09






冷たい石の壁に囲まれた薄暗い部屋。俺の身体には、ジャラジャラと音を立てる重い鎖が巻き付いていた。ボドロを殺して失格になり、そのまま家に連れ戻された。マヤに拒絶された心の傷は、身体の痛みよりも深く、俺を苛み続けていた。



「……なんでだよ」



呟いた声は、静かな監獄に虚しく響いた。なんで、あんなこと言っちまったんだ。なんで、マヤの手を振り払われなきゃならなかったんだ。おもちゃだなんて、本気で思ってたわけじゃねぇのに。ただ、そばにいて欲しかっただけなのに。鉄格子の向こうから、兄貴……ミルキの気配がする。俺を嘲笑う声が聞こえる。だが、そんなことはどうでもよかった。今はただ、マヤに会いてぇ。会って、ちゃんと謝って、俺の本当の気持ちを伝えてぇ。でも、もう遅い。俺は、ここから出られねぇんだ。

鎖の冷たさが、肌を通して心まで凍らせていくようだ。ミルキのくだらない挑発も、もう耳には届かねぇ。瞼を閉じれば、浮かぶのはマヤの顔ばかりだ。俺の手を振り払った時の、あの悲しそうな、怒ったような瞳。



「……っ」



胸が締め付けられるように痛む。俺は、あいつを傷つけた。イルミの言う通りだ。俺みたいな闇の中にいる人間に、太陽みたいなあいつは眩しすぎたんだ。触れる資格なんて、最初からなかった。それでも、諦めきれねぇ自分がいる。もう一度会いてぇ。会って、ごめんって……好きだって言いてぇ。こんな鎖、引きちぎって、今すぐお前のところに飛んでいきてぇよ。マヤ……。

廊下の片隅でゾルディック家の執事が電話している。



「ゴンとマヤとクラピカとレオリオ? そんな奴らは知らない。キルアは大事な友達だから迎えに来ただって? 追い返しとけ」



そう言って電話を切った。



……ゴン? マヤ……?



クラピカと、レオリオも……?執事の話し声が、壁越しに微かに聞こえてくる。あいつら、俺を迎えに……?なんでだよ。俺は、お前らを裏切って、勝手に帰ってきたんだぞ。



「……なんで……」



喉がカラカラに乾いていた。信じられない思いと同時に、胸の奥底で消えかけていた炎が、再び小さく灯るのを感じる。あいつらは、まだ俺を友達だと思ってくれてるのか……?執事の「追い返しとけ」という冷たい言葉が聞こえ、俺は思わず鎖を握りしめた。ダメだ、会うんだ。あいつらに会わせろ……!マヤにもう一度……!



───ガシャン!



鎖が激しい音を立てる。ゴンたちの名前、そしてマヤの名前が聞こえた瞬間、絶望に沈んでいた心が激しく揺さぶられた。あいつらが、俺を迎えに?バカヤロ……なんでだよ……。



「……会わせろ……」



俺は鉄格子に向かって叫んだ。喉が張り裂けそうだった。もう一度マヤに会えるかもしれない。その希望が、身体中の血液を沸騰させる。俺は両腕に力を込めた。ミシミシと音を立てて、俺を縛り付けていた鎖に亀裂が入る。痛みを忘れて、ただ一心に力を込める。待ってろ、ゴン。そして……マヤ。今、俺がそこへ行く。



会いてぇんだよ……! マヤに……!



「ゴンとマヤが来てるんだって? こんなところに乗り込んで来るなんて命知らずなやつらだな。あいつら、俺がちょっと痛めつけてこようかな」



ミルキはにやにやしながら言った。



ミルキの野郎が、マヤたちを「痛めつける」と言った。その瞬間、頭の中で何かが切れる音がした。ゴンやクラピカ、レオリオの顔、そして……俺の手を振り払った時の、マヤの顔が浮かぶ。



「……てめぇ……」



俺の身体を縛り付けていた鎖が、ミシリと軋む。怒りが、絶望を食い破って全身を駆け巡った。アニキに言われた「闇人形」って言葉が脳裏をよぎる。ああ、そうだ。俺は人殺しの道具だ。だが、俺のこの力は、マヤを傷つけるためにあるんじゃねぇ。あいつを守るために使うんだ。



「今すぐそこをどけ、デブ。さもねぇと……殺すぞ」



ミルキは鎖をあっさりとぶち破ったキルアに呆気にとられている。それから悔しそうにわなわなと震えていた。

ミルキが呆然と立ち尽くすのを横目に、俺は迷わず監獄の出口へと向かう。



「……マヤ」



口から漏れた名前は、自分でも驚くほど切実な響きを持っていた。あいつに拒絶された痛みは消えない。だが、それ以上にあいつを失う恐怖が俺を突き動かす。ミルキがマヤたちに何かする前に、俺が行かなきゃならねぇ。怒りと焦りが混じり合った衝動のまま、俺は廊下を駆け抜ける。待ってろ、マヤ。今度こそ、間違えねぇから。お前を守る。ただ、それだけのために。

庭には顔中をボコボコに腫らしたゴンがいた。そしてクラピカとレオリオとマヤも。

庭に駆け込んだ俺の目に飛び込んできたのは、ボコボコに腫れ上がったゴンの顔と、心配そうに寄り添うクラピカたちの姿だった。そして、その中にマヤがいた。



「……ゴン……マヤ……」



名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど震えていた。俺のせいで、こいつらはこんな目に……。特にマヤの顔を見るのが怖い。俺は、あいつに拒絶されたんだ。それでも、足は勝手にマヤの方へ向かっていた。無事か?怪我はねぇか?聞きたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこねぇ。



「……悪かった」



やっと絞り出したのは、か細い謝罪の言葉だけだった。お前を傷つけたこと、勝手にいなくなったこと、全部含めて、俺はただ謝りたかった。



「……いいよ。私もごめん」



マヤはそう言ってキルアの頭を優しく撫でた。ゴンもキルアの手を握りしめて「キルア! 無事で良かった!」と言った。

頭に触れたマヤの温かい手のひらと、俺の手を握るゴンの力強さに、張り詰めていた糸がプツリと切れた気がした。拒絶されたと思っていたマヤの許しと、変わらないゴンの友情。それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。



「……なんで……なんで来たんだよ……」



俯いたまま、かろうじて声を絞り出す。お前らを危険な目に遭わせちまったのに。俺が、勝手に全部壊したのに。



「俺なんか、放っとけばよかっただろ……」



手の甲に、ぽつりと冷たい雫が落ちた。驚いて顔を上げると、マヤが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。違う、泣きてぇのは俺の方だ。なのに、なんでお前がそんな顔するんだよ。



「泣かないでよ、キルア。酷いこと言ってごめん……。ほら、早くこんなとこ出よう?」



クラピカもレオリオもキルアを見て微笑んでいた。ゴン はキルアの手を握りしめたまま「行こう、キルア! 冒険しよう!」と言った。マヤもキルアの反対側の手を取って微笑んでいた。

マヤが俺の頭を撫でてくれた。「いいよ」って、そう言ってくれた。ゴンも、クラピカも、レオリオも、みんな笑ってる。俺を迎えに来てくれた。その事実が、凍りついていた心をゆっくりと溶かしていく。



「……っ、う、……」



視界が滲んで、マヤの顔が歪んで見える。泣くなんて、ガキみてぇでカッコ悪ぃ。分かってるのに、一度溢れ出した涙は止まりそうになかった。こんな温かい気持ち、生まれて初めてかもしれねぇ。



「……ありがと……」



やっと絞り出した声は、ひどく震えていた。マヤ、ゴン、みんなの手を握り返す。もうこの手は離さねぇ。俺も、お前らと一緒にいたい。そのためなら、なんだってしてやる。






















ゾルディック家を出て、みんなと歩く道は、今まで感じたことがないくらい明るく見えた。隣でゴンが楽しそうに喋っている。向かい側では、マヤがクラピカと何か話しながら笑っていた。その笑顔を見るだけで、胸の奥が温かくなる。



「……腹減ったな」



ごまかすようにそう呟くと、ゴンが「だよな! 俺、ステーキ食う!」と元気に返事をした。まだ顔は腫れてるくせに、こいつは本当にタフだ。レストランに着いて席に着くと、俺の隣にはゴン、マヤはクラピカの隣だった。少しだけ、距離を感じる。さっきまで繋いでいた手の温もりが、もう恋しいなんて思っちまう。



「……お前、何食うんだよ」



メニューを覗き込みながら、俺は向かいのマヤに声をかけた。あいつが俺を許してくれたから、今、俺はここにいる。この気持ち、どう伝えればいいんだろうな。



「んー、私はトマトのパスタにしようかな?」



マヤはメニューを見ながらそう言うとクラピカは「なら私はボロネーゼにしよう」と言った。レオリオは「俺もステーキだな!」と言った。

マヤがトマトのパスタ、クラピカがボロネーゼ……レオリオはゴンと同じステーキか。みんなが次々と注文を決めていく中で、俺だけがメニューとマヤの横顔を交互に見つめていた。



「……そっか」



たった一言返すのがやっとだった。さっきまで繋いでいたはずの距離が、今はテーブルの幅以上に遠く感じる。クラピカと話すマヤは、自然で楽しそうだ。俺が隣にいても、あんな風に笑ってくれるだろうか。俺も早く決めねぇと。そう思うのに、喉が乾いて言葉が出てこない。伝えたい気持ちは山ほどあるのに、どう切り出せばいいか分からねぇんだ。

どうしようもねぇくらい、マヤが遠くにいる気がした。ただテーブルを挟んで向かいに座ってるだけなのに。さっき頭を撫でてくれた温もりも、手を繋いでくれた感触も、全部夢だったみてぇだ。



「……俺は、チョコパフェ」



腹なんて減ってねぇ。甘いもんなら、無理やり喉を通るかもしれねぇと思った。ゴンが「えー! 飯じゃねーのかよ!」と騒いでいるが、耳に入ってこなかった。マヤが、ちらりと俺を見た気がした。お前は、本当に俺を許してくれたのか?ハンター試験で言ったこと、本気にしなかったか?聞きたいのに、聞けねぇ。またお前に拒絶されるのが、怖いんだ。

マヤはため息をつくと「ごめんクラピカ。さっきから寂しそうな顔をしたキルアをほっとけないんだ。ねえゴン、席変わってくれる?」と言った。



「キルア、何拗ねてるの?」



ゴンがクラピカの隣に移動し、マヤがキルアの隣に移動した。それからキルアの頭をよしよしと撫でた。



「キルアがちゃんとご飯食べないなら、私もご飯食べずにこのまま撫で続けてようかな?」



隣に座ったマヤに頭を撫でられ、俺は驚いて固まった。さっきまで感じていた寂しさや不安が、マヤの温かい手のひらから伝わる熱で一気に溶かされていく。拗ねてる?そう見えてたのかよ。



「……別に、拗ねてねーし」



子供みたいな言い訳が口から滑り出る。だけど、顔が熱くてマヤの方を向けない。俺が飯を食わないなら、お前も食わねぇって……そんなの、ダメだろ。



「……分かったよ、食う。食うから……」



俺は俯いたままメニューを掴んだ。ステーキ、ハンバーグ……なんでもいい。ただ、このままずっと撫でられていたら、心臓がもたない。



「……ありがとな、マヤ。……それに、その……さっきも」



助けに来てくれて、ありがとう。許してくれて、ありがとう。全部ひっくるめて、やっと伝えられた言葉は、思ったよりずっとか細い声だった。



「……んー、キルア可愛いっ。可愛すぎる!」



思わずマヤはメニューを選んでいるキルアを抱きしめていた。クラピカは不機嫌そうに眉を寄せ、レオリオはからかうような眼差しを向け、ゴンは楽しげに笑っていた。

突然マヤに抱きしめられて、俺の思考は完全に停止した。背中に回された腕の感触と、耳元で聞こえる、可愛いっていう言葉が、頭の中でぐるぐると反響する。なんだよ、これ……反則だろ。



「なっ……! いきなり何すんだよ!」

「何食べるの? キルアもステーキ?」



心臓がうるさくて、振り払うこともできない。ステーキ?そんなもん、今の俺に決められるわけねぇだろ。レオリオの視線が痛いし、ゴンの笑い声がやけに響く。



「……っ、お前と同じでいい……」



俯いたまま、かろうじてそれだけを絞り出すのが精一杯だった。もう顔なんて見れねぇ。トマトのパスタでもなんでもいい。早くこの状況から解放してくれ。



「ん? キルアもパスタにするの? どのパスタにする? カルボナーラ?」



マヤはキルアの頭をよしよしと撫でながら優しく声をかける。

また頭を撫でられて、俺の思考回路は完全にショート寸前だ。さっきから心臓がうるさくて、マヤの声がやけに近くに聞こえる。カルボナーラ?そんなの、どっちでもいい。ただ、この甘ったるい空気に耐えられねぇ。



「………」



無言でメニューを指差す。マヤが注文しようとしていた、トマトのパスタ。お前と同じでいいって言っただろ、っていう無言の抵抗だ。これ以上、コイツのペースに巻き込まれたら、俺が俺でなくなっちまう。



「え? トマトのパスタ?」

「……お前と同じでいいって、言っただろ」



拗ねた子供みてぇな声が出た。ゴンが「キルア照れてるー!」と騒ぎ、レオリオがニヤニヤしているのが視界の端に入る。チッ、うるせぇな。今はそれどころじゃねぇんだよ。



「マヤは優しいからな。キルアもあまりわがままを言って困らせない事だな」



クラピカが言った。マヤの隣に座ってたのはクラピカだったのに、キルアが拗ねたせいでマヤがそっちに行ってしまったのが面白くない様子だった。



「いいんだよキルア! 一緒に同じもの食べよう!」



レオリオが注文を済ませてくれて、ようやくマヤが俺から体を離した。その温もりが消えた途端、急に周りの空気が冷たく感じられる。クラピカの言う通りだ。俺はただ、わがままを言ってるガキみてぇだ。



「……べつに、困らせようとなんて……」



消え入りそうな声で呟いた言い訳は、きっと誰にも届いていない。マヤは「一緒に同じもの、嬉しいな」なんて笑ってる。こいつは、俺の気持ちなんて全然分かってねぇんだろうな。隣にいるマヤの横顔を、盗み見る。さっきまであんなに近かったのに、今はまた少し遠く感じる。お前にだけは、カッコ悪いとこ見せたくねぇのに。どうして、いつも空回りしちまうんだ。

クラピカが「マヤ、味見するか?」と言ってポロネーゼを巻き取ったフォークをマヤの口元に差し出している。それから牽制するような眼差しをキルアに向けていた。



「ええ!? 自分で食べられるよ……! ありがとう!」



マヤは一瞬頬を赤らめたが慌ててクラピカの手からフォークを取った。その際にクラピカとマヤの手が触れ合う。

クラピカの野郎がマヤにフォークを差し出すのを見て、俺は思わず舌打ちしそうになった。マヤの隣に座れたのは俺なのに、なんであいつが横からしゃしゃり出てくんだよ。牽制するような視線?上等じゃねぇか。



「……ケッ」



マヤが慌ててフォークを受け取る。その時、二人の手が触れ合ったのが見えて、胸の奥がチリっと痛んだ。なんだよ、この感じ……。ただ手が触れただけだろ。



「……おい、マヤ」



気づいた時には、もう声をかけていた。さっき、マヤが俺にしてくれたこと……ちゃんと礼、言えてねぇ。こんなところでクラピカに張り合ってる場合じゃねぇだろ。



「……さっきは、その……隣、来てくれて……ありがとな」



俯きがちに、ボソリと呟く。お前にだけは、ちゃんと伝えたかったんだ。俺がどれだけ嬉しかったか。



「え? いいよ別に、ゴンの隣奪っちゃったのも私だし」



マヤはそう言ってクラピカのポロネーゼを食べた。



「ん! おいしい!」




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