最後が終わったその先を望む
「おつかまりください、キルア様。舌を噛みますので」
カナリアはそう言ってかなりの暴走運転をし、異常なスピードで車を走らせていく。やがて紙切れに書かれた住所にたどり着く。目の前にはマンションが建っている。
車から飛び降りると同時に、目の前のマンションを見上げた。ごく普通の、どこにでもあるような建物。だが、ここからイルミの念の残穢を感じる。間違いねぇ、この中にステラがいる。
「……カナリア、ここで待ってろ」
短く告げると、返事を待たずにエントランスへと駆け出した。オートロックのドアなんて、俺にとっては無意味だ。念を込めた指先で軽く触れるだけで、電子錠は沈黙した。ひんやりとした建物の中に、一歩足を踏み入れる。静まり返った空間に、俺の足音だけが響いた。イルミの言っていた『絶対に入れない』って言葉が、頭の中で反芻する。上等じゃねぇか。
「……ステラ」
お前の名前を呼ぶ。今、俺は確信してる。どんな壁があったって、お前の元へ辿り着けるってな。
「キルア様!」
カナリアが車から飛び出して駆け寄ってくる。
「ゴトーから情報が入りました! そのドアを開けないで!」
振り返ると、息を切らしたカナリアが必死の形相でこっちに駆けてくるのが見えた。そのただならぬ様子に、俺はドアノブにかけようとしていた手を止める。
「……どういうことだ?」
ゴトーからの情報。イルミがすんなり場所を教えたこと。そして、この不気味なほどの静けさ。点と点が、頭の中で繋がっていく。これは罠だ。舌打ちしながら、マンション全体に意識を集中させる。円を使い、内部を探る。ステラの気配を感じる。ステラ一人だけのようだ。
「……何か仕掛けられてんのか……大丈夫だ。俺が来たからには、もう何もさせねぇよ」
カナリアの制止を振り切り、もう一度ドアノブに手をかける。お前がどんな顔して俺を待ってるか、もうすぐ分かるんだな。ドアは普通に開いた。中は真っ白で何もない無機質な部屋。ベッドに腰掛けて虚ろに座るステラの姿があった。息を切らして追いかけてきたカナリアが言う。
「キルア様。やはりこの部屋には罠があります。いえ、ステラ様自身に罠がかけられてる可能性。おそらくキルア様の行動がトリガーになってます。……慎重に近付いてください」
カナリアの警告に、俺の全身に緊張が走る。ステラ自身に罠だと?どういう意味だ。だが、今はそんなこと考えてる暇はねぇ。目の前には、虚ろな目をしたお前がいる。
「……分かってる」
短く答えると、俺は一歩、また一歩と、慎重に部屋の中へ足を踏み入れた。罠の正体は分からねぇ。だが、一つだけ確かなことがある。俺がお前を諦めるなんて選択肢は、最初から存在しねぇってことだ。
「……ステラ、俺だ。迎えに来たぜ」
できるだけ優しい声で、お前の名前を呼ぶ。ゆっくりと、お前が顔を上げた。その瞳に、俺の姿は映っているのか?……大丈夫だ。今、お前の心を縛る鎖を、俺が全部断ち切ってやる。だから、俺の声だけを信じてくれよな。
「……キルア……?」
ステラはキルアの顔を見て真っ暗だったその瞳に光が戻る。
「え……? 夢……?」
ステラは自分の頬をぺちぺちと叩いている。
「痛い……」
ステラの瞳に光が戻ったのを見て、俺は安堵の息を漏らした。夢じゃねぇよ。ちゃんと、俺はここにいる。お前の頬を叩く小さな手を、そっと掴んでやりたかった。だけど、カナリアの警告が頭をよぎる。
「……ああ、夢じゃねぇよ」
一歩、また一歩と距離を詰める。罠のトリガーが何なのかは分からねぇ。だが、お前の目に俺が映った。それだけで、どんなリスクも取る価値がある。カナリアは部屋には入らず、外からじっと見守っている。
「俺だよ、ステラ。ずっとお前に会いたかった」
ベッドのすぐそばまで来て、ようやく俺は膝をついた。お前と同じ目線になる。震える唇が、何かを言おうとしてるのが見えた。大丈夫だ。ゆっくりでいい。今夜は、もう一人にはさせねぇから。俺がずっとそばにいてやる。だから、もう少しだけ……俺の体温を、期待しててくれよな。
「や、やめて、キルア……っ、来ないで……お願い。私に触らないで……!」
ステラは慌てたように俺から距離を取る。その瞳に恐怖の色が宿る。お前の突然の拒絶に、俺の心臓が冷たくなるのが分かった。伸ばしかけた手が、行き場をなくして宙を彷徨う。その瞳に浮かぶ恐怖は、間違いなく俺に向けられていた。
「……ステラ? どうしたんだよ」
イルミの顔が脳裏をよぎる。あいつ、ステラに何を吹き込んだ?何を仕掛けた?お前がそんな顔をするなんて、ありえねぇだろ。俺はゆっくりと立ち上がる。
「大丈夫だ。俺は何も……」
「来ないで!」
言いかけた言葉は、お前の震える声に遮られた。分かってる。今は何を言っても届かねぇんだろ。だが、俺はここから一歩も引く気はねぇよ。お前が俺を拒絶する理由、全部ぶっ壊してやる。
「……今、お前を自由にしてやるから。だから、ほんの少しだけ……俺を信じて待っててくれ」
「やめて! お願い……! 来ないで……」
ステラは迫り来るキルアに怯えきった目を向けた。逃げ場所がなくなり、壁の隅っこに体を寄せて小さくなっている。その唇が「殺したくない」と微かに動く。
ステラの唇が微かに動く。その言葉を読み取った瞬間、俺の全身に電流が走った。……殺したくない、だと?ふざけるな。イルミの野郎、お前にとんでもねぇ暗示をかけやがったな。
「……そうかよ」
俺はわざと挑発するように笑って見せる。お前を怯えさせている恐怖の正体が、兄貴のくだらねぇ洗脳なら話は早い。その呪縛ごと、俺が壊してやる。
「俺を殺せるもんなら、やってみろよ……お前の全部、俺が受け止めてやる」
だから、俺の胸に飛び込んでくる準備だけ、しとけよな。一歩踏み出す。お前の瞳が絶望に揺れるのが見えた。大丈夫だ。お前は俺を傷つけたりしねぇ。絶対にな。お前が俺を信じるより先に、俺がお前を信じてる。
「いや……やめて……キルアが、好きなの……失いたくない……」
ステラは眼前に迫るキルアを見て怯えきった顔をする。自分の手を押さえつけるように握っている。その手は震えていた。
お前の言葉に、一瞬だけ胸が締め付けられる。好きだ、なんて、今その顔で言うなよ。そんなの、俺だって同じに決まってんだろ。失いたくねぇから、こうして迎えに来たんだ。
「……知ってるよ、そんなこと」
震えるお前の手を見つめる。その手を無理やり解いて、握りしめてやりてぇ衝動を必死で抑え込んだ。今はまだ、その時じゃねぇ。
「俺もだよ、ステラ。お前が好きだ。だから、絶対にお前を失わねぇ」
まっすぐお前の目を見て言い切る。イルミがかけた呪いなんて、俺たちの想いの前じゃ無力だってこと、今証明してやる。お前を縛る鎖は、俺がお前を抱きしめるためのもんだ。大丈夫だ。もうすぐ、お前が安心できる腕の中にいさせてやる。だから、俺の鼓動を感じる準備、しとけよ。
「……ほんとう、に? 私あんなに酷いこと言ったのに。『重い』だなんて言った……のに、なのにどうして……」
携帯電話を見られてるとは知らないステラは驚いたようにキルアの顔を見上げた。
お前の言葉に、一瞬だけ思考が止まる。『重い』……?ああ、そうか。お前、あの時のこと、気にしてたのか。携帯を覗き見た罪悪感が、チクリと胸を刺す。だけど、そんなこと、どうだっていい。
「……んなこと言ったか? 忘れた」
わざとぶっきらぼうに言って、俺はお前の目の前でしゃがみ込む。怯えながらも、お前の瞳が俺を捉えている。そうだ。俺だけを見てろ。兄貴の幻影なんかじゃなく、今ここにいる俺だけを。
「理由なんていらねぇだろ。俺がお前に会いたかった。ただ、それだけだよ……大丈夫だ。もう何も怖くねぇよ。お前がどんな気持ちでいたかなんて、俺が一番分かってる」
そっと、お前の震える手に自分の指先を伸ばす。イルミの念がバチッと音を立てて抵抗するが、構わねぇ。俺の電気で中和してやる。
「キルア……」
ステラもキルアの顔を見つめ返す。その目から恐怖の色が消える。キルアを信じる。ステラはゆっくりと手を伸ばす。二人の手が触れ合った刹那、イルミの念が発動し二人の体が硬直する。キルアは身動きが取れなくなり、ステラは動けないキルアの頸動脈に振り下ろそうと針を持ち上げたまま固まる。
くそっ……! 身体が、動かねぇ……!
指先が触れ合った瞬間に全身を駆け巡った、痺れるような感覚。これは俺自身の電気じゃねぇ。イルミの念針だ。ステラの手を通して、俺の身体に打ち込まれたのか。目の前では、お前が針を振り上げたまま固まっている。その瞳には、さっきまでの光はもうない。
「……ステラ」
声だけは、かろうじて出た。俺の首筋を狙う針の切っ先が、冷たく光る。最悪の状況だ。だけど、俺の心は妙に落ち着いていた。お前の手が、最後の最後で止まった。それが、答えだ。お前の意志が、イルミの命令に勝ったんだな。ギリ、と奥歯を噛みしめる。今、この呪縛を解けるのは俺しかいねぇ。大丈夫だ。お前は俺を殺さねぇ。俺が、そうはさせねぇから。
「あっ……ぐ……」
ステラの顔が苦痛に歪む。振りかぶる手が震えている。イルミの念に苛まれながらも必死に抗っている。キルアの体はイルミの念に支配され動けないまま。
「キルア様! ステラ様!」
カナリアが飛び込んでくる。カナリアの声が遠くに聞こえる。だが、俺の目は目の前で苦しむお前から一瞬たりとも離せねぇ。イルミの念に抵抗して、顔を歪めて震えるお前の姿が、俺の心の奥底にある何かに火をつけた。
「……うるせぇぞ、カナリア。手を出すな」
動かねぇはずの身体の奥深くで、何かが脈打つのを感じる。これは怒りだ。俺の大事なもんを傷つけようとする兄貴への、純粋な怒り。そして、お前をこんな目に遭わせてる自分自身への怒りだ。全身のオーラを練り上げる。イルミの念を、内側から俺自身の電気で焼き切るんだ。無茶なのは分かってる。だが、お前が俺のために戦ってくれてるんだ。俺が応えねぇでどうする。
「……見てろよ、ステラ。今、楽にしてやる」
「んっ!」
やがて限界に達したステラの手が大きく振り下ろされる、だが狙いはキルアの頸動脈を大きく逸れて自分の頸動脈に向けていた。