まってるのに
部屋の窓際に立ったまま、キルアは何度目かの時計確認をしていた。約束の時間を過ぎても、ステラの姿はない。廊下の足音に耳を澄ませば、執事たちの淡々とした足取りばかりが聞こえてくる。
「……来ないのか」
呟いた声は、思ったより寂しげに響いた。昨日の楽しさが嘘のようだった。ドアをノックする音に振り返ると、そこにはミルキが立っていた。
「キル、兄さんが仕事に出たって。ステラさんも連れていったみたいだよ」
「は? なんで? 今日は俺と……」
言葉を飲み込み、キルアは窓の外を見つめた。空はすでに暗く、星が瞬き始めている。
「……どうでもいいや。別に暇つぶしだっただけだし」
そう言いながらも、キルアはコントローラーを強く握りしめていた。ゲーム画面には『PLAYER 2 WAITING』の文字が点滅している。
それから1週間後にイルミはステラを腕に抱えて帰ってきた。イルミに抱えられたステラは顔色が悪く、意識がない様子だった。
「ただいま」
イルミの抑揚のない声。キルアは玄関ホールに響いた兄の声に、弾かれたように部屋を飛び出した。階段の手すりから階下を覗き込むと、そこには変わり果てたステラの姿があった。
「おい、ステラ!?」
イルミの腕にぐったりと抱えられたステラは、人形のように動かない。血の気の失せた青白い顔。一週間前、屈託なく笑っていた彼女とはまるで別人のようだった。キルアの足が竦む。暗殺者として死体は見慣れているはずなのに、ステラのその姿は、心の奥底を冷たく抉るような恐怖を感じさせた。
「イル兄……ステラに、何したんだよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
「キルには関係ないよ。やけにステラと親しくなってたみたいだね」
イルミの冷ややかな声。彼はソファーにステラをどさりと置くと執事に向けて抑揚のない声で言う。
「それ、あとはよろしく」
そう言って踵を返す。イルミの背中が遠ざかっていく。その冷徹な言葉と態度に、キルアの中で何かが沸騰するのを感じた。
「ふざけるな!」
階段を駆け下り、ソファーに横たわるステラのそばに膝をつく。彼女の腕に触れると、氷のように冷たかった。
「おい、マヤ! 起きろよ! 約束しただろ!?」
声をかけても反応はない。ただ、浅い呼吸だけが続いている。キルアはイルミが立ち去った方向を睨みつけた。その瞳には、今まで見せたことのない怒りと憎悪の炎が宿っていた。
「……ん……、キルア……?」
「マヤ……! おい、大丈夫なのかよ!?」
ステラは顔色は悪いままだったがうっすらと目を開けた。キルアは慌ててステラの顔を覗き込む。その青白い顔に浮かんだ弱々しい微笑みは、キルアの胸を締め付けた。
「あ……終わったんだ……。キル、ア……ごめん、ね……約束……」
キルアはステラがか細い声で自分の名前を呼んだことに驚き、硬直した。イルミへの怒りで燃え上がっていた感情が、一瞬にして不安と安堵の入り混じったものに変わる。
「謝るなよ……! 約束なんてどうでもいい! それより、お前……イルミに何をされたんだ? あいつが……」
言葉を続けようとしたが、ステラの苦しそうな呼吸に気づき、唇を噛んだ。ただでさえ小さな彼女の身体が、さらに儚く見える。キルアは何もできない自分の無力さに、ぎゅっと拳を握りしめた。
「キルア……大丈夫、だよ……ただの仕事、だよ……」
ステラは少しためらうように言い淀んだあとに、キルアの顔を見て困ったように笑う。
「……私の念能力、使うときにちょっと代償があるの。ねえ……明日、元気だったら……またあそんでくれる……?」
ステラが執事に抱えられて部屋を出ていくのを、キルアはただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。ただの仕事……その言葉が頭の中で何度も響く。あんなになるまで、一体どんな仕事をさせられていたのか。
「……代償だって?」
キルアは小さく呟き、先ほどステラが横たわっていたソファーに視線を落とした。イルミの婚約者としてここに連れてこられたステラ。彼女の念能力が目的の政略結婚。兄はステラをただの道具としてしか見ていない。その事実が、苦い現実としてキルアに突き刺さる。
「遊んでくれる、か……」
ステラの最後の言葉を思い出し、キルアは唇を噛みしめた。守ってやらなければ。そう思った。初めてできた、ただ一緒にいて楽しいだけの存在。それを、兄の好きにはさせない。暗い決意が、幼い瞳の奥で静かに燃え始めていた。
次の日、ステラはキルアの部屋を尋ねていた。
「……キルア? ステラだよ」
ドアの向こうから聞こえたのは、紛れもなく昨日の弱々しい声とは違う、いつものステラの声だった。キルアは弾かれたように椅子から立ち上がり、ドアへと駆け寄る。
「ステラ!」
勢いよくドアを開けると、そこにはまだ少し顔色は悪いものの、ちゃんと自分の足で立つステラがいた。安堵と、言いようのない感情が胸に込み上げてくる。
「お前……! 身体はもういいのかよ!? 無理してんじゃねーだろうな!」
心配する気持ちをぶっきらぼうな言葉に乗せて、ステラの顔を覗き込んだ。昨日の光景が目に焼き付いていて、今ここにいる彼女が幻なのではないかとさえ思う。
「わっ……すごい勢いで出てくるね」
「……約束、覚えてたのかよ」
ステラはキルアの剣幕に少し驚いている。キルアは照れ隠しに視線を逸らしながら、小さく呟いた。その声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
「もう大丈夫だよ……念能力使うと、ああなるの。ごめんね、心配かけちゃって」
目の前で自分を心配してくれるキルアに、少しだけ涙腺が緩む。ステラはキルアの手を取った。ステラに手を握られた瞬間、キルアの身体がびくりと跳ねた。彼女の手はまだ少し冷たいけれど、確かに温もりが伝わってくる。
「…っ、別に、心配なんかしてねーよ! 1週間前に約束したのに来ないから、どうしたのかと思っただけだ!」
「約束のことそんなに楽しみにしてくれてたんだ。ありがとう。なんか……心配してくれる人がいるって嬉しいもんなんだね。私の家族でさえ、こんなふうに心配してくれなかったのに」
キルアは照れ臭さからぷいと顔を背けるが、繋がれた手は振り払わなかった。家族でさえ心配してくれなかったという言葉が、胸にチクリと刺さる。
「お前の家族って、どんなやつらなんだよ。あんなになるまでお前のこと放っておくなんて……」
「……普通の家族だよ」
ステラの表情が曇ったのを見て、自分の家族も似たようなものだと気づき、キルアは言葉を濁した。それ以上聞くのは、ステラを傷つけるだけかもしれない。
「……ま、とにかく! もう大丈夫ならいい。ほら、入るぞ。1週間前にできなかったゲームの続き、やるんだからな!」