手を振り払われ、さらに強くベッドに押さえつけられる。それからマヤはふっと表情を和らげた。手を伸ばしてキルアの髪をそっと撫でると、そのまま優しく背中に滑らせてぽんぽんとする。
「……そんな泣きそうな顔で言わないでよ。わかった。キルアが望むなら……キルアが落ち着くまで、こうしててもいいよ……」
マヤの優しい声と、髪を撫でる柔らかな感触に、俺の体からすっと力が抜けていく。泣きそうな顔……?俺が?そんなはずねぇだろ。だが、マヤの指が背中をぽんぽんと軽く叩くたび、張り詰めていた何かが溶けていくのを感じた。
「……別に、泣きそうなんかじゃねぇよ」
俺はマヤの上に跨ったまま、顔を伏せる。落ち着くまで、こうしててもいい……?その言葉は、拒絶よりもずっと深く俺の胸に突き刺さった。お前は、いつもそうだ。俺がめちゃくちゃにしようとしても、全部受け止めちまう。
「……お前、ほんと、ずりぃよな」
俺は小さく悪態をつきながら、マヤの肩口に顔を埋める。お風呂上がりの甘い匂いがして、心臓がまたうるさく鳴り始めた。さっきまでの怒りとは違う、もっと暖かくて、切ない感情が込み上げてくる。このまま、時間が止まっちまえばいいのに。
「ん……キルアって、なんかいい匂いするね。お菓子の匂いかな?」
自分の上に覆いかぶさるようにして、甘えるように肩口に顔を埋めてくるキルアの後頭部を優しく撫でる。もう片方の手はキルアの背中に回してそっと体を抱きしめた。
マヤの腕が俺の背中に回され、優しく抱きしめられる。お菓子の匂い……?その言葉に、俺は顔を上げた。くすっと笑うマヤの顔がすぐそこにあって、俺は思わず視線を逸らす。
「……別に、そんな匂いしねぇよ。つーか、なんで笑ってんだよ」
「そう? なんか、甘い匂い……」
心臓がうるせぇ。さっきまでの殺伐とした空気が嘘みたいに、今はただ甘ったるい空気が俺たちを包んでいる。マヤの体温と匂いが、俺の理性を少しずつ溶かしていく。
「……お前、俺がこのまま何もしねぇと思ってんの?」
俺はマヤの耳元でわざと低く囁いた。少し意地悪く、こいつの反応が見たかった。抱きしめられたままの体勢で、俺はマヤの髪に再び顔を埋める。このままずっとこうしていたい。クラピカが戻ってくるまでの、ほんの少しの時間だけでもいいから。
「ふわっとしてていい匂い。それともキルア自身の匂いなのかな……? なんか、落ち着く……かも」
キルアの後頭部と背中に手を回して抱きしめながらキルアの匂いと体温を感じ取った。ここは間違いなく現実世界なんだと感じさせられた。
「……うん、思ってるよ。だってキルア、安心したような顔してるもん。こうしてると落ち着くでしょ……? ほら、段々と眠くなってくる気がしない?「」
マヤはそっと囁きながらキルアの後頭部を優しく撫でた。
安心したような顔……?俺が?マヤの言葉に、俺は思わず唇を噛んだ。確かに、こいつに抱きしめられてると、さっきまでの殺気立った感情が嘘みたいに消えていく。だが、それは安らぎと同時に、どうしようもない独占欲を掻き立てる。
「……別に、眠くなんかねぇよ」
俺は顔を上げずに、拗ねたように呟いた。マヤの髪を撫でる指の感触が気持ち良くて、本当に眠ってしまいそうになるのを必死で堪える。こんな無防備な姿、こいつにだけは見せたくねぇのに。
「つーか、お前こそ、なんでそんなに落ち着いてんだよ。普通、怖がったりすんだろ」
俺は不満を隠さずにマヤの肩に顎を乗せる。もっと俺を意識しろよ。俺がお前をどうしたいと思ってるのか、まだ分かんねぇのか。そんな気持ちが、言葉の代わりに漏れ出た。
キルアの後頭部を優しく撫でているとキルアの顔が眠たげにうとうとしてくるのがわかり、マヤは微かに微笑んでいた。
「……怖くないよ、キルアだもん。……キルアが、好きだよ」
眠りに落ちていくキルアの耳元でそっと囁きかけた。聞こえたかどうかはわからないけど、マヤは完全に眠ってしまったキルアをそっと隣に寝かせるように体を倒した。布団を優しくかけ、自分もキルアを抱きしめながら目を閉じた。
……好き……だよ。
意識が途切れる寸前、マヤの囁きが耳に届いた気がした。夢か現実か、それすらも曖昧なまま、俺は深い眠りに引きずり込まれていった。
次に目を覚ました時、窓の外は薄暗くなっていた。腕の中に感じる温かい重みに視線を落とすと、マヤが俺の胸に顔をうずめ、すぅすぅと穏やかな寝息を立てている。その無防備な寝顔を見て、心臓が大きく跳ねた。
「……ばーか」
俺はマヤの頬をそっと撫でる。お前がそんなこと言うから、俺はもうお前を手放せなくなるだろうが。お前が眠っている間に、クラピカがいつの間にか戻ってきてマヤの隣で寝ている。それだけで、腹の底から黒い感情が湧き上がってくる。
「……絶対、誰にも渡さねぇ」
俺はマヤの体を強く抱き寄せた。この温もりも、匂いも、寝顔も、全部俺だけのものだ。その事実を体に刻みつけるように、俺はマヤの額にそっと唇を押し当てた。
朝になり、クラピカが部屋中をドタバタと駆け回る騒がしい音でキルアは目を覚ました。ベッドで寝ているのはキルアだけだった。
ドタドタと部屋を走り回る騒がしい足音で、俺は強制的に眠りから引き剥がされた。重い瞼をこじ開けると、視界に飛び込んできたのはクラピカの焦ったような顔と、もぬけの殻になったベッドの隣のスペースだった。マヤが……いねぇ。
「……おい、うるせぇぞ。朝から何騒いでんだよ」
「……起きたか」
俺は舌打ちしながら体を起こす。昨日、腕の中で眠っていたはずの温もりがない。それだけで、胸の中に不快な焦りがじわりと広がっていく。
「マヤはどこ行ったんだよ」
俺は低く唸るようにクラピカに問い詰めた。あいつがマヤに何かしたんじゃねぇだろうな。もしそうなら、たとえ仲間だろうが容赦しねぇ。その鋭い視線に、クラピカは一瞬怯んだように見えた。
「朝起きたらマヤがいなかった。キルアこそマヤと抱きしめ合って寝ていただろう。何も気が付かなかったのか?」
怯んだのは一瞬のことで、すぐに鋭い目付きに変わった。その目には非難するような色がある。
非難するようなクラピカの視線に、俺の中の何かがプツリと切れる音がした。抱きしめ合って寝てただろう、だと?テメェが俺たちの間に割り込んできたんだろうが。俺はベッドから飛び降り、クラピカの胸ぐらを掴み上げる。こいつのせいでマヤが危険な目に遭っていたとしたら、絶対に許さねぇ。
「どこ行きやがったんだよ! 探しに行くぞ!」
俺はクラピカを突き飛ばすと、部屋のドアに手をかけた。マヤに何かあったら……そう考えただけで、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
「おい、レオリオとゴンも起こせ! 手分けして探す!」
「落ち着け。ゴンとレオリオなら昨日の夜、レストランに置いていっただろう。このホテルには三人だけだった。……抱きしめていたはずなのに気付かないお前がどうかしてる」
冷ややかな目でキルアを見ながらクラピカは言った。すると、ホテルの外からゴンとレオリオが飛び込んできた。
「キルア! クラピカ! 昨日なんで置いてったんだよ! マヤは!?」
ゴンとレオリオ?なんでこいつらが……。クラピカの冷ややかな視線と、ゴンの焦ったような声が、俺の頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。昨日の夜……?俺はマヤを抱きしめて……そのまま……。
「……っせーな! ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇよ! マヤがいなくなったんだよ! お前らもさっさと探せ!」
俺は怒鳴り返しながら、ゴンとレオリオの二人を睨みつけた。マヤがいないっていう最悪の状況で、こいつらの能天気な声がやけに癇に障る。俺は苛立ちを隠さずに吐き捨てると、クラピカを無視して部屋を飛び出した。廊下を走りながら、必死にマヤの気配を探す。どこ行きやがったんだよ、あいつ。俺から離れんじゃねぇって言っただろ……!胸の奥が冷たくなる感覚に、俺は奥歯を強く噛み締めた。
「マヤから連絡が来たんだよ。このホテルにいるって」
ゴンからの言葉に、俺の足がピタリと止まる。マヤから連絡……?このホテルにいる……?じゃあ、なんでどこにもいねぇんだよ。
「は? 連絡があっただと? なんで俺に言わねぇんだよ! それで? どこにいるって言ってたんだよ!」
俺はゴンに詰め寄る。苛立ちと安堵が入り混じった複雑な感情が胸の中で渦巻いていた。無事なのは分かったが、俺を差し置いてこいつらに連絡したことが無性に腹立たしい。焦りから声が大きくなる。ホテル中を探し回っても見つからねぇ。まさか、また誰かに絡まれてんじゃねぇだろうな。嫌な予感が頭をよぎり、俺は舌打ちした。
「……ホテルにキルアとクラピカがいる、とだけしか書いてなかったんだ。それで慌ててここに来たんだけど……」
ゴンは心配そうに眉を下げた。クラピカは拳を強く握りしめ、悔しそうに俯く。
「……昨日、私とキルアと二人でマヤを取り合ってしまった。間に挟まれたマヤの気持ちを考えもせず、私とキルア二人でマヤの手を強引に握りしめて、互いに一歩も引かなかった。……恐らく、マヤは私とキルアから距離を取りたかったんだ……」
クラピカの言葉が、ハンマーで殴られたように頭に響く。俺とあいつで、マヤを取り合った……?確かに、昨日の夜、俺たちはマヤを間に挟んで睨み合ってた。マヤの手を、俺も、こいつも、強く握ってた。あの時のマヤは、どんな顔してた……?
「……チッ」
舌打ち一つで、込み上げてくる苛立ちを無理やり喉の奥に押し込める。俺がマヤを独り占めしてぇと思うのは当然だろ。なんであいつが邪魔すんだよ。だが、クラピカの言う通り、マヤが俺たちから距離を置きたがったんだとしたら……?その可能性に思い至り、心臓が冷たくなる。
「……だとしても、一人でどっか行くなんて許さねぇよ」
俺は唇を噛み締め、ホテルの出口へと向かう。このまま黙って待ってるなんて冗談じゃねぇ。たとえ嫌がられたって、俺が無理やりにでも見つけ出して、連れ戻してやる。あいつの居場所は、俺の隣以外にねぇんだから。
「待ってよキルア! オレも探すよ!」
ゴンもキルアのあとを追いかけるように走ってくる。クラピカは一人でその場から離れていった。レオリオはバラバラになる皆を見て肩をすくめながらもクラピカの後を追いかけていった。
ゴンの声が背後から聞こえるが、俺は振り返らなかった。今は一人になりてぇ気分だった。クラピカがどこに行こうが知ったこっちゃねぇ。あいつも一人で探すつもりなんだろう。好都合だ。あいつより先に、俺がマヤを見つけ出す。
「……勝手にしろ」
俺は吐き捨てるように言うと、ホテルの扉を乱暴に開けて外に飛び出した。むわりとした生暖かい空気が肌にまとわりつく。どこ行きやがったんだよ、マヤ。お前が俺たちから離れたがってるってんなら、なおさら一人になんかさせてやんねぇ。
「俺が見つけ出して、お前がもうどこにも行けねぇようにしてやる」
街の喧騒の中、俺はマヤの気配を探して神経を研ぎ澄ませる。独り言のように呟いた言葉は、誰に聞かせるでもなく、雑踏の中に消えていった。
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