離れていくなら壊すから




お風呂に入って体を洗い流す。温かいお湯が身体を癒やす。何も言わずに出てきてしまった。みんなはどうしてるだろう。頭を洗い、体を洗う。中に出されたものも洗い流す。初めてのキスも初めての夜も、結局はキルアの独占欲でしかなかったんだと思った。体を拭いて服を着る。どんな顔でバスルームを出たらいいのかと迷う。

バスルームのドアが開く気配に、俺は息を呑んだ。出てきたステラは、いつもと何も変わらないように見えた。だが、その瞳の奥に宿る僅かな戸惑いを、俺は見逃さなかった。俺がお前を傷つけた痕跡は、身体だけじゃなく心にも深く刻み込まれちまったんだ。



「……おい」



何を言えばいいのか分からず、ただ名前を呼ぶことしかできない。お前に触れたい。でも、拒絶されるのが怖い。俺の指先が、行き場をなくして虚空を彷徨う。



「……悪かった……」



やっとの思いで絞り出した謝罪は、情けないほどにか細く掠れていた。お前を愛しているのに、傷つけることしかできねぇ。こんな俺が、お前の隣にいていいのかよ。



「……帰る」



ステラは荷物を持って、のろのろと歩いていく。そのまま部屋を出てドアを閉めた。



───帰る。



その一言と、静かに閉まるドアの音が、俺の世界から全ての音を奪い去った。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。ただ、ステラがいた場所が、ぽっかりと空いている。その事実だけが、冷たく俺に突きつけられた。



「……待てよ……」



声にならない声が喉から漏れる。行くな。俺を一人にすんな。叫びたいのに、身体が鉛のように重くて動かねぇ。お前がいないと、俺はまたあの暗闇に逆戻りなんだ。お前だけが、俺の光なのに。シーツに残る微かなマヤの温もりと、俺がお前を傷つけた証。それらが、俺の罪悪感を抉る。謝って、許しを乞えばいいのか?いや、そんな簡単な問題じゃねぇ。俺のこのドス黒い独占欲がお前を苦しめてる。分かってるのに、どうしようもねぇんだよ。






















何も言わずにキルアとホテルを出てしまったため、クラピカ達から心配のメールが届いていたが返事を返す気にはならず、ステラは誰とも連絡を取らず黙々と日々を過ごした。

ステラからの連絡が途絶えて数日。苛立ちは、徐々に焦燥へと変わっていた。クラピカやレオリオに探りを入れても、あいつらもステラと連絡が取れてねぇらしい。どこに行ったんだよ。なんで俺から逃げんだよ。



「……チッ、うぜぇ……」



携帯をベッドに投げつける。画面には、送受信履歴のないステラの名前だけが表示されている。お前が俺から離れられるわけねぇだろ。お前は俺のもんだ。誰にも渡さねぇ。



「……見つけ出して、分からせてやる……」



瞳の奥に、暗い光が灯る。そうだ、無理やりにでも分からせるしかねぇんだ。お前が俺から逃げることは、絶対に許さねぇってことを。俺はコートを羽織ると、部屋を飛び出した。待ってろよ、ステラ。すぐに迎えに行ってやるから。









ステラが全員から姿を消して1ヶ月が過ぎた。









1ヶ月。ステラが消えてから、それだけの時が流れた。最初の1週間は、ただひたすら焦燥感に駆られて街を駆けずり回った。次の1週間は、怒りが俺を支配した。そして今、俺の心を占めているのは、虚無感と、ステラを失うことへの純粋な恐怖だ。



「……どこだよ、ステラ……」



誰もいない部屋で、虚しく呟く。ハンターの能力を使えば見つけるのは容易いはずなのに、お前の痕跡はどこにもない。まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に消えちまった。お前がいない世界は、色を失ったみたいにモノクロだ。もう一度お前に会いてぇ。触れたい。あの声が聞きたい。たとえお前に憎まれてもいい。お前を取り戻せるなら、俺はなんだってしてやる。



「……待ってろよ……必ず見つけ出す……」



闇に沈んだ瞳で、俺は再び誓いを立てた。世界の果てにいたとしても、お前を決して逃がしはしない。









ステラはイルミに囚われていた。ゾルディック家からは逃れられない運命なのかもしれない。ステラは彼の抱擁をただ受け入れながら自嘲するように笑っていた。今日はイルミと一緒にショッピングデートをしていた。イルミは街角でステラを抱きしめてまるで呪縛のように言う。



「ステラ。俺のステラ。愛しているよ」



ステラはイルミに抱きしめられながら言う。



「イルミ、愛してる」









イルミ……? なんで兄貴がステラと一緒に……?



最悪の可能性が頭をよぎり、血の気が引いていく。街の雑踏に紛れ、俺は息を殺して二人の様子を伺った。兄貴がステラを抱きしめ、何かを囁いている。その光景は、俺の胸にどす黒い炎を灯した。



「……離せよ……その汚ねぇ手でステラに触んな……」



殺気が漏れそうになるのを、必死で押さえつける。ステラは抵抗する素振りも見せず、兄貴の腕の中にいる。なんでだよ。なんでお前は、あんな奴の腕の中にいるんだ。次の瞬間、ステラの唇が動いた。



───愛してる。



その言葉が、俺の思考を完全に停止させた。全身の血が凍りつくような感覚。違う、俺の聞き間違いだ。そうじゃなきゃ、俺は今ここで、兄貴を殺しちまう。

イルミは満足そうにステラを抱きしめ、愛おしそうにステラにキスをする。ステラは抵抗なく受け入れる。兄貴がステラにキスをした。その光景を認識した瞬間、俺の中で何かがブツリと音を立てて切れた。ステラのうなじに光る針。あれは、兄貴の……!全身の血液が沸騰するような怒りが、俺の思考を焼き尽くす。



「……てめぇ……!」



殺気を隠す余裕もなかった。俺は地面を蹴り、兄貴の背後へと一瞬で回り込む。ステラを支配して、あんなことをさせていたのか。許さねぇ。絶対に、許さねぇ……!ステラの肩を掴んで引き寄せると同時に、兄貴の喉元へ向けて手刀を繰り出す。だが、兄貴はそれを読んでいたかのようにひらりと躱し、無機質な瞳で俺を見下ろした。



「なんだ、キル。ようやく見つけたのか。遅かったじゃないか」



その余裕ぶった態度が、俺の怒りにさらに油を注ぐ。俺はステラを背中に庇い、兄貴を睨みつけた。お前だけは、絶対に殺す。ステラの身体が、俺の背後で微かに震えるのを感じる。兄貴の念で操られているせいで、恐怖さえも自分の意志で感じられねぇのか。その事実が、俺の心をナイフのように抉る。



「……ステラは俺のもんだ。返せよ」



低い声で言い放つ。全身から溢れ出すオーラが、バチバチと音を立てて周囲の空気を歪ませた。今ここで兄貴を殺しても、ステラの支配が解ける保証はねぇ。だが、この怒りはもう止められそうになかった。兄貴は表情一つ変えず、ただつまらなそうに俺を見ていた。その無感情な瞳が、俺の神経を逆撫でする。



「お前はただの人形遊びがしたいだけだろ。ステラを巻き込むんじゃねぇ。ステラは俺がいないとダメなんだよ。お前には渡さねぇ」



俺の言葉に、兄貴は初めてつまらなそうに眉をひそめた。ステラを庇う俺の腕に、力がこもる。こいつは俺が守る。誰にも渡さねぇ。



「……その子、もう君のことなんて覚えていないよ。俺だけを愛するように、俺だけを求めるように、俺が作り変えたんだから」

「うるせぇ……! ステラの心を勝手にいじるんじゃねぇ!」



その言葉は、俺の怒りの沸点を軽々と超えさせた。ステラの心を、記憶を、お前が勝手に弄んだってのか。雷光を纏った拳を叩きつける。だが、兄貴は針を数本投げて牽制し、軽々とそれを避けた。俺の攻撃は全く届かねぇ。



「無駄だよ、キル。お前じゃ俺には勝てない。その子も、お前も、俺の手の中から逃れることはできないんだ」



兄貴の冷酷な言葉が、俺の心臓を鷲掴みにする。ステラが俺を覚えていない……?そんなこと、あるはずがねぇ。俺たちが過ごした時間が、全部なかったことになるなんて、絶対に認めねぇ。



「……ふざけるな……!」

「……キルア……?」



怒りに任せて再び突っ込もうとする俺を、背後からステラの腕が弱々しく掴んだ。そのか細い力に、俺の動きが止まる。掠れた声で俺の名を呼んだステラの瞳は、虚ろで焦点が合っていない。だが、確かに俺を呼んだ。兄貴の支配は完璧じゃねぇ。まだ、ステラの心は完全に壊されちゃいねぇんだ。



「そうだ、俺だ……! ステラ!」



希望の光が差し込んだ気がした。俺はステラの肩を掴んで揺さぶる。思い出せ。俺を。お前が誰のものだったのかを。



「……俺のステラに触るな、キル」



兄貴の静かな声が響き、ステラの身体がビクリと硬直した。兄貴の声一つで、ステラの瞳から光が消える。俺の手を掴んでいた力も、だらりと抜けていく。まるで糸の切れた人形のように、ステラは再び兄貴の支配下に戻っちまった。



「……っ、やめろ……!」



俺は叫びながら、ステラの身体を強く抱きしめる。絶対に渡さねぇ。もう二度と、こいつの好きにはさせねぇ。



「ステラ、思い出せ! ハンター試験で会っただろ! ゴンも、クラピカも、レオリオもいただろ!」



必死で語りかける。俺たちの記憶を、思い出を、全部ぶつけてやる。お前が俺の名前を呼んだ。それが全てだ。



「無駄なことを。その子の心はもう俺のものだ。お前の声なんて届かない」



兄貴の冷たい声が、俺たちの間に壁を作るように響く。だが、俺は諦めねぇ。この腕の中にいるステラの温もりだけが、俺の最後の希望だった。

だけどステラはキルアの腕の中から水の念能力を使い、キルアを押し出してイルミの元へ行った。イルミはステラを背中に隠した。



「そう、おいで、いい子。俺の後ろに隠れててね」



ステラの念能力によって弾き飛ばされ、俺は数メートル後ろの地面に叩きつけられる。受け身を取ったものの、背中に走る痛みより、胸の痛みが酷かった。お前に……、ステラに拒絶された。その事実が、俺の心を容赦なく抉る。



「……なんで……だよ……」



掠れた声が漏れる。目の前では、兄貴がステラを背中に隠し、まるで所有物のように扱っている。その光景が、俺の怒りを再び燃え上がらせた。違う。あれはステラの意思じゃねぇ。兄貴に操られてるだけだ。そうだ、諦めるな。俺が助けなきゃ、誰がステラを救うんだよ。俺は痛む身体を無理やり起こし、兄貴を睨みつけた。



「……その子から離れろ、イルミ」



溢れ出す殺気を隠そうともせず、俺は静かに告げる。今度こそ、お前を殺してでもステラを取り戻す。



「言っとくけど俺を殺したらマヤは一生俺を好きでいるよ。俺の念は死んだらより強くなるからね」

「イルミ……好き……」



しかしイルミはまるで見透かしたかのようにそう言って微笑んだ。ステラは甘えるようにイルミの体に擦り寄っている。

兄貴の言葉と、それに続くステラの甘えた声。その光景は、俺の心を絶望の淵へと突き落とすのに十分すぎた。殺せば、ステラは永遠に兄貴に囚われる。だが、生かしておけば、ステラは道具として扱われ続ける。どうすりゃいいんだよ。



「……っ、汚ねぇぞ……!」



絞り出した声は、情けないほどに震えていた。ステラが、俺の知らない顔で兄貴に甘えている。俺にだけ見せてくれたはずの表情を、いとも容易く他の男に見せている。その事実が、俺の理性を焼き切っていく。それでも、諦めるわけにはいかねぇ。ステラの心が完全にあいつのものになる前に、どうにかして引き剥がさねぇと。



「……それでも、お前からステラを解放する……!」



俺は再び立ち上がり、全身に雷を纏う。神速(カンムル)。これなら、兄貴の反応速度を超えてステラを奪えるかもしれねぇ。ステラ、少しだけ待ってろ。必ず、助け出してやるから。ステラのうなじで光る針が、俺の覚悟を鈍らせる。兄貴を殺せば、ステラの心は永遠に奪われる。だが、このままじゃステラは人形のままだ。どちらも地獄だとしても、俺は選ぶしかねぇ。ステラがお前を覚えてなくても、俺が覚えてる。俺たちが過ごした全部を。



「……うるせぇよ。てめぇの念がどうだろうと関係ねぇ。ステラは俺が取り返す。それだけだ」



俺の全身から放たれる電気が、周囲の空気を震わせ、バチバチと音を立てる。絶望なんてしてる暇はねぇ。目の前にいるステラを取り戻す。ただそれだけだ。地面を蹴る。神速(カンムル)で加速した俺の身体は、兄貴の視界から一瞬で消え去った。兄貴がステラを庇おうと腕を動かす、そのコンマ数秒の隙を突く。狙うはステラのうなじ、ただ一点。



ステラ、ごめん。
少しだけ痛ぇかもしんねぇけど、我慢しろよ。
必ず、俺がお前を元に戻してやる。