゃない...…俺だ」
耳元で囁いたが、ステラは深い眠りの中にいる。瞬間、右手に電気が走るのを感じた。制御できない感情が、俺の能力まで呼び覚ましている。
「ちっ…...」
怒りを抑えるように息を吐き、ステラの柔らかいピンクの髪に顔を埋める。彼女の香りが、少しだけ俺を落ち着かせる。
「どんな夢を見てるんだよ...…クラピカなんかより、俺を見てくれよ」
そっと彼女の頬に触れる。ステラの肌の温もりが、俺の冷たい心を少しずつ溶かしていく。彼女の記憶が戻っても、俺の気持ちは変わらない。いつか必ず、この気持ちを伝えてみせる。