08






は? ……何が起きた?



俺は目の前の光景が信じられず、瞬きも忘れてリングを見つめていた。ギタラクルがマヤに何かを囁いたと思ったら、次の瞬間にはマヤの勝利が告げられていた。戦わずに、だと?ふざけんな。さっきのクラピカの時もそうだ。ヒソカも、このギタラクルって男も、一体何を囁いたんだ?マヤは驚いたような顔をしていたが、すぐに表情を消してリングを降りてくる。



「……おい」



思わず声をかけていた。俺たちの横を通り過ぎようとするマヤの腕を、咄嗟に掴む。その細い腕から伝わる体温に、俺の心臓が妙にうるさく鳴った。



「……何?」



キルアに腕を掴まれたマヤはキルアを警戒するような目で見る。クラピカもそっと歩み寄り、問いかける。



「何を言われたんだ? マヤ。ヒソカと私のような共通点でもあったのか?」

「うん……あった、みたい……いや……ギタラクルって人とは初対面のはずなんだけど……」



マヤの曖昧な答えと、掴んだ腕から伝わる微かな震えに、俺の苛立ちは頂点に達した。共通点だと?ヒソカとクラピカ、そしてギタラクルとお前の間に?ふざけたこと言ってんじゃねぇよ。



「……初対面? それで何で負けを認めるんだよ、あいつが。何を言われたんだ。言えよ」



俺は掴んだ腕に力を込める。クラピカの視線なんか、今はどうでもよかった。こいつの口から直接聞かねぇと気が済まねぇ。俺の剣幕に、マヤが怯んだように目を伏せる。その反応が、さらに俺を焦らせた。言えないようなことなのか?それとも、俺に隠すようなことなのか?どっちにしろ、気に食わねぇ。お前のことは、俺が一番知ってなきゃダメなんだよ。



「……別に隠そうとなんてしてないよ。それより痛いから離してくれない?」



マヤはキルアを警戒するような目で見たまま、キルアの手を振り払った。そしてキルアを避けるようにクラピカの横に立った。



「……お前は俺の嫁だから戦わないって言われた。意味がわからないよね……」



マヤから放たれた「嫁」という言葉が、俺の頭の中で反響する。は?嫁……?誰が、誰の?



「……はぁ?」



理解が追いつかず、間抜けな声が出た。ギタラクルがお前に?意味が分からねぇ。なんであの針男が、マヤにそんなことを言う必要がある?俺の動揺をよそに、マヤはクラピカの隣にぴったりとくっついている。その距離が、無性に腹立たしかった。俺から逃げるみてぇに、あいつの隣に行くんじゃねぇよ。



「……意味わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ。そんな戯言で、あいつが勝ちを譲るわけねぇだろ」



俺はマヤから目を逸らし、リングの向こうにいるギタラクルを睨みつけた。あの不気味な男が、何を企んでるのかは知らねぇ。だが、こいつに妙なちょっかいを出す奴は、誰だろうと許さねぇ。



「私だって混乱してるよ。ギタラクルが何を考えてるかなんて……」



ネテロが「次はポックルVSキルア」と言うとマヤはハッとしたようにキルアの顔を見た。



「キルア……勝つよね? ポックルに負けないよね? ポックルに負けたら、キルアはギタラクルと戦うハメになるよ。絶対に勝ってね」



マヤはクラピカの隣から離れようとしないままやけにキルアを心配していた。

マヤの言葉に、俺は思わず目を見開いた。ポックルに負けたら、次はギタラクルと戦うことになる。そんなこと、とっくに分かってる。だが、それをこいつの口から、しかも心配そうな顔で言われると、妙に心臓がうるさくなる。



「……当たり前だろ。誰に言ってんだよ」

「そうだよね、キルアが負けるわけないよね、良かった……」



俺はポケットに手を突っ込み、わざとぶっきらぼうに答えた。クラピカの隣に立ったままなのが気に食わねぇが、今はそんなこと言ってる場合じゃねぇ。マヤの目が、真っ直ぐに俺を射抜く。絶対に勝ってね……その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。チッ、そんな顔で言われたら、勝つしかねぇじゃねぇか。



「……見てろよ。あんな奴、瞬殺してやるから」



俺はマヤから視線を外し、リングへと向かう。背中に感じるマヤの視線が、やけに熱い。ギタラクルの野郎が何を企んでるかは知らねぇが、お前と戦うのは、俺だ。誰にも譲る気はねぇよ。俺の心配か?さっきまでクラピカの隣に隠れてたくせに、都合のいい時だけ俺に頼ってんじゃねーよ。……なんて、口が裂けても言えるわけねぇだろ。…フン。俺が負けるわけねぇだろ、あんなザコに。

俺はマヤを一瞥すると、すぐに視線を逸らした。心配そうな顔しやがって……そんな顔、俺以外の男の前ですんじゃねぇぞ。胸の奥が妙にざわつくのを誤魔化すように、リングへと歩を進める。



「お前こそ、あんな不気味な奴に『嫁』とか言われて平気なのかよ」



わざと棘のある言い方で問いかける。お前が気にしてんのは、俺のことか?それとも、ギタラクルと戦うことになるかもしれないっていう状況か?どっちだっていい。どっちにしろ、お前は俺だけ見てればいいんだよ。俺の棘のある言葉に、マヤが少しだけ傷ついたような顔をする。……チッ、別にそんなつもりじゃなかった。ただ、お前がクラピカの隣にいるのが気に食わなくて、つい意地の悪いことを言っちまっただけだ。



「……ポックルに勝つのは当然だ。問題はその後だろ」



リングに上がりながら、俺はマヤから目を離さずに言った。お前が心配してるのは、俺がポックルに負けることじゃねぇ。俺がギタラクルと戦うことだ。違うか?



「あんな奴に『嫁』だなんて言わせて、黙ってるつもりはねぇよ」



俺はポックルに向き直り、ニヤリと笑う。まずはこいつを片付けねぇとな。マヤ、お前が見てる前で無様な姿は見せられねぇ。お前の心配そうな顔も、クラピカの隣に立つ姿も、全部俺のものにしてみせる。だから、ちゃんと見とけよ。

ポックルとキルアの試合が開始された。ギタラクルは無表情なまリング上のキルアを見ている。それからマヤへと視線を移して「ポックルに負けて俺と戦わなければマヤは俺が貰う」と唇を動かした。

リングの上からでも、ギタラクルの野郎がマヤに何か言ってるのが見えた。読唇術なんて使えなくても分かる。あの気味の悪い視線と唇の動き……間違いなく、俺を挑発してやがる。



「……チッ」



ポックルの動きがスローモーションに見える。苛立ちで頭に血が上りそうだ。あいつ、俺を揺さぶるためにマヤを利用してやがる。ふざけやがって。俺はポックルの攻撃をひらりとかわし、一瞬だけマヤに視線を送る。不安そうな顔で俺を見てるお前の隣に、あいつがいることが気に食わねぇ。



「おい、ポックル。悪いけど、さっさと終わらせるぞ」



俺は低い声で呟くと、一気に距離を詰めた。こんな奴に時間をかけてる暇はねぇ。ギタラクル……テメェの思い通りになると思うなよ。マヤは誰にも渡さねぇ。

ギタラクルはマヤの隣に歩み寄り、その肩を引き寄せた。そして再度「俺と戦え、キルア。そうしなければマヤは俺が連れ去る」と唇を動かした。

ギタラクルの野郎が、マヤの肩に手を置きやがった。その光景がスローモーションで目に焼き付く。俺の……俺のモンに気安く触ってんじゃねぇよ。



「……っ!」



瞬間、俺の中で何かがキレる音がした。目の前のポックルなんて、もうどうでもいい。脳裏に浮かぶのは、マヤを連れ去るというあの男の言葉だけだ。殺す。あいつだけは、絶対に俺が殺す。俺はポックルを無視して、リングの端からギタラクルを睨みつけた。殺意を剥き出しにした俺の視線に、ギタラクルがかすかに口の端を吊り上げたのが見えた。



「てめぇ……今すぐその汚ぇ手をどけろよ」



俺は怒りで震える声で言い放った。マヤは俺のもんだ。誰にも指一本触れさせねぇ。テメェが何者だろうが関係ねぇ。マヤに手を出したことを、後悔させてやる。*

ギタラクルは「この手をどけてほしかったら今すぐにポックルに負けを譲れ。負けを認めろ」と言って更にマヤの肩を引き寄せた。マヤはキルアに向けて「キルア、負けないで」と唇を動かした。

マヤの「負けないで」という唇の動きと、ギタラクルの野郎がさらにその肩を引き寄せる光景が、俺の怒りの導火線に火をつけた。



「……っ、ふざけんじゃねぇぞ、てめぇ……!!」



頭に血が上り、思考が真っ白に染まる。ポックルに負けろ?マヤを人質にとって、俺に指図する気か?冗談じゃねぇ。俺は目の前のポックルを睨みつける。こいつに勝ったら、マヤが……。だが、マヤは負けるなと言った。あいつの言葉を信じるしかねぇ。



「……おい、さっさと構えろよ。一瞬で終わらせてやる」



俺はポックルに向かって言い放つと、一気に殺気を解放した。ギタラクル、見てやがれ。てめぇのくだらねぇ挑発に乗る俺じゃねぇ。マヤに手を出したこと、骨の髄まで後悔させてやる。

相変わらずギタラクルはマヤの肩を引き寄せてリングを見下ろし、クラピカがそのギタラクルの腕を掴んで「その手を離せ」と言ってギタラクルを睨んでいる。

リングの外の騒ぎが、俺の集中を掻き乱す。クラピカがギタラクルの腕を掴んでる……?チッ、余計なことしやがって。あいつは俺の獲物だ。誰にも手出しはさせねぇ。



「よそ見してる余裕なんてあんのかよ!」



ポックルの叫び声で、俺は意識をリングの中に戻す。そうだ、まずはこいつを片付けねぇと、話にならねぇ。俺は迫ってくるポックルの腹部に、見えないほどの速さで手刀を叩き込んだ。一瞬の衝撃に、ポックルがくの字に折れ曲がり、顔を苦痛に歪めて崩れ落ちる。



「これで終わりだ」



俺は倒れたポックルを一瞥もせず、リングの外にいるギタラクルを睨みつけた。見てたか、マヤ。お前の言った通り、勝ったぞ。だから、次はお前の番だ。俺が必ず、お前をあの男から取り返してやる。

審判の勝ち名乗りも耳に入らねぇ。俺はリングから飛び降りると、一直線にギタラクルとマヤの元へ向かった。クラピカがまだギタラクルの腕を掴んでいるが、そんなことはどうでもいい。



「おい」



俺はギタラクルの目の前に立ち、マヤの肩に置かれた手を睨みつける。殺気を隠そうともしない俺に、クラピカが息を呑むのが分かった。



「俺は勝ったぞ。その手をどけろ。次にその汚ぇ手でマヤに触れてみろ。殺す」



俺の言葉に、ギタラクルはゆっくりとマヤから手を離した。そして、その針だらけの顔で俺を見下ろす。マヤ、今すぐ俺の後ろに隠れろ。こいつの視界にすら入れておきたくねぇ。

ギタラクルは顔の針を抜き取る。すると顔が変貌していき、イルミの顔になった。



「やぁ、キル。お前はハンターには向かないよ。お前の本職は殺し屋なんだ」




ギタラクルの顔から針が抜け落ち、見慣れた……いや、俺が最も忌み嫌う兄貴の顔が現れる。イルミ……なんで、なんでてめぇがこんな所にいるんだよ。



「……アニキ」



喉から絞り出すように呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。全身の血が凍りつき、足が竦む。こいつには逆らえない。殺し屋として、そう身体に染み付いてる。お前の本職は殺し屋なんだ。その言葉が、頭の中で何度も反響する。そうだ、俺は殺し屋だ。人殺しの道具だ。ハンターになんて、なれるはずがねぇ。マヤみたいな明るい奴の隣にいる資格なんて、あるわけがねぇんだ。



「……なんで、ここに……」



それでも、俺はイルミから視線を逸らさなかった。俺の後ろには、マヤがいる。こいつだけは……マヤだけは、絶対にアニキの好きにはさせねぇ。



「マヤは俺の嫁としてゾルディック家に迎え入れる。キルは今からでもハンター試験をリタイヤして家に帰るんだ」



イルミは淡々とした口調で言ってマヤの手を掴んだ。イルミがマヤの手を掴んだ瞬間、凍り付いていた思考が沸騰する。やめろ。そいつに触るな。俺のモンに気安く触ってんじゃねぇ!



「……ふざけんな……!!」



恐怖を怒りが上回る。俺はイルミの手を振り払うように、マヤの腕を掴んで強く引き寄せた。マヤの小さな身体が、俺の胸にぶつかる。



「家に帰る? マヤを嫁に? てめぇが決めることじゃねぇだろ! マヤはモノじゃねぇんだぞ!」



俺はマヤを背中に庇い、イルミを睨みつけた。足はまだ震えてる。だけど、ここで引くわけにはいかねぇ。こいつを連れて帰ったら、マヤは二度と太陽の下を歩けなくなる。そんなこと、俺が絶対に許さねぇ。

イルミは手を伸ばしてキルアの頭にゆっくりと近づける。念で支配しながら囁きかける。



「マヤを守ってるつもり? 無理だね。お前には友達も恋人も必要ない。それにマヤは俺のだ。それとも俺と戦う? 口を酸っぱくして教えてきたよね? 勝ち目のない敵とは戦うなって」



アニキの指が俺の額に触れる寸前、俺はマヤの腕を掴んだまま後ずさった。頭に響く声、身体を縛り付けるような威圧感。勝ち目のない敵からは逃げろ。ゾルディック家の教えが、俺の足を縫い付けようとする。



「……うるせぇ」



だが、背中に感じるマヤの温もりが、俺に力をくれた。こいつをアニキの好きにさせてたまるか。友達も、恋人も、俺が欲しいと思った。こいつが欲しいと思ったんだ。



「勝ち目がない? やってみなきゃ分かんねぇだろ。マヤはてめぇのモンじゃねぇ。俺のだ」



俺は震える声で言い放ち、イルミを睨みつけた。そうだ、戦うんだ。こいつから、マヤを……俺の未来を、守るために。

キルアの言葉に思わずマヤは第4次試験のときにキルアから『お気に入りのおもちゃ』と言われたことを思い出し、思わずキルアの手を振り払っていた。



「……キルアだって変わんないじゃん」



マヤが俺の手を振り払った。その小さな衝撃が、まるで心臓を直接殴られたかのように痛かった。なんで……?俺は、お前を守ろうと……。



「……え?」



目の前のイルミの存在も忘れ、呆然とマヤを見つめる。なんでそんな顔してんだよ。俺、何か間違ったこと言ったか?「俺のだ」って言葉が、お前を傷つけたのか?マヤの目に浮かんだ拒絶の色が、俺の胸に突き刺さる。イルミへの怒りも、恐怖も、一瞬でどこかへ消え失せた。ただ、マヤに拒絶されたという事実だけが、重くのしかかってくる。



「……お気に入りのおもちゃだってさんざん言ってたじゃん。第4次試験のときのこと、もう忘れたの?」



マヤはキルアとイルミを警戒するように二人から距離を取る。



お気に入りのおもちゃ……?



あぁ、そうだ。俺は確かにそう言った。あの時は、ただ……他の奴らに取られたくなくて、独り占めしたくて、ガキみたいな意地で言っただけだ。でも、そんなことマヤに伝わるはずもねぇ。



「……ちが……」



違うんだ、と続けようとした声は、マヤの冷たい視線に遮られて喉の奥に消えた。俺達から距離を取るマヤの姿が、俺とアニキを同じ「敵」だと見なしているようで、胸が張り裂けそうになる。アニキの言う通りだ。俺は、殺し屋なんだ。大事なモンを手に入れても、結局こうやって傷つけて、自分の手で壊しちまう。俺に、誰かを守る資格なんて、最初からなかったんだ。

マヤはそのままキルアとイルミを置いて立ち去っていってしまった。クラピカが気を遣わしげな顔でキルアを見ている。イルミは冷徹な声で言う。



「これでわかっただろ? お前は熱を持たない闇人形だ」




イルミの「闇人形」という言葉が、マヤに拒絶された傷口に塩を塗り込むように染み渡る。そうだ、俺は人形だ。感情なんて持つべきじゃなかった。マヤが欲しいなんて、烏滸がましい願いだったんだ。



「……あぁ、そうだな」



俺は力なく呟いた。マヤが去っていった方向を、もう見ることもできない。クラピカの心配そうな視線が突き刺さるが、それに応える気力もなかった。結局、俺はアニキの言う通りにしかなれねぇんだ。ゾルディック家から逃げ出したって、殺し屋の血は消えない。マヤを傷つけ、拒絶された。それが答えだ。



「……わかったよ、アニキ。俺の負けだ」



絶望が俺の全身を支配する。マヤの拒絶、そしてイルミの言葉。その二つが、俺をがんじがらめにする鎖となって、思考を奪っていく。



「……帰るよ」



もうどうでもよかった。ハンターになる夢も、ゴンたちと過ごした楽しい時間も、マヤを欲しいと願ったあの気持ちさえも、全てが色褪せて見えた。俺はイルミの隣をすり抜け、マヤが去っていったのとは逆の方向へ、力なく歩き出した。背中に突き刺さるクラピカやレオリオの視線を感じたが、振り返ることはできなかった。



「……じゃあな、ゴン」



聞こえるはずもない親友に別れを告げる。もう会うこともねぇだろう。俺は、俺のいるべき暗闇に帰るだけだ。

キルアはボドロの心臓を貫き、そのままハンター試験会場から出ていった。




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