お前を守るのは俺だ
兄貴の針に動きを封じられ、俺はただ無力に立ち尽くすことしかできなかった。ステラの瞳から感情が消え失せていく。俺が足掻けば足掻くほど、お前は遠くへ行ってしまうのか。その絶望が、俺の心を冷たく蝕んでいく。
「さようなら、キル。ステラは俺と新しい人生を歩む」
兄貴はそう言い残し、ステラを連れて闇に消えていく。待て、行くな。叫びたいのに声が出ねぇ。伸ばしたい腕も動かねぇ。遠ざかる二人の背中が、俺の網膜に焼き付いて離れなかった。
「……クソッ……クソがぁ……っ!」
やがて身体の自由が戻ると同時に、俺は壁を殴りつけていた。血が滲む拳の痛みなんて感じねぇ。ステラを奪われた。俺の目の前で。この無力感が、何よりも俺を苛んだ。だが、これで終わりじゃねぇ。絶対に、取り返してみせる。拳から滴る血が、床に小さな染みを作っていく。壁に刻まれた亀裂が、俺の無力さを嘲笑っているようだった。兄貴の残した冷たいオーラの気配と、ステラの甘い香りの残滓が混じり合い、俺の神経を逆撫でする。
「……待ってろ、ステラ」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟いた。今はまだ、兄貴には勝てない。力ずくで奪い返そうとしても、同じことの繰り返しだ。だったら、やり方を変えるしかねぇ。お前のそのふざけた洗脳、必ず解いてやる……。兄貴の念針……。あれをどうにかしない限り、ステラは操られたままだ。情報が必要だ。ゾルディック家、念能力、洗脳を解く方法。どんな些細な手がかりでもいい。
俺は顔を上げ、固く拳を握りしめた。絶望している暇なんてねぇ。お前を取り戻す。そのために、俺はなんだってしてやる。床に滴る血を見つめながら、俺は唇を噛み締めた。怒りと無力感で全身が震える。だが、ただ感情に任せていたって何も変わらねぇ。兄貴を倒すには、今の俺じゃ足りなすぎる。
「……力が、足りねぇ……」
そうだ、もっと強くならなきゃ。兄貴を圧倒するほどの力がなけりゃ、ステラを取り戻すことなんてできやしない。それに、あの針の呪縛を解く方法も見つけねぇと。ゴン……クラピカ、レオリオ……あいつらの顔が脳裏をよぎる。一人で突っ走って、このザマだ。今は、あいつらの力も借りるしかねぇ。プライドなんてクソ食らえだ。ステラを救うためなら、俺はどんなことでもしてやる。必ず、俺の腕の中に取り戻す。
床に膝をついたまま、俺は自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。あいつらの力を借りる……?簡単に言うなよ。俺自身の問題でステラを危険に晒したんだ。それをどの面下げて頼めるってんだ。
「……でも、今はそんなこと言ってられねぇ……」
自嘲気味に呟き、震える脚で立ち上がる。ステラのあの虚ろな瞳が脳裏に焼き付いて離れない。あいつをイルミの操り人形のままにしておくなんて、絶対に嫌だ。俺は壁を伝いながら、よろよろと部屋を出る。ゴンたちのところへ行かなきゃ。あいつらなら、きっと俺を罵りながらも手を貸してくれるはずだ。そうだろ?
重い足取りで廊下を進む。ゴンたちの部屋のドアが、やけに遠く感じた。自分の弱さも、犯した過ちも、全部あいつらに話さなきゃなんねぇ。その事実に、喉がカラカラに渇いていく。
「……情けねぇ……」
それでも、足を止めるわけにはいかねぇ。ステラの笑顔を取り戻すためなら、俺のプライドなんていくらでも捨ててやる。ドアノブに手をかけ、一度強く目を閉じた。
「頼む……力を貸してくれ……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しく震えていた。俺は意を決して、ドアを開けた。ドアの向こうには、俺の気配に気づいたゴンたちの心配そうな顔があった。レオリオが何か言いかけるのを、俺は手で制する。今にも崩れ落ちそうな身体を叱咤し、まっすぐに三人の顔を見据えた。
「……ステラが、兄貴に……イルミに連れていかれた」
絞り出した声は掠れていた。ゴンの瞳が見開かれ、クラピカが息を呑むのが分かる。情けねぇ姿を晒してでも、伝えなきゃならねぇことがある。
「俺のせいだ。俺が……あいつを傷つけて、隙を作った。あいつを助けたい。だから……俺に力を貸してくれ」
過去の過ちを認めるのは、身体を切り裂かれるよりも痛かった。だが、もう逃げねぇ。俺の言葉に、部屋の空気が張り詰めた。ゴンは驚きに目を見開いたまま固まり、レオリオは何かを察したように厳しい顔つきになる。一番最初に口を開いたのは、冷静なクラピカだった。
「……事情は分かった。キルア、まずはお前の怪我の手当てが先だ。話はそれから聞く」
クラピカの落ち着いた声が、昂っていた俺の神経をわずかに鎮める。だが、そんな悠長なことをしている時間はない。
「んなことしてる暇はねぇ! あいつが……ステラがどうなるか……!」
「当たり前だろ! ステラは仲間だ! 絶対助け出す! だからキルア、落ち着いて全部話してくれ!」
焦りから声を荒らげた俺の肩を、ゴンが力強く掴んだ。その真っ直ぐな瞳が、俺の目を射抜く。ゴンの力強い言葉と真っ直ぐな瞳に、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。俺は崩れ落ちるようにその場に膝をつく。情けねえ。仲間の前で、こんな無様な姿を晒すなんて。
「……ああ、話す。全部話すよ……」
俯いたまま、絞り出すように言葉を紡ぐ。俺がステラにしたこと、兄貴の念針のこと、そして、あいつの瞳から光が消えてしまったこと。震える声で、洗いざらい全てを打ち明けた。
「あいつは……俺のせいでイルミの操り人形にされてる。俺が……助けなきゃなんねぇんだ……!」
顔を上げた俺の頬を、熱いものが伝っていた。誰にも見せたことのない涙だった。それでも、ゴンたちは黙って俺の話を聞いてくれていた。その温かさが、今は何よりも胸に沁みた。俺の涙を見て、誰も何も言わなかった。ただ、静かに俺の告白を受け止めてくれていた。ゴンは唇を噛み締め、クラピカは静かに目を伏せ、レオリオはやりきれないといった表情で天を仰ぐ。この沈黙が、何よりも俺の心を抉った。
「……最低だろ、俺」
自嘲気味に呟くと、ゴンが俺の肩を強く叩いた。その衝撃で、俺はハッと顔を上げる。
「そんなこと言ってる場合じゃないだろ! ステラを助けに行くぞ!」
その言葉に嘘はなかった。仲間を思う、ゴンの真っ直ぐな気持ちが、冷え切った俺の心に再び火を灯す。そうだ、下を向いている暇なんてねぇんだ。ゴンの言葉が、俺の心に深く突き刺さる。俺が今すべきことは後悔じゃない。ステラを取り戻すために、前に進むことだ。
「……ああ、そうだな」
涙を乱暴に腕で拭い、俺は立ち上がった。クラピカが静かに口を開く。
「イルミの能力は操作系……針で対象を操るのだろう。だが、洗脳を解く方法は必ずあるはずだ。まずは情報を集めるのが先決だな」
クラピカの冷静な分析が、俺たちに進むべき道を示してくれる。そうだ、闇雲に突っ込んでも返り討ちに遭うだけだ。
「情報……ゾルディック家のことなら、俺が一番よく知ってる。使えるもんは全部使う」
俺は固く拳を握りしめた。ステラ、今助けに行く。だから、もう少しだけ待っててくれ。
ゴンの言葉を合図に、部屋の空気が一変した。もうここには、先程までの湿っぽい雰囲気は微塵も残っていない。
「ああ。行くぞ」
俺は力強く頷いた。レオリオが腕を組み、真剣な顔つきで俺たちを見据える。
「で、作戦はどうすんだ? ゾルディック家ってのはお前の実家なんだろ? 闇雲に突っ込んでも犬死にするだけだぜ」
レオリオの現実的な指摘に、俺は一度目を閉じて思考を巡らせる。屋敷の構造、警備、執事たちの能力……全てが頭の中に叩き込まれている。
「イルミの狙いは、俺を家に連れ戻すことだ。恐らくステラはそのための駒でしかない。奴は必ず、俺が来るのを待ってるはずだ」
俺が来るのを待っている……。その事実が、俺の胸に重くのしかかる。奴の掌の上で踊らされるのは癪だが、それを利用しない手はねぇ。
「奴は俺を泳がせて、絶望した俺が自ら家に帰るのを待ってる。だから、すぐにはステラをどうこうするつもりはねぇはずだ」
だが、それはあくまで奴の気まぐれ次第だ。時間が経てば経つほど、ステラの心は深く侵食されていく。
「屋敷への侵入経路はいくつか知ってる。だが、問題はイルミ本人だ。あいつに見つからずにステラを奪還するのは、ほぼ不可能に近い」
俺は地図を描きながら、ゴンたちに説明を続ける。俺たちの目的は、イルミを倒すことじゃなく、ステラを連れて逃げること。その一点に絞らなきゃならねぇ。俺の説明に、三人は黙って耳を傾けていた。重い空気が部屋に満ちる。こいつらを危険な場所に巻き込むことに、罪悪感がないわけじゃねぇ。だが、もう俺一人じゃどうしようもねぇんだ。
「イルミからステラを奪い返すには、陽動が必要だ。俺とゴンでイルミの注意を引きつける。その隙に、クラピカとレオリオでステラを───」
そこまで言って、俺は言葉を詰まらせた。ステラの側に、俺以外の誰かが行く。その事実に、黒い独占欲が鎌首をもたげた。
「……いや、やっぱ俺が行く。ステラに何かあったら……」
俺が手ずから取り返さなきゃ意味がねぇ。そう思った時、クラピカが冷静に俺を制した。
「キルア、お前が一番イルミに狙われている。お前がステラの元へ行けば、敵の思う壺だ。ここは冷静になれ」
クラピカの冷静な言葉が、俺の頭に冷水を浴びせた。そうだ、感情的になってどうする。イルミの狙いは俺なんだ。俺が動けば、奴は必ず現れる。それこそが、奴の罠だ。
「……分かってる。分かってるよ、そんなこと……!」
歯噛みしながら、俺は壁を殴りつけた。ステラをこの手で助け出したい。なのに、それが一番危険な選択だなんて。俺の苛立ちを察したのか、ゴンが俺の肩に手を置く。
「大丈夫だよ、キルア。ステラは俺たちが必ず助け出す。だから、キルアは俺と一緒に行こう」
ゴンの真っ直ぐな瞳が、俺の迷いを振り払う。そうだ、今は仲間を信じるしかねぇんだ。俺は小さく頷き、再び地図に視線を落とした。