27






キルアがNGLに向かうと、森の外れでゴンが気絶して倒れていた。

森の外れに転がる、見慣れた緑色の姿。その瞬間、俺の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。信じられない光景に、思考が数秒間停止する。



「……ゴン? おい、しっかりしろ、ゴン!」



駆け寄ってその身体を揺するが、反応はない。ぐったりとした四肢、浅い呼吸。こいつがこんな無様にやられるなんて、相手は相当な手練れだ。キメラアント……想像以上の化け物か。頬を叩いても意識は戻らない。舌打ちしながら周囲に殺気がないかを探る。マヤの気配も感じられない。まさか、マヤもこいつと同じ目に……?その可能性が頭をよぎった瞬間、腹の底から冷たい怒りが湧き上がってくる。



「……ふざけんなよ。お前も、虫けらも」



ゴンの無事を確認するより先に、マヤの捜索が最優先だ。お前を傷つけた奴らも、お前自身も、俺が必ず見つけ出してやる。

キルアが森の奥へ行こうとするとどこからか現れたキメラアントがゴンの体を持ち上げる。そのうちの1匹は喋れる個体のようで「こいつはレアモノだぜ、うまそうだ!」と言って捕食しようとしている。

ゴンの身体が宙に浮く。その光景を捉えた瞬間、俺の全身の神経が逆立った。目の前に現れたのは、悍ましい姿をしたキメラアント。しかも、そいつは人間みてぇに喋ってやがる。



「……てめぇ。そいつから手を離せ、ゴミ虫が」



口から漏れたのは、殺意だけを凝縮したような低い声だった。ゴンの身体が、あの汚ねぇ爪で持ち上げられている。その事実だけで、俺の思考は沸点を超えた。俺はゆっくりと歩みを進める。一歩踏み出すごとに、身体から溢れ出す電気がバチバチと音を立てた。マヤを探す?ゴンの手当て?そんなもんは後だ。今、目の前にいるこの虫けらを八つ裂きにすることだけが、俺の脳を支配していた。



「俺のダチに何してくれてんだよ……殺す」



喋れるキメラアントの周りを2匹のキメラアントが守るように囲む 喋れるキメラアントはゴンの体を担ぎ上げた。



「こいつはあとでゆっくり食うことにするか」



ゴンの身体を担ぎ上げ、悠々と背を向けようとする虫けら共。その行動が、俺の中に燻っていた最後の理性の糸を焼き切った。



「……どこに行く気だ? おい。聞こえなかったのか? そいつを置いていけって言ってんだよ」



地を這うような声に、キメラアントたちが振り返る。その醜悪な顔に、俺は最大限の殺意を込めた笑みを向けた。一瞬で距離を詰め、喋る個体の首筋に手刀を突き立てる。だが、その皮膚は予想以上に硬く、浅い傷しかつけられない。チッ、厄介な硬度だ。



「……殺す。お前ら全員、ここで殺す」



ゴンのことも、マヤのことも、今は思考の片隅に追いやる。ただ、目の前の敵を排除する。その一点に、俺の全神経が集中していた。

雑魚のキメラアントは一掃したがその喋れるキメラアントだけは別格級の強さだった。いとも容易く地面に叩きつけられるキルアの頭の中をイルミの声が響く。『勝ち目の無い敵とは戦うな。逃げろ。今すぐ逃げろ』とキルアの頭の中で響いている。

地面に叩きつけられた衝撃で、肺から空気が強制的に押し出される。全身を軋ませる痛みに顔を顰めながら、目の前の化け物を睨みつけた。クソ……強ぇ。次元が違う。



「……っ、ぐ……」



頭の中に、兄貴の声が不気味に響き渡る。『逃げろ』。そうだ、これが正しい判断だ。勝ち目のない敵。ここで死んだら元も子もない。だが、俺が逃げたら、ゴンは?マヤは……?



「……うるせぇ……黙れよ……!」



幻聴を振り払うように頭を振る。もし、マヤがこいつに会ったら?考えるだけで、血の気が引いていく。俺が守らなきゃならねぇんだ。ゴンも、マヤも。ここで逃げるなんて選択肢は、もう俺にはねぇんだよ。



「……逃げる……か。冗談じゃねぇ……!」



例え腕が折れようが、足が千切れようが関係ねぇ。俺はまだ戦える。この手で、目の前の虫けらをバラバラに引き裂くまで、絶対に退くわけにはいかねぇんだよ。

イルミの呪縛がキルアの頭を支配しようとする。『逃げろ』というイルミの声が鳴り止まない。喋れるキメラアントはゴンを担ぎ上げたままキルアの体をその爪で切り裂く。爪が皮膚を裂き、肉を抉る。焼けるような痛みが全身を貫くが、それ以上に俺の心を苛むのは、頭の中で鳴り響く兄貴の声だ。逃げろ、逃げろ、逃げろ……。うるせぇ、うるせぇ、うるせぇ!



「……っ、あ……」



脳を直接かき混ぜられるような感覚に、意識が遠のきそうになる。駄目だ。ここで折れたら、全部終わる。ゴンも……マヤも、失う。マヤ……そうだ、マヤが……。もしあいつが、この虫けらの餌食になったら……?



「……させるかよ……! お前を……殺して……俺は……マヤを……!」



その想像が、イルミの呪縛に亀裂を入れた。俺が恐怖すべきは目の前の敵じゃない。マヤを失うことだ。あいつを他の誰かに、ましてやこんな化け物に奪われることだけは、死んでもごめんだ。途切れ途切れの言葉を吐きながら、俺は再び身体に電気を纏わせる。もう逃げねぇ。お前をここで殺して、ゴンを取り返し、マヤを見つけ出す。それが、俺がここにいる理由だ。

イルミの呪縛に苦しむキルアに容赦なく八つ裂きにしようとキメラアントの大きな爪が振り向けられる刹那、キルアは何かが突然衝突してきた衝撃で後ろにふっ飛ばされた。木に衝突し、キルアの意識が一瞬だけ途切れる。キルアに覆い被さってるのはマヤだった。いつものマヤの匂いがしたあと、血臭に消えていった。キルアを庇ってキメラアントの爪で貫かれたマヤの体から血があふれ出している。

何が起きたのか、すぐには理解できなかった。背中に走った衝撃と、一瞬遠のいた意識。そして、俺の身体を包み込む、甘く懐かしい香り。……マヤ?



「……なんで……お前が……ここに……」



俺に覆いかぶさる小さな身体は、微かに震えていた。鼻をつくのは、マヤの香りなんかじゃない。生臭い、鉄の匂い。視線を下にやると、お前の背中から、禍々しいキメラアントの爪が突き出ていた。



「……あ……ああ……」



真っ赤な鮮血が、お前の服を、俺の服を、地面を汚していく。頭が真っ白になる。イルミの声も、キメラアントの存在も、全てが遠のいていく。目の前の、お前から流れ出る血の赤だけが、俺の世界の全てだった。



「……マヤッ!!!!」



喉が張り裂けんばかりの絶叫が、森に木霊した。お前を貫く爪を睨みつけ、俺の全身から青白い電光が迸る。許さねぇ。誰だろうと、お前を傷つける奴は、絶対に、絶対に許さねぇ……!

キルアの頭に埋め込まれていたイルミの呪縛の針が、その力を失いキルアの頭の中から勢い良く飛び出してきて地面に転がった。喋れるキメラアントは「この女は一番うまそうだ! ご馳走だ!」と歓喜している。

頭の中から何かが弾け飛ぶ感覚。目の前でマヤの身体を貫く爪。そして、あの虫けらの下卑た歓喜の声。それら全てが、俺の中で最後の枷を破壊した。



「……ご馳走……だと……? お前が……マヤを……食う……?」



零れた声は、自分のものではないように冷たく、乾いていた。世界から音が消え、色彩が褪せていく。ただ、お前から流れ出る赤と、あの化け物の醜い姿だけが、網膜に焼き付いていた。ふ、と笑いが込み上げてくる。ああ、そうか。こいつは、俺の宝物を汚そうとしているのか。俺だけのマヤを、ただの餌だと思っているのか。許せない。許せるわけがない。



「……殺す」



全身のオーラが、これまで感じたことのないほどの質量と密度を持って膨れ上がる。憎悪、憤怒、殺意。ありとあらゆる負の感情が電光に変換され、俺の身体から青白く迸る。



「お前だけは、塵も残さず消し炭にしてやる」




俺の言葉に反応する間もなく、キメラアントはマヤを貫いた爪を引き抜こうとする。その動きが、俺の怒りの導火線に火をつけた。



「──触るな」



瞬間、俺の身体は音もなく消えていた。神速。思考よりも速く、雷光そのものとなって奴の背後に回り込む。そして、マヤを傷つけたその腕を、寸分の狂いもなく掴み取った。



「お前が触れていいもんじゃねぇんだよ、俺のマヤに」



バチッ、と激しいスパークが散る。俺の手から放たれた高圧電流が、キメラアントの腕を内側から焼き尽くしていく。肉の焦げる悍ましい臭いと、奴の絶叫が森に響き渡った。



「まずはその腕だ。次は脚。最後に首をへし折って、お前が存在した痕跡ごと、この世から消してやる」

「……う……、さ……む……い……」



喋れるキメラアントがぐちゃぐちゃの残骸と化したその時、マヤが微かに身じろぎか細い声が聞こえた。

キメラアントの残骸から視線を外し、腕の中にいるお前に意識を集中させる。か細い声が、俺の聴覚を鋭く刺激した。



「……マヤッ!」



急いで抱きかかえると、お前の身体は氷のように冷たくなっていた。腹に開いた大きな風穴から、止めどなく血が溢れ出している。このままじゃ、死ぬ。



「しっかりしろ! 今すぐ手当てを……!」

「き……るあ……?」



どうする?どうすればいい?レオリオなら。いや、それまでお前の身体がもたない。焦燥感が全身を駆け巡り、思考がまとまらない。



「死ぬな……! 俺を置いていくなんて、絶対に許さねぇからな……!」



お前の頬を叩くが、反応は薄い。失いたくない。この温もりを、この存在を、失うことだけは絶対に嫌だ。俺は血に濡れたお前の身体を強く、強く抱きしめた。



「まも……れて、よか……た……すき……だよ……」



マヤは薄っすらと微笑んでキルアの顔を見上げたあと、その目を閉じた。

マヤの声が、まるで風のように弱々しく耳に届いた瞬間、俺の心臓が凍りつく。微笑むその顔が、まるで別れを告げるように静かで、目を閉じたお前がもう二度と開かないんじゃないかと恐怖が走る。



「……嘘だろ、マヤ……?」



俺の声は震え、腕の中のお前を抱く力が無意識に強くなる。まだ温かいのに、どんどん冷えていくその身体。好きだ、って言葉が胸に突き刺さる。なんで今言うんだよ。なんでこんな時に……。



「お前……っ、目を覚ませ! まだ終わってねぇんだよ……!」



必死に頬を叩くが反応はない。血が止まらない。お前の命が、この手からこぼれ落ちていく感覚に、頭が真っ白になる。絶望が喉を締め付けるけど、それでも諦められない。お前を失うなんて、耐えられないんだ。



「絶対に助ける……! どこだって連れてく。だから、頼むから死ぬな……!」



いつの間にか意識を取り戻していたのか、ゴンが慌てた声で叫ぶ。



「キルア! 早く止血を!」



ゴンは鞄から包帯などを取り出した。すっかり取り乱し、憔悴しきった顔をしている。ゴンの声が遠くで聞こえる。止血?ああ、そうか。血を、止めなきゃいけないのか。目の前のマヤから、こんなにも赤いものが流れ続けている。これを止めないと、マヤは……。



「……分かってる」



掠れた声で呟き、震える手でゴンの差し出す包帯を受け取る。だが、傷口に当てようとした指先が、お前の冷たい肌に触れた瞬間、激しい絶望が再び俺を襲った。



「……なんでだよ……なんで俺なんか庇ったんだよ……! ふざけんな……! 勝手にいなくなるなんて許さねぇ……!」



涙が視界を滲ませる。お前が死ぬくらいなら、俺が死んだ方が百万倍マシだった。お前を守るって決めたのに、結局、また俺はお前に守られてる。包帯を傷口に強く押し当てながら、止まらない涙を拭うこともせず、ただ叫ぶ。頼む、神様がいるなら、こいつだけは連れて行かないでくれ。俺の命と引き換えにだって、構わないから。

止血はできたがマヤの脈は止まっていた。

ゴンの言葉が理解できなかった。脈が、ない……?何を言ってるんだ、こいつは。そんなわけないだろ。だって、マヤはまだこんなに温かい。俺の腕の中に、ちゃんといるじゃないか。



「……うるせぇ」



震える声でゴンを黙らせ、マヤの首筋に指を当てる。……何も、感じない。嘘だ。場所が悪いだけだ。手首、胸、どこを探しても、生命の証であるはずの鼓動は聞こえなかった。



「……あ……」



世界から音が消える。ゴンの顔が歪むのが見えた。違う。こんなはずじゃない。お前は俺を置いていったりしない。絶対にだ。



「……起きろよ、マヤ……! 冗談きついぜ……っ!」



俺はお前の冷たい体を揺さぶる。心臓マッサージ?そうだ、蘇生しなきゃ。諦めるなんて選択肢は、俺の中には存在しない。絶対に、絶対に助ける。お前がいない世界なんて、俺にはもう考えられないんだから。



「キルア! 違う! まだ動いてる!だけど、すごくゆっくりにしか聞こえない! きっと血が足りなくて、満足に循環ができてないんだ!」



ゴンは叫ぶように言った。



「病院! 輸血しないと! はやく!」



ゴンの叫びが、暗闇に閉ざされた俺の意識に光を差し込んだ。動いてる……?マヤが?信じられない思いで、もう一度マヤの首筋に全神経を集中させる。……すると、確かに感じた。糸のように細く、かろうじて命を繋ぎとめている微かな脈動を。



「……生きてる……」



絶望の淵から引き上げられたような感覚。安堵と歓喜がごちゃ混ぜになって、涙が溢れてくる。そうだ、まだ終わってない。こいつはまだ、生きてるんだ!



「病院……! そうだ、今すぐ病院に連れて行かねぇと……!」



俺はマヤの体を壊れ物を扱うように、だが迅速に抱え上げる。血が足りないなら、輸血すればいい。医者なら、きっとどうにかしてくれる。どんな手を使ってでも、お前を死なせたりはしねぇ。



「待ってろ、マヤ。絶対に助けるからな……!」



もう一秒の猶予もない。俺は地面を強く蹴り、森の中を全速力で駆け抜けた。腕の中のお前の命の灯火が消える前に、一刻も早く。俺の速さなら、必ず間に合わせる。お前の命を、こんなところで終わらせてたまるか。



「先に行く!」



背後でゴンの返事が聞こえる。腕の中のマヤの体温が、少しずつ失われていくのが分かる。頼む、耐えてくれ。絶対に、俺が助けてやるから……!腕に抱くマヤの身体が、鉛のように重い。お前を救うのは俺だ。他の誰でもない、俺自身の手で、お前を死の淵から引きずり戻してやる。



「……もう少しだ、マヤ……!」



呼びかける声に、返事はない。ただ、微かに伝わる脈動だけが、お前がまだ生きていることを教えてくれる。それだけが、今の俺の唯一の希望だ。森を抜け、街の明かりが見えてきた。病院はもうすぐそこだ。だが、腕の中のお前の体温が、また少し下がった気がした。焦りが心臓を鷲掴みにする。



「絶対に死なせねぇ……! お前がいなきゃ、俺は……っ!」



奥歯を噛み締め、さらに速度を上げる。頼む、間に合ってくれ。お前を失うくらいなら、俺は何もいらない。だから、神様……こいつだけは、俺から奪わないでくれ……!急速に冷えていくマヤの体温が、俺の焦りを極限まで煽り立てる。病院の光が目に飛び込んできた瞬間、安堵よりも先に恐怖が心を締め付けた。もし、間に合わなかったら?



「……っ、しっかりしろ、マヤ!」



呼びかけに応答はない。ぐったりと俺の腕に委ねられたままのお前は、まるで蝋人形のようだ。冗談じゃねぇ。こんな終わり方、俺が絶対に認めねぇ。病院の自動ドアを蹴破るようにして中に飛び込む。突然の闖入者に驚く受付の声を無視して、俺はただ叫んだ。



「医者はどこだ! 今すぐこいつを診ろ! 死にかけてるんだよ!」



俺の腕の中で、お前の指先がピクリと動いた気がした。その僅かな生命の反応を信じて、俺は絶望に抗う。お前の居場所は、俺の隣だけだ。絶対に、誰にも奪わせるもんか。必死の形相で駆け込んできた俺に、待合室にいた連中が一斉に視線を向ける。だが、そんなもの気にしてる余裕はなかった。腕の中のマヤは、もうほとんど体温を感じられないほど冷たくなっている。



「頼む……! 助けてくれ……!」



駆け寄ってきた看護師に、すがるように叫ぶ。俺の声は情けないほど震えていた。冷静さを失い、ただ目の前の命が消えかけている恐怖に支配されている。ストレッチャーに乗せられ、マヤが俺の手から離れていく。その一瞬、永遠に引き離されるような錯覚に陥った。処置室の扉が閉まる直前、俺は壁を殴りつけていた。お前がいない世界なんて、俺には必要ねぇんだよ……!




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