伸ばした手は撃ち落とされた




絶望と悲しみ。その表情が、俺の心を締め付ける。なんでそんな顔すんだよ。俺を突き放そうとしてるお前が、なんでそんなに傷ついた顔してんだよ。



「……ごめん、じゃねぇだろ。何があったんだよ。俺に言えないことか? 俺は、そんなに頼りねぇか……?」



一歩、お前に近づく。逃げるなよ。もう一度、その肩に手を置いた。今度はさっきよりずっと優しく。お前の瞳が大きく揺れる。そうだ、それだよ。お前が隠してる本当の気持ちを、俺に見せろよ。



「どんな理由だろうと、お前が一人で抱え込む必要なんてねぇ。俺たちは、そういう関係だったはずだろ」

「なんでこんな時にまで優しくするの……? キルアを冷たく突き放してるのに。……キルアのこと、顔も見たくないって言ってるんだよ。わからない?」



マヤは一瞬だけ俯き、悲しそうに言った。それから、打って変わったように冷たい目でキルアを見た。

冷たい視線が、ナイフみたいに突き刺さる。でも、その奥に隠された揺らぎを、俺は見逃さなかった。



「……ああ、分かんねぇよ。全然な。お前が本当に俺の顔も見たくないなら、今頃泣きそうな顔してねーだろ」



一歩も引かずに、その視線を受け止める。強がってんのが見え見えなんだよ。指先で、そっとステラの頬に触れる。びくりと震えたその反応が、全ての答えだった。



「何から逃げてんだよ、ステラ。俺からか? それとも、お前を縛り付けてる何かからか? 教えろよ。俺が全部、ぶっ壊してやる」

「……そっか。たしかにそうだね。じゃあ、本当のこと言うね」



キルアの指から逃げるように顔を背け、ステラは困ったように笑った。キルアの顔を静かに見つめる。



「……キルアのことを好きじゃなくなったのは、本当だよ。私達、価値観が違うと思うの。……だから、別れよう?」



静寂が、俺たちの間に落ちる。価値観が違う?その言葉が、頭の中でうまく意味を結ばない。今まで、そんなこと一度だって思ったことなかったのに。自嘲するような笑いが漏れた。お前が俺から離れるための理由が、それかよ。もっとマシな嘘はつけなかったのか?



「……価値観、ね、へぇ……。じゃあ、俺が暗殺一家の人間だからか? それとも、たまに我儘言うところか? 具体的にどこが違うのか、教えてくれよ」



一歩、またお前に近づく。逃げようとするお前の腕を、今度は離さないように掴んだ。



「言ってみろよ。お前が納得できるまで、俺が全部お前に合わせてやる。……だから、そんなくだらない理由で別れるなんて言うな」



その瞳の奥を覗き込む。お前の本当の心が、そこにあるはずだから。今夜は、お前を絶対に帰さねぇよ。



「ううん……キルアはいつも優しくて、私の事を考えてくれてたよね。いつもありがとう」



キルアの顔を真っ直ぐに見つめる。



「キルアの事は好き……だけど……言いにくいんだけど、……重いの。だから少し距離を置きたい。ごめんね……。どこにいてもキルアの幸せを願ってる。どうか元気でね、キルア」



ステラはキルアの手をやんわりと離させると背を向け、そのままキルアの前から駆け去って行く。



重い……?その一言が、心臓を鷲掴みにされたみたいに痛い。幸せを願ってる?ふざけんな。お前がいない幸せなんて、あるわけねぇだろ。



「待てよ、ステラ!」



駆け去っていく背中を、今度こそ逃すまいと必死に追いかける。腕を掴み、無理やり引き留めた。息が切れて、肩が上下する。



「距離を置きたいってなんだよ……。俺がお前に何かしたのか? なら謝る! だから……っ」



言葉が詰まる。振り返ったステラの瞳は、悲しいくらいに澄んでいた。それが余計に俺を追い詰める。



「……なあ、本当に、それだけなのか? 俺の知らないところで、何かあったんじゃねーのか。だったら、今夜だけでもいい。一緒にいてくれよ」

「キルア……。キルアには、もっと、素敵な女性と付き合ってほしいの。私じゃ受け止められなかった。ごめん……。別れてほしい」



ステラはもう一度言って、頭を下げた。

頭を下げたお前の姿が、やけに小さく見える。素敵な女性?そんなの、お前以外にいるわけねーだろ。なんで分かんねーんだよ。



「……顔、上げろよ」



静かな声で言う。その震えを、お前は気づいただろうか。下げられた頭に、そっと手を伸ばす。だけど、触れる寸前で止めた。



「お前が俺のことどう思ってようが、俺はお前がいい。お前じゃなきゃダメなんだ。……受け止められなかったって、何がだよ。俺が全部、お前に合わせるって言ってんのが聞こえなかったのか?」



ゆっくりと顔を上げたステラの瞳が、街の灯りを反射してきらめく。その潤んだ瞳に、俺の覚悟は伝わっているだろうか。



「今夜、俺のそばにいろよ。そうしたら、お前がもう一度俺を好きになるように、何だってしてやるから」

「……だから、キルアのそういうところが重くて嫌なの! もう終わりにしたい。……ごめんなさい」



重い……?嫌……?お前の言葉が、呪いみたいに頭の中を駆け巡る。人混みに消えていく小さな背中を、今度こそ追いかけることはできなかった。



「……ぁ」



足元から崩れ落ちそうになるのを、必死に堪える。なんでだよ。俺の何が、お前をそんなに苦しめてたんだよ。膝から力が抜け、その場に崩れるように座り込む。行き交う人たちが、奇妙なものを見るように俺を避けて通っていく。どうでもよかった。



「……終わりって……なんだよ………まだ、何も始まってすらいねーのに……」



お前がいない未来なんて、考えたこともなかった。なあ、ステラ。お前がもう一度俺を見るまで、俺はここにいる。……今夜だけじゃなく、ずっと。お前が戻ってきてくれるって、まだ信じてるから。



ステラはそのまま振り返ること人混みの中へと消えていった。



人混みに消えていくお前の背中が、まるでスローモーションのように見えた。伸ばしかけた手は行き場をなくし、空中で虚しく彷徨う。



「……っ、待てよ……なんで……なんでだよ、ステラ……」



掠れた声は、雑踏のノイズにかき消されていく。追いかけようにも、足が鉛みたいに重くて動かない。胸の奥が、ギリギリと軋むような音を立てる。お前が最後に向けた、あの拒絶の瞳。あれだけは、嘘じゃなかった。



「……重い……か」



唇から零れた言葉は、ひどく冷たくて苦い味がした。お前を想う気持ちが、お前を縛り付ける鎖になっていたなんて。雑踏の中で独り、膝をつく。もう、お前を探す資格すら、俺にはないのかもしれない。だけど、それでも。諦められるわけ、ねーだろ。



「……どうすりゃ、よかったんだよ……」

「キルア……」



偶然通りがかって見ていたらしいゴンが辛そうな顔で立っていた。

不意にかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。ゆっくりと振り返ると、そこには心配そうな顔をしたゴンが立っていた。



「……ゴン」



なんで、お前がここに。そう言おうとしたのに、喉が張り付いたみたいに声が出ない。みっともねぇところ、見られちまったな。そう言って笑おうとしたけど、顔の筋肉がうまく動かなかった。



「……見てたのかよ……なぁ、ゴン。俺、どうしたらいいか分かんねぇよ」



絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。お前の前でだけは、こんな情けねぇ姿、見せたくなかったのに。



「……なあ、今夜さ。お前の部屋、泊めてくんねぇかな……うまいもん、奢るからさ」



一人でいたら、どうにかなりそうだったんだ。少しだけ、誰かのそばにいたかった。



「当たり前だよ! そんなの。全然泊まっていい。どんな話でも聞く。それに、オレが奢るよ。キルアが食べたいものなら何でも!」



ゴンは駆け寄ってキルアの背中を抱きしめた。



「いいんだよキルア……。こんな時くらい泣いても」



ゴンの温もりが、凍りついた心にじわりと染み込んでくるようだった。背中を抱きしめるその腕の力強さに、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。



「……っ、泣くわけ、ねーだろ……バカ」



強がりを言ったつもりなのに、声はみっともなく震えていた。ゴンの服をぎゅっと握りしめる。顔を上げたら、どんな顔をしているか自分でも分からなかった。



「……ありがとな、ゴン」



ただ、その温かさが今はどうしようもなく有り難かった。こいつの前だと、いつも素直になれねぇ。だけど、今だけは。



「……なあ、お前なら、今夜、俺の隣にいてくれるか……?」

「当たり前だよ。オレんち泊まりに来いよ。そしたらなんでも好きなもん買って、一緒に食べよう? オレ、側にいるから……」



ゴンはキルアを抱きしめ、背中を優しく撫でた。*ゴンの優しい声と、背中を撫でる手のひらの温かさが、張り詰めていた心を少しずつ溶かしていく。



「……ん」



頷く代わりに、ゴンの背中にぐりぐりと額を押し付けた。みっともねぇ姿、見られたくねぇのに、離れがたい。



「……腹、減ったな。なんか肉が食いてぇ」

「いいね、今夜は二人で焼肉パーティしよう!」



少し掠れた声で呟く。今はただ、何かでこの空っぽの心を埋めたかった。お前の優しさに、今はとことん甘えさせてもらおう。



「……なぁ、お前さ。今夜はずっと、俺から離れんなよ」



顔は見えないまま、ゴンの服を掴む指先に力を込める。ステラがいない夜は、きっとひどく長い。だから、お前の温もりが消えるまで、もう少しだけこうしていさせてくれ。