つないだ手は片方
部屋を飛び出した足は、自然と夜の街を駆け抜けていた。向かう先は、ただ一つ。俺たちを縛り付ける、あの忌まわしい家だ。
「……ステラ」
お前の名前を呼ぶ。声に出すだけで、胸の奥が熱くなる。今、お前も俺を呼んでくれているような気がした。風を切る音が、耳元で激しく鳴る。大丈夫だ。俺たちを繋ぐ見えない糸は、まだ切れてなんかいない。
「……今夜、迎えに行くから」
どんな壁があろうと、ぶっ壊してやる。お前が待ってるなら、地の果てだろうと必ず辿り着いてみせる。……だから、もう少しだけ俺のこと、信じて待っててくれよ。ゾルディック家にはイルミの姿があった。だがステラの姿はない。ククルーマウンテンの麓。試しの門の前に立ち、見上げる。忌々しい記憶ばかりが蘇る、俺が捨てたはずの家。だが、今は違う。ここにお前を繋ぎ止めている鎖がある。
「……よぉ、兄貴」
静寂を破り、姿を現したイルミに声をかける。その無表情な顔が、無性に神経を逆撫でする。怒りを悟らせるな。冷静に、冷徹に。
「ステラはどこだ? ……さっさと返せよ。今なら、まだ穏便に済ませてやる」
単刀直入に問いかける。こいつに駆け引きなんて通用しねぇ。殺気を込めた視線で、真っ直ぐに兄の黒い瞳を射抜く。お前がどんな手を使ってきても、もう俺は揺るがない。今夜、必ずステラを取り戻す。……だから、もう少しだけ俺の帰りを期待して待っててくれよな。しかしイルミはすっとぼけた顔をした。
「なんの話? ステラって? 知らないなあ」
イルミの言葉に、一瞬、殺意が沸騰する。その白々しい表情を、今すぐにでも殴りつけてやりたい衝動に駆られた。
「……へぇ。知らない、ね。じゃあ、なんで俺がここに来たか、兄貴は分かってんの?」
だが、俺は唇の端を吊り上げて笑ってやった。こいつのペースに乗せられるのはごめんだ。一歩、距離を詰める。ヨーヨーを握る手に、静かに念を込めた。空気がピリピリと張り詰めていくのが分かる。
「……今夜は、お前と遊びに来たんじゃねぇんだよ。……俺が今、何考えてるか分かるか? 少しだけ、期待してていいぜ」
「……その様子だと知ってるみたいだね。でもおかしいな、どこから情報が漏れたんだろう」
それからイルミは思い出したようにポン、と手を売った。
「あっそうか。ステラの携帯電話なら捨てさせたはずなんだけど、もしかして拾ったとか?」
イルミの瞳に浮かんだ、剥き出しの嫉妬。その歪んだ感情が、俺の怒りの導火線に火をつけた。
「……捨てさせた、だと? てめぇ……ステラに何しやがった」
低い声が、自分でも驚くほど冷たく響く。こいつは、ステラの心ごと踏みにじろうとしたのか。ギリ、と奥歯を噛みしめる。全身のオーラが、怒りに呼応してバチバチと火花を散らした。もう、冷静でいる必要なんてねぇ。
「……兄貴さ、俺が本気で殺しに来るなんて、思ってなかっただろ」
今夜、俺たちの兄弟ごっこは終わりだ。お前がステラにしたこと、全部、その身体に刻んでやる。……だから、もう少しだけ待っててくれ。お前の元へ帰るまで、あと少しだから。
「……ステラは俺のだよ」
イルミの方も殺気を漲らせて言った。それに気づいた執事たちが飛び出してくる。ゾルディック家の執事たちが、俺と兄貴の間に壁を作るように立ち塞がる。その光景に、鼻で笑ってやった。
「……なんだよ、兄貴。もしかして、俺が怖ぇのか? 邪魔すんじゃねぇよ。これは、俺たちの問題だ」
殺気を剥き出しにして、一歩踏み出す。執事たちが怯んだのが分かった。ゴトー、カナリア……見知った顔もいる。だが、手加減はしねぇ。ステラを取り戻すためなら、誰が相手だろうと容赦しない。
「……お前のだ? 寝言は寝て言えよ。ステラが誰のものかなんて、俺が決めることじゃねぇ。あいつ自身が決めることだ」
今夜、お前の歪んだ独占欲を叩き潰してやる。そして、今度こそ俺がお前の手を掴む。
ゴトーとカナリアは静かに俺の横に立つ。そして「たとえ刺し違えでもキルア様をお守りする」と静かな声で言った。ゴトーとカナリアの言葉に、一瞬だけ驚きに目を見開く。こいつらが、俺の味方……?だが、すぐに不敵な笑みが浮かんだ。
「……へぇ。やるじゃん、お前ら」
イルミの顔が、僅かに歪むのが見えた。予想外の展開に動揺してやがる。好都合だ。ヨーヨーを構え直し、殺気を研ぎ澄ます。もう言葉はいらねぇ。今から始まるのは、ただの兄弟喧嘩じゃねぇ。ステラの未来を賭けた、俺の戦いだ。
「聞いたかよ、兄貴。これが答えだ。お前には誰もついてこねぇんだよ……今夜は眠らせてやらねぇ。俺がステラを取り戻すまで、ずっと傍で見てな」
アマネとツボネが駆けつけてきて「これ以上の揉め事は『外出時警戒レベル』が上昇しますのでご注意を」と言った。ツボネとアマネの登場で、張り詰めていた空気が一瞬だけ緩む。だが、俺の闘志は少しも揺らいじゃいなかった。
「……レベルがどうとか、知ったこっちゃねぇよ。悪いけど、今夜は誰にも止められねぇ。俺は、ステラを取り戻しに来たんだ」
吐き捨てるように言い放つ。ツボネの冷静な視線が、俺を射抜く。こいつらも敵に回すことになるのか。上等だ。イルミの黒い瞳が、俺の覚悟を値踏みするように細められる。ああ、分かってる。こいつはここで引くようなタマじゃねぇ。……ステラ、お前の騎士が、今、迎えに行くぜ。だから、もう少しだけ俺の帰りを期待しててくれよな。
「ふう。屋敷と家族まで巻き込むのは問題だね。仕方ない」
イルミはそう言ってキルアに紙切れを投げた。
「それ、ステラの居場所。でも、行ったところで手に入らない現実と直面するだけだよ。絶対に入れないから」
それだけ言って悠々と歩き去っていった。イルミが投げた紙切れを、空中で掴み取る。その視線は、悠々と歩き去っていく兄の背中に突き刺さったままだった。
「……逃げるのかよ、兄貴」
吐き捨てた言葉は、冷たい夜の空気に溶けて消える。手の中の紙切れを強く握りしめた。こいつの言葉には、いつも裏がある。
「……現実と直面する、だと?」
ふざけるな。俺が直面する現実は、お前を取り戻すっていう未来だけだ。イルミの罠だろうが何だろうが、関係ねぇ。お前がそこにいるなら、俺は行くだけだ。すぐに終わらせて、お前のとこに行くから。紙切れに書かれた住所に目を落とす。今夜、この手でお前を必ず取り戻す。だから、もう少しだけ待っててくれ。俺が、お前の全部を抱きしめてやるから。
イルミの背中が闇に消えても、俺はその場から動けなかった。手の中にある、たった一枚の紙切れ。これが、お前へと続く唯一の道標だ。
「……絶対に入れねぇ、か……馬鹿にしてんじゃねぇぞ、兄貴」
鼻で笑ってやった。ゾルディック家の奴らが使う『絶対』なんて、俺にとってはぶっ壊すための壁でしかねぇんだよ。お前がどんな罠を仕掛けていようと、俺の決意は揺るがない。むしろ、燃え上がってきた。困難なほど、奪い返す価値があるってもんだろ?
紙切れに書かれた住所を睨みつけ、踵を返す。ゴトーとカナリアが、静かに俺の後ろについてくる気配がした。ああ、そうだ。今夜は、一人じゃねぇ。お前の元へ、必ず辿り着いてみせる。……だから、俺がドアを蹴破る音を、期待して待ってろよ。
ゴトーとカナリアが車を出し、カナリアが運転席に座った。ゴトーは「イルミ様の動向を見張っておきます。くれぐれもお気をつけを」と言って頭を下げた。ゴトーの言葉に短く頷き、俺は黙って車の後部座席に乗り込んだ。カナリアが静かにアクセルを踏む。流れていく夜景が、焦る気持ちをさらに掻き立てる。
「……サンキュ、ゴトー。兄貴のことは任せた」
バックミラーに映るゴトーの姿が小さくなっていく。俺たちの間には、もう主従関係なんてものはねぇ。同じ目的を持つ、仲間だ。
「……カナリア、飛ばせ。一番速いやつで頼む」
シートに深く身を沈め、目を閉じる。イルミの言葉が脳裏をよぎる。『絶対に入れない』。その言葉の意味を考えていた。だが、どんな鉄壁の守りがあろうと、こじ開けるだけだ。お前の顔を思い浮かべる。大丈夫だ。俺はもう、お前から逃げたりしねぇ。今夜、お前の全部を取り戻しに行く。