にげて
キルアは西の階段の影に身を潜め、緊張した面持ちで周囲を警戒していた。時折、階段を見上げては時間を確認する。
「遅いな……」
小声で呟いた瞬間、彼の鋭い耳が微かな足音を捉えた。キルアの全身が一瞬で戦闘態勢に入る。
「ステラ……?」
階段の上から現れたのは確かにステラだったが、その表情には焦りが浮かんでいた。
「キルア! イルミが帰ってきたみたい。廊下で執事と話してるのを見たわ」
「チッ、なんでこんなタイミングで……」
その言葉にキルアの瞳が鋭く細まる。咄嗟に彼女の手を取り、階段下へと引き寄せた。キルアの頭の中では既に複数の脱出ルートが組み立てられていた。
「計画変更だ。裏庭への通路を使う。あそこなら監視が薄い。ステラ、怖くなったら言えよ。でも……もう後戻りはできないぜ」
「うん。今更戻る気はないよ。絶対に二人でここを出るんだから」
キルアの手はステラを護るように、しかし優しく彼女の手を握りしめていた。ステラはキルアの手を握り返し、二人は音も立てずに裏庭への通路を走る。ステラも暗殺一家に嫁ぐ身として音を消して歩く癖を身に着けていた。キルアはステラの手を引いて、薄暗い石造りの通路を疾走する。彼の足音はほとんど無音で、暗殺者としての訓練の成果が窺えた。ステラも同じように無音でそれについていく。
「こっちだ。この先は滅多に人が来ねぇ。ここを抜ければ、外壁はすぐだ。けど、油断すんな。警備の配置は変わってるかもしれねぇ」
キルアは壁の染みを指で押し、隠し通路の扉を開いた。ひんやりとした夜風が二人の頬を撫でる。目の前には広大な裏庭が広がっていた。彼はステラの背後を庇うように立ち、鋭い視線で周囲の気配を探る。イルミの帰還は最悪の事態だが、同時に好機でもあった。屋敷内部の警戒が兄貴に集中しているはずだ。
「いいか、俺の合図があるまで絶対に動くんじゃねぇぞ。もし見つかっても……お前は絶対に俺が守る」
「……見つかったとしても、私はキルアを置いて逃げる気はないよ」
ステラも今は位置バレを避けるために念を使用せず、キルアと機会を窺う。
「キルアとじゃないと意味がないの。私達、友達でしょ?」
ステラの言葉に、キルアの背中がわずかに震えた。友達。その言葉が、暗闇の中で微かな灯りのように彼の胸を温める。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
「……当たり前だろ。バカなこと言ってんじゃねぇよ。お前を置いて逃げるくらいなら、最初からこんなことしねぇ。……行くぞ、気配を消せ」
彼は吐き捨てるように言いながらも、その声には確かな優しさが滲んでいた。ステラの手を握る力も、無意識に強まる。キルアは再び走り出す。月明かりが差し込む裏庭は、美しいと同時に無数の危険をはらんでいた。木々の影、建物の死角、そのすべてを警戒しながら、二人は外壁へと向かう。イルミの気配はまだ遠いが、油断はできない。
「もう少しだ……あそこの壁を越えれば……!」
二人は周囲を警戒しながら外壁を飛び越える。そこにはキキョウが一人で立っていた。キュインという音と共にその顔がこちらを向く。キルアの動きが一瞬で凍りついた。月の光に照らされたキキョウの姿は、悪夢のように現実感がなかった。その目には異常な愛情と執着が宿っている。
「……母さん」
声は低く、警戒に満ちていた。キルアは咄嗟にステラを背後に庇うように立ち、右手の爪が鋭く尖る。
「キルアぁ……まぁ。可愛い私の息子が、こんな女を連れて逃げ出すなんて。お母さん、とっても悲しいわ」
キキョウの声は甘ったるく、しかし底知れぬ狂気を孕んでいた。彼女の視線がステラに向けられる。
「イルミのお嫁さんでしょう? あなたが息子を誘惑したのね」
キルアは身構えたまま、冷静に状況を分析していた。正面突破は危険すぎる。母親の執着心を利用するしかない。
「悪いな、母さん。でも俺はもう、お前たちの言いなりになるつもりはねぇんだ」
「お母様。ごめんなさい、私はイルミとは結婚しません。この家を出ます」
ステラは覚悟を決めたようにキッパリと告げる。キキョウの顔が一瞬で歪み、その唇からは甘く毒々しい笑みが零れる。キルアは本能的にステラの前に立ちはだかった。
「あらぁ〜、あなたには選択肢なんてないのよ。特にあなたの『念』は、私たちゾルディック家にとって価値があるの」
キキョウは緩やかに歩みを進めながら、キルアへと視線を移す。その目は狂気と愛情が混ざり合い、不気味な輝きを放っていた。
「キルア、お母さんの可愛い息子……あなたはまだ何も分かっていないのね。暗殺者の家系に生まれた運命から逃れられると思っているの?」
キルアの手が震え始める。それは恐怖ではなく、怒りだった。彼は母親に向かって歯を食いしばり、爪を研ぎ澄ました。
「俺の人生は俺のものだ。もうお前たちの人形じゃない。ステラを連れて出ていく……たとえお前が立ちはだかっても」
キルアの瞳が鋭く光る。幼い顔つきとは裏腹に、その目は本物の暗殺者のそれだった。
「後ろに下がってろ、ステラ。母さんはただの狂人じゃない……本気で殺しにくる」
キルアはキキョウを刺し、もう片方の手でステラの手を握ってその場を駆け抜ける。キキョウは喜悦に満ちた顔で「キル、いつの間にかとっても成長していたのね! 嬉しいわ!」と微笑んでいた。
「ね、ねえ、大丈夫なの? キルアのお母様のこと……」
ステラはキルアと駆け抜けながら心配そうにする。キルアはステラの手を強く握り返し、振り返ることなく走り続ける。母親の狂気に満ちた声が背後から聞こえてくるが、彼の足は止まらない。息を切らしながらも、その表情は驚くほど冷静だった。
「心配いらねぇ。あの人はああいう人だ。刺されたくらいで死にはしねぇよ。むしろ喜んでるだろ」
キルアは吐き捨てるように言った。その声には、長年植え付けられた家族への嫌悪と諦めが混じっている。だが、今は感傷に浸る暇はない。
「それより急ぐぞ! 母さんが追ってこなくても、すぐにイルミやミルキに連絡が行く。ここから一番近い街まで、全力で走るんだ!」
彼はステラの顔をちらりと見て、その不安を拭うように強く言った。もう二度と、彼女をあの家に縛り付けさせはしない。その決意が、キルアを突き動かしていた。
二人は一番近くの街まで無事に駆け抜けてきていた。暗殺一家に嫁ぐ身としてある程度特訓してきていたステラも、さすがに全力疾走してきたために息切れしている。
「はあっ、はあっ……ねえ、ふりきった、の?」
キルアは息を切らすステラを見て、足を止めた。彼自身は暗殺訓練のおかげでまだ余裕があるが、彼女の限界は分かっている。路地裏の影に素早く身を隠し、追手の気配がないか鋭く周囲を警戒する。
「……ああ、たぶんな。母さんが直接追ってくることはねぇだろ。問題は兄貴たちだが……ここまで来れば、すぐには見つからねぇはずだ」
彼は壁に背を預け、少し乱れた呼吸を整えながらステラに視線を向けた。彼女の頬は上気し、額には汗が滲んでいる。無理をさせてしまったという罪悪感が胸をよぎる。
「大丈夫か? 年上のくせに体力ねーな。少し休むぞ。でも油断はすんな。ここからが本当の始まりなんだからな」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、その声には紛れもない心配が込められていた。繋いだままの手を軽く握り、彼女の様子を窺う。
「ひどーい、キルアひどーい。私はキルアと違って英才教育なんて受けてないもん……どうせ私は年上のくせにキルアより背も低いし、全然お姉さんっぽくないよ」
拗ねたように上目遣いにキルアを睨むステラの顔は、年相応の顔には見えなかった。そのまま拗ねてそっぽを向いた。キルアは思わず吹き出して笑い、ステラのふくれっ面を面白そうに眺めた。普段の彼とは違う、少年らしい無邪気な表情だ。
「お前、ホントに16歳か? 今の方が小学生みたいだぞ」
そう言いながらも、キルアはステラの肩に手を置き、そっと彼女を近くの木陰へと導いた。日差しを避けた場所で、ようやく緊張が少し解けていく。
「背が低いのと、子供っぽいのは……別に悪くねぇよ。そういうところ、嫌いじゃないし。少し休もう。次に向かうのは……」
少し照れくさそうに髪をかき上げながら言った。キルアは周囲を警戒しながらも、ステラに水筒を差し出した。彼女の疲れた様子に、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「キルアわかってんの? それ全ッ然なにひとつ褒めてないし、それで嫌いじゃないとか言われてもなんにも嬉しくないんだけど」
ステラはキルアを見ないまま水筒を取るとそっぽを向いて水を飲んだ。キルアはステラの言葉に一瞬言葉を失い、自分の不器用さに内心で舌打ちした。人と普通に接することすら、彼の家庭環境では学べなかったことだ。
「悪い……そういうの、上手くねぇんだ。でもな、お前が隣にいると……なんか落ち着くんだ。イルミのためじゃなく、俺のために一緒にいてほしい」
ふと真剣な表情になり、ステラの方へ身を寄せる。キルアは自分でも驚くほど素直な言葉を口にして、少し赤くなった顔を隠すように立ち上がった。彼は周囲を見渡し、次の行動を考えている。この先に宿があるはずだから、今夜はちゃんと寝られる。明日には港町に着けるはずだから……
彼は突然立ち止まり、鋭い目つきに変わった。木々の間から微かに感じる気配に警戒している。
「ステラ……動くな」