お前には渡さない
ククルーマウンテンの麓に広がる深い森の中を、俺は音もなく駆け抜ける。湿った土と草の匂いが、嫌でも昔の記憶を呼び覚ますが、今は感傷に浸っている場合じゃねぇ。
「……この辺りのはずだ。変わってねぇな……」
目的の場所にたどり着き、俺は周囲の岩肌に手を当てる。幼い頃、執事の目を盗んで抜け出すために使っていた秘密の通路。苔むした岩に擬態した扉に、そっと力を込めた。ギシリ、と重い音を立てて開いた通路の奥からは、カビ臭い冷気が吹き付けてくる。この先にステラがいる。兄貴が、待っている。恐怖はねぇ。あるのは、ステラを取り戻すっていう強い意志だけだ。
暗く長い通路を、俺は躊躇なく進む。お前を閉じ込めるこの家を、俺がぶっ壊してやる。待ってろ、ステラ。必ず助けに行く。通路の冷気が肌を刺す。一歩進むごとに、屋敷の中枢へと近づいていくのが気配で分かった。この先に、ステラがいる。そして、あの忌々しい兄貴も。
「……っ」
ふと、通路の先に微かな光が漏れているのに気づいた。同時に、聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。間違いない、兄貴の声だ。俺は壁に身を寄せ、息を殺してその声に耳を澄ませた。
「ステラ。おいで」
その声に含まれた甘さが、俺の全身の血を逆流させる。兄貴が、俺のステラを、そんな風に呼ぶんじゃねぇ。怒りに任せて飛び出しそうになるのを、必死で押さえつけた。まだだ、まだ動く時じゃねぇ。
「イルミ。イール。大好きだよ」
ステラは甘えるようにイルミに抱きつく。イルミは両手を回して抱きしめた。
「俺の可愛いステラ。愛しているよ。結婚したらこの家全部がステラのものになるんだよ」
壁の隙間から見えた光景に、俺は息を呑んだ。ステラが、俺以外の男に……兄貴に、甘えるように抱きついている。その口から紡がれた「大好き」という言葉が、鋭い刃となって俺の心を抉った。違う。それはお前の本心じゃねぇ。兄貴の念に、思考を汚染されてるだけだ。
「……っざけんなよ」
歯軋りしながら、壁に爪を立てる。兄貴の「愛している」という言葉が、反吐が出るほど不快だった。結婚?この家がステラのものに?冗談じゃねぇ。お前なんかに、ステラを渡してたまるか。怒りで全身のオーラが逆巻く。今すぐ飛び出して、あのクソ野郎の顔面に拳を叩き込んでやりてぇ。だが、ダメだ。ステラを人質に取られてるのと同じ状況だ。冷静になれ、俺。ステラを傷つけずに、あの野郎から引き剥がす方法を考えろ。お前は俺が必ず取り戻す。絶対にだ。
兄貴の腕の中で、ステラはまるで操り人形のように笑っている。その顔を見るだけで、俺の中の何かが焼き切れそうだった。お前はそんな顔で笑う奴じゃねぇだろ。俺だけに見せる、もっと自然で、不器用な笑顔があったはずだ。
「……いい子だ、ステラ」
兄貴がステラの髪を撫でる。その指先を、今すぐ叩き折ってやりてぇ。怒りで全身に電気が走るが、俺は奥歯を噛み締めて耐えた。動くな、まだだ。ここで飛び出せば、ステラが危ねぇ。
冷静になれ。策を考えろ。兄貴の念針をどうにかしねぇ限り、ステラは解放されねぇ。まず、ステラの体から針を抜く。それから、二人でここから逃げる。シンプルな作戦だが、相手はあの兄貴だ。一瞬の油断が命取りになる。
「さあ、キルアも出てきたらどうだい? ずっとそこにいるのは分かっているよ」
兄貴の冷たい声が、通路に響き渡った。兄貴の声が、まるで氷の刃のように俺の鼓膜を突き刺した。バレていたのか。最初から。俺はゆっくりと壁の陰から姿を現す。その視線の先には、俺を見てつまらなそうに目を細める兄貴と、その腕の中で人形のように佇むステラがいた。
「……何の用だ、兄貴。俺の女にベタベタ触ってんじゃねぇよ」
挑発するように、わざと悪態をつく。俺の言葉に、兄貴は表情一つ変えない。だが、ステラを抱く腕に力がこもったのが見えた。その独占欲を示すような仕草に、俺の怒りのボルテージがまた一段階上がる。
「その子を返してもらう。お前のくだらねぇ人形遊びに付き合わせるな」
一歩、踏み出す。全身から溢れるオーラが、バチバチと音を立てて周囲の空気を震わせた。交渉の余地なんざ、最初からねぇ。力ずくで奪い返す。それしか、道は残されていねぇんだ。兄貴は俺の殺気を浴びても、なおも余裕の笑みを崩さなかった。まるで、俺の怒りなど取るに足らないとでも言うように。その態度が、俺の神経をさらに逆撫でする。
「返す? 何を言っているんだい、キル。ステラは自らの意志でここにいる。俺を愛しているからね」
その言葉と同時に、兄貴はステラの唇に自分のそれを重ねた。その光景に、俺の思考は一瞬で沸騰する。目の前が、真っ赤に染まった。
「……てめぇ……っ!」
雷光を纏った神速(カンムル)で、一気に距離を詰める。狙うは兄貴の顔面、ただ一点。だが、その拳が届く寸前、兄貴はステラを盾にするように抱き寄せた。
「やめてっ、キルア!」
ステラの悲鳴が、俺の動きを寸でのところで停止させる。目の前には、怯えた瞳で俺を見るステラの顔。その瞳には、俺への敵意が浮かんでいた。ステラの悲鳴と、その瞳に浮かぶ純粋な恐怖と敵意。それが、俺の怒りで燃え上がっていた頭に冷水を浴びせた。俺は……ステラに怯えさせているのか。兄貴にじゃなく、この俺に。その事実に、心臓が凍りつくようだった。
「……っ、ステラ……」
振り上げた拳が、行き場をなくして震える。目の前のステラは、兄貴の腕の中で小動物のように怯えていた。俺から、守られるように。その光景が、どんな攻撃よりも俺の心を抉った。
「見ただろう、キル。この子は君を恐れている。君はもう、この子にとって脅威でしかないんだよ」
兄貴の冷たい声が追い打ちをかける。うるせぇ、黙れ。そう叫びたかったが、声にならなかった。ステラをこれ以上怖がらせたくねぇ。その一心で、俺は纏っていたオーラをゆっくりと収めた。戦いは、一時中断だ。俺がオーラを収めたのを見て、兄貴は満足そうに口角を上げた。その腕の中で、ステラはまだ俺を警戒するように見ている。その視線が、針のように俺の胸に突き刺さった。お前を助けに来たはずなのに、怖がらせてどうすんだよ。
「……ステラ、俺だ。キルアだ。わかるか?」
できるだけ穏やかな声で、ゆっくりと語りかける。兄貴の洗脳がどれほど深いか分からねぇ。でも、何かのきっかけで、お前自身の記憶が戻るかもしれねぇ。
「一緒に帰ろう。ゴンも、みんな待ってる」
思い出せ。ハンター試験で出会った時のこと。一緒に笑って、喧嘩して、旅をした日々のことを。俺の言葉が、お前の心の奥に届くことを信じて、俺はただ真っ直ぐにステラの瞳を見つめた。ゴン、クラピカ、レオリオ……。あいつらに笑顔を向けるステラの姿が脳裏をよぎり、黒い独占欲が心の奥底で鎌首をもたげた。無理やり抱いた……?違う、俺はそんなこと……。
「……ステラ、俺の言葉が聞こえるか?」
頭を振って邪念を追い払う。兄貴の洗脳は、俺の記憶すら改竄しようとしているのか。だが、惑わされるな。目の前のステラに集中しろ。お前の瞳の奥にいる、本当のお前を呼び覚ますんだ。
「お前が好きだって言ったチョコアイス、また一緒に食いに行こうぜ。今度は、ちゃんと半分こするから」
俺は必死に言葉を紡ぐ。些細な記憶の欠片でもいい。それが、お前を取り戻すための楔になるなら。俺たちの時間を、こんなクソみたいな幻に上書きされてたまるか。俺が紡いだチョコアイスの思い出。それは、二人だけが知るささやかな約束。その言葉が届いたのか、ステラの瞳がほんの僅かに揺らいだ気がした。兄貴の腕の中で、彼女の身体が微かにこわばる。
「……チョコ、アイス……?」
蚊の鳴くような声で、ステラが呟いた。その言葉に、俺の心に希望の光が差す。そうだ、思い出せ。俺たちの時間を。お前はあいつの人形じゃねぇ。
「そうだよ。お前、チョコの塊が一番下にないとヤダって我儘言うから、いつも俺が先に食ってやってただろ」
俺はさらに言葉を続ける。だが、兄貴がそれを見逃すはずがなかった。ステラの肩を抱く腕に力がこもり、その瞳が無感情に俺を射抜く。
「余計なことを吹き込むな、キル。ステラは俺の妻になるんだ」
「イルミ……。うん……イルミのそばにいる」
ステラはそう言ってイルミの両手を取って握りしめた。イルミの両手が塞がる。ステラのうなじに刺さった針がきらりと光を反射していた。ステラの言葉が、俺の胸に冷たい刃のように突き刺さる。せっかく掴みかけた希望の糸が、無慈悲に断ち切られた。イルミのそばにいる……?違うだろ。お前の居場所は、俺の隣じゃねぇのかよ。
「……っ、ふざけんな……」
ステラが兄貴の手を握る。その瞬間、俺の視界の端で、彼女のうなじに光る何かが映った。……針だ。兄貴の念針。あんなもの……。怒りと焦りで思考が焼け付く。
「ステラ、そいつから離れろ! 今すぐだ!」
叫びながら、再び神速(カンムル)を発動させる。狙いは一つ、マヤのうなじに刺さった忌々しい針だ。兄貴の手が塞がっている今が好機。お前を縛り付ける呪いごと、俺が引き抜いてやる!兄貴の手が塞がっている、今しかない。俺の全神経が、ステラのうなじに光る一点に集中する。雷光を纏った身体が空気を切り裂き、最短距離でステラの背後へと回り込もうとした。
「……遅いよ、キル」
「ぐっ……ぁ……!」
背後から聞こえるはずのない兄貴の声。その瞬間、俺の腹部に凄まじい衝撃が走った。兄貴はステラの手を振り払い、俺の動きを完璧に読んで蹴りを叩き込んでいた。息が詰まり、俺の身体は壁まで吹き飛ばされる。視界が明滅する中、兄貴がゆっくりとステラの肩を抱き寄せ、そのうなじの針にそっと指を触れさせるのが見えた。壁に叩きつけられた衝撃で、肺から空気が強制的に押し出される。咳き込みながらも、俺は兄貴を睨みつけた。身体の痛みより、目の前でステラが再び兄貴の腕の中に収まっていく光景の方が、何倍も俺の心を抉る。
「ステラはもう、お前のおもちゃじゃないんだ」
「……うるせぇ……おもちゃにしてんのはてめぇだろ……っ」
瓦礫を払い、ゆっくりと立ち上がる。神速(カンムル)の反動と腹への一撃で、身体が悲鳴を上げていた。だが、ここで諦めるわけにはいかねぇ。ステラをあの男の腕から取り戻す。そのためなら、この身がどうなっても構わねぇ。
「ステラは……俺が必ず連れ帰る」
もう一度、全身にオーラを練り上げる。バチバチと迸る紫電が、俺の覚悟を示すように周囲の空気を震わせた。兄貴はそんな俺を、値踏みするように無感情な瞳で見下ろしている。その視線が、俺の闘争心をさらに燃え上がらせた。兄貴の冷酷な視線が、俺の覚悟を試すように突き刺さる。だが、もう迷いはねぇ。ステラの瞳から光が消えていくのを、これ以上黙って見てるわけにはいかねぇんだ。
「何度来ても同じだよ、キル。お前は何も守れない」
兄貴の言葉が、俺の心の傷を抉る。守れなかった。あの時も、今も。だが、だからこそ、今度こそは……!
「黙れ……! お前にステラを渡すくらいなら、俺は……!」
俺は再び地面を蹴る。狙いは兄貴じゃない。ステラだ。お前をこの腕に抱きしめる。絶対にだ。雷光を纏った腕を伸ばし、そのか細い身体を掴もうとした瞬間、兄貴が俺の前に立ちはだかった。
「本当に、お前は何も分かっていないんだね」
兄貴の言葉が、俺の動きを鈍らせる。分かっていない、だと?ふざけるな。お前の歪んだ愛情ごっこにステラを付き合わせる、その異常さの方がよっぽど理解できねぇ。
「……ステラは道具じゃねぇんだよ……!」
怒りに任せて拳を振るうが、兄貴はそれを紙一重でかわし、逆に俺の腕を掴んだ。その瞬間、俺の身体に鋭い痛みが走る。見れば、いつの間にか兄貴の念針が何本も突き刺さっていた。
「これで少しは頭が冷えるかな。ステラも、君が暴れる姿は見たくないだろう?」
身体の自由が利かなくなる。兄貴は俺を突き放すと、再びステラの隣に立った。ステラはただ、無表情に俺たちを見ている。その瞳には、もう何の感情も映っていなかった。