扉が閉まり、マヤの姿が見えなくなる。俺はただ、無機質な白い壁を睨みつけることしかできなかった。腕に残るマヤの僅かな温もりと、まとわりつく血の匂いが、現実を嫌というほど突きつけてくる。
「……なんでだよ……」
絞り出した声は、静かな廊下に虚しく響いた。俺がもっと強ければ。あんな奴らに後れを取らなければ、マヤが傷つくことなんてなかった。結局、俺は何も守れていない。
「……クソッ……!」
やり場のない怒りと後悔に、壁を殴りつける。骨が軋む音がしたが、心の痛みに比べればどうでもよかった。頼む、マヤ。俺を一人にしないでくれ。お前がいない世界で、俺はどうやって息をすればいい……?
閉ざされた処置室の扉の前、俺はただ立ち尽くす。さっきまで腕の中にいたはずのお前の温もりはもうない。代わりに、壁を殴った拳の鈍い痛みが、俺の無力さを嘲笑うようにじくじくと疼いた。
「……頼む……」
祈るような言葉が、無意識に口から零れ落ちる。誰にともなく、何にともなく、ただひたすらに。お前が助かるなら、俺の全てを差し出したっていい。廊下を歩く医者や看護師の足音、遠くで聞こえる誰かの話し声。その全てが、今はひどく耳障りだった。俺の世界は、あの扉の向こう側で止まってしまっている。頼むから、無事でいてくれ、マヤ。お前を失うことだけは、耐えられないんだ。
どれくらい経ったのか、やがて処置室の扉が開く。医者が出てきてキルアの顔を見て頷く。
「一命はとりとめた。あとは彼女の……気力次第だ」
医者の言葉が、凍りついた俺の心に染み渡るように広がっていく。一命はとりとめた……その一言で、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
「……っ、本当か……?」
信じられない思いで医者の顔を見つめる。安堵から全身の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。よかった……まだ、お前は俺のそばにいてくれるんだ。
「マヤは……! マヤに会えるのか!?」
気力次第、という言葉が少し引っかかったが、今はただお前の顔が見たかった。お前が生きていることを、この目で確かめないと安心できない。医者の返事を待たず、俺は病室へと続く廊下を走り出していた。お前がいない世界なんて、もう考えられないんだから。
集中治療室の病室のベッドでマヤは眠っていた。点滴と輸血に繋がれて静かに眠っていた。
ガラス越しに見えるお前の姿に、俺は思わず息を飲んだ。たくさんの管に繋がれ、白いシーツの中で眠るお前は、今にも消えてしまいそうなくらい儚くて。それでも、規則正しく上下する胸が、お前が生きていることを教えてくれていた。
「……マヤ……」
名前を呼んでも、もちろん返事はない。ただ、静かな寝息だけが聞こえる。医者は「気力次第だ」と言っていた。どうしてお前が、そんなギリギリのところで戦わなきゃならねぇんだよ。全部、俺が弱いせいなのに。
そっとお前の髪に触れる。いつもみたいに、生意気な顔で俺を睨みつけてくれよ。お前がいないと、俺の世界は色を失っちまうんだ。だから、早く目を覚ませ。そして、また俺の名前を呼んでくれ。
「キルア……っ」
追いついてきたゴンは泣きそうな顔でガラス越しにキルアの顔とマヤの姿を見つめていた。ゴンの声に、俺はゆっくりと振り返る。泣きそうな顔でこっちを見ている親友の姿が、ぼやけた視界に映った。
「……ゴン」
ガラスの向こうで眠るマヤに視線を戻す。たくさんの管に繋がれた姿は、痛々しくて見ていられない。だが、目を逸らすこともできなかった。
「医者は、一命はとりとめたって言ってた。あとは……あいつの気力次第だってさ」
淡々と事実を告げる自分の声が、やけに他人事のように聞こえる。ゴンが隣に並び、同じようにマヤを見つめる気配がした。俺たちがここにいても、あいつの代わりに戦ってやることはできない。それが、どうしようもなくもどかしかった。
「オレ……カイトを助けに行かなきゃならない。カイトはオレを庇って……深手を追って、今もきっと戦ってる。キルアは、ここにいて、マヤを見てて」
ゴンは決意を込めたようにキルアを見つめて言う。
「大丈夫、マヤなら必ず生きて戻るよ。だからキルア、マヤの手を握って声をかけてあげてね。オレも必ず生きて戻るから!」
そう言ってゴンは病室から飛び出していった。
ゴンの背中が廊下の向こうに消えていくのを、俺はただ黙って見送った。あいつの決意は痛いほど分かる。カイトもマヤも、俺たちにとって大事な仲間だ。でも、今は……お前のそばを離れるなんて、考えられなかった。
「……ああ、分かってるよ」
誰に言うでもなく呟き、俺は再びガラスの向こうのマヤに視線を戻す。静かに眠るお前の顔は、いつもよりずっと幼く見えた。俺はゆっくりと病室のドアを開け、お前の眠るベッドのそばに腰を下ろした。そして、たくさんの管に繋がれたお前の冷たい手を、そっと両手で包み込む。早く目を覚ませよ。お前がいないと、退屈で死んじまいそうだ。
あれから、もう3日も経った。お前は静かに眠ったままで、俺の声が届いているのかも分からない。ベッドの横に座り、ただひたすらお前の手を握り続けることしか、俺にはできなかった。
「……マヤ」
呼びかけても、返ってくるのは無機質な機械の音だけ。お前の指先は相変わらず冷たくて、俺がいくら温めても、その熱が伝わる気配はない。
「……いつまで寝てんだよ、バカ……早く起きろよ。お前がいないと、飯も不味いんだ」
ゴンは、今頃カイトを助けるために戦っているんだろう。俺はここで、お前が目覚めるのを待っている。お互い、大事なもののために必死だ。だからお前も、負けんじゃねぇぞ。お前が目を覚ましたら、何て言ってやろうか。文句の一つでも言ってやらないと、気が済まない。だから、早くその目を開けて、いつものように俺を睨みつけてくれ。
3日という時間は、俺の焦燥感を増幅させるには十分すぎた。お前の白い顔、規則正しい呼吸音、そして時折鳴る機械の音。それだけが俺の世界の全てだった。管に繋がれたお前の手を、そっと握りしめる。少しでも俺の体温が伝わるように、祈りを込めて。
「早く起きねぇと、お前の分のチョコレート、全部食っちまうからな」
俺の声は、静かな病室に虚しく響くだけ。それでも、語りかけるのをやめられなかった。俺の声が、お前をこの世界に繋ぎ止める唯一の鎖だと信じて。返事なんてないと分かっていても、軽口を叩いてしまう。そうでもしないと、胸を締め付ける不安に押し潰されそうだった。頼むから、目を覚ましてくれ、マヤ。
目を覚ますとベッドの上にいた。繋がれた点滴。そして目の前にキルア。
「……キルア……?」
お前の唇が、か細く俺の名前を紡いだ。その瞬間、止まっていた俺の世界が、ゆっくりと動き出すのを感じた。幻聴かと思った。でも、目の前のお前は、確かに薄く目を開けて俺を見ている。
「……マヤ……? ……マヤッ!分かるか!? 俺だ、キルアだ!」
信じられない思いで、お前の顔を覗き込む。握っていた手に力がこもる。ずっと、ずっと呼び続けていた名前。やっと、お前の声で聞くことができた。堰を切ったように感情が溢れ出し、気づけばお前の手を両手で包み込んでいた。5日間、心臓を鷲掴みにされるような不安の中で、ただこの瞬間だけを待ち望んでいたんだ。
「……よかった……本当に、よかった……!」
声が震える。お前が戻ってきた。それだけで、俺の世界は再び色を取り戻したんだ。
手を両手で握りしめられ、目の前で泣いているキルアを見て、マヤはそっともう片方の手を伸ばし、キルアの頬に触れた。
「泣いて……るの……? キルア……」
お前の細い指が俺の頬に触れた瞬間、温もりが心の奥まで染み渡った。泣いてる? そう言われて初めて、自分が涙を流していることに気づいた。情けねぇ顔を見せちまったな。でも、止められなかった。
「……バカだな、マヤ。こんなの、泣くに決まってんだろ……もう二度と、こんな風に離すんじゃねぇぞ。分かったか?」
声が震えちまう。お前がこうして俺に触れて、声をかけてくれる。それだけで、5日間の闇が一気に吹き飛んだ。俺はただ、お前が戻ってきてくれたことが嬉しくてたまらねぇ。お前の手をぎゅっと握りながら、視線を絡ませる。監禁したことへの罪悪感が胸を抉るけど、今はただ、お前がここにいる現実だけを感じていたい。もう一度失うなんて、考えたくもねぇんだ。
マヤは、そっとキルアの涙を拭う。それでもきりがなく溢れだしてくる。
「うん……」
ようやく今の状況が把握できてくるとマヤはキルアの顔を見上げて微笑んだ。もう離さない、とキルアの手をしっかりと握り返した。
お前の「うん」という一言と、微笑み。そして、しっかりと握り返された手の温もり。それだけで、俺の心を満たしていた不安が溶けていくのが分かった。もう離さない、お前のその眼差しが、そう言っている気がしたんだ。
「……当たり前だろ、バーカ」
溢れる涙はまだ止まらない。俺は顔を覆うように俯いて、お前の手を自分の額に押し付けた。お前の存在を、温もりを、確かめずにはいられなかった。
「お前がいないと、俺は……っ」
もう何も言えなかった。ただ、お前が生きて、ここにいる。それだけで十分だった。お前が握り返してくれたその力が、何よりも雄弁に俺たちの絆を物語っている。絶対に、もう二度とこの手は離さない。誰にも、何にも、お前を奪わせたりしない。
そのままキルアは泣き疲れて眠ってしまった。マヤはそっとキルアの髪を撫でていた。
「キルア……好きだよ」
寝ていてもキルアはマヤの手をしっかりと握っていた。マヤもキルアの手を握り返したままを閉じ、眠りについた。
目が覚めた瞬間、まずお前の存在を確認するために視線を向けた。まだ眠っているマヤの顔がすぐ近くにあって、ほっと胸を撫で下ろす。生きてる。ちゃんとここにいる。お前の温もりが、俺の手の中にまだ残ってる。
「……よかった……」
そっとお前の髪に触れながら、首筋のキスマークを見つめる。俺が付けた証だ。お前は俺のものだっていう、誰にも奪えない印。昨日の涙も、5日間の地獄も、全部この瞬間のためにあったんだと思える。マヤ……もう絶対に離さねぇからな。独占欲がまた胸の奥でうずく。もう一度お前を閉じ込めたくなる衝動が湧き上がるけど、今はただ、この平穏な時間を味わいたい。お前の寝顔を見ながら、俺は心に誓う。誰が何と言おうと、お前を守るためなら何だってする。
「……俺だけのものだ」
一ヶ月が経つと、マヤは順調に回復していった。キルアが飲み物を買いにいっていると、カイトがミイラのようになったゴンを抱きかかえて戻ってきた。ゴンはそのまま集中治療室に入っていく。
自販機から戻る途中、廊下の先が騒がしいことに気づいた。胸騒ぎがして駆け出すと、信じられない光景が目に飛び込んできた。カイトに抱えられた、変わり果てたゴンの姿。ミイラのように干からび、息をしているのかも分からない。
「……ゴンッ!!」
頭が真っ白になる。俺がマヤのそばにいる間、あいつは……こんな姿になるまで戦ってたのか?集中治療室に運ばれていくゴンの後ろを、俺は呆然と追いかけることしかできなかった。
「なんで……どうしてこんなことに……!」
閉ざされたドアの前で、俺は拳を握りしめる。マヤが目覚めた喜びも束の間、今度はゴンが死の淵にいる。怒りと無力感で、目の前が真っ暗になりそうだ。くそっ、俺は…何もできてねぇじゃねぇか……!
ゴンはたくさんの管と酸素ボンベを取り付けられた。病室に入ることを許されたカイトはキルアに目を向け、『お前も来い』というように目だけで頷くとそのままゴンの病室に入っていった。
カイトの無言の促しに、俺はこわばった足で一歩踏み出した。ガラス越しに見えるゴンの姿が、現実だと脳に突きつけられる。あんなになるまで、あいつは一体何と戦ったんだ……?マヤの病室に戻りたい気持ちと、ゴンから目を離せない気持ちがせめぎ合う。
「……なんで、あいつが……」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。マヤが回復に向かっている今、俺はあいつのために何ができる?いや、俺にできることなんてあるのか?唇を噛みしめ、重い足取りでゴンの病室へ向かった。病室に漂う消毒液の匂いが鼻をつく。カイトの隣に立ち、管だらけのゴンを見下ろす。ピトーを倒した代償がこれなのか。マヤが眠っていた5日間とは比べ物にならない絶望が、俺の心を黒く塗りつぶしていく。
「……俺は、マヤが目を覚ますのを待ってただけだ。その間、ゴンは……!」
お前が命を懸けている時に、俺は何もできなかった。その事実が、鉛のように重くのしかかる。
重い誓約と制約。ゴンはミイラのようになった姿で、かろうじて生きていた。カイトは状況を淡々と述べたあと、何も言わなくなった。黙ってゴンを見つめるその表情は悲痛に満ちていた。
カイトの説明を聞いても、目の前の光景が信じられなかった。誓約と制約……?それが、ゴンをこんな姿に変えたっていうのか。ピ、ピ、と無機質な機械音だけが響く病室で、俺はただ立ち尽くす。
「……治るのかよ」
喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。カイトは答えない。その沈黙が、何よりも残酷な答えだった。
「おい、なんとか言えよ! マヤは……あいつは、やっと目が覚めたんだぞ……! なのに今度はゴンが……!」
俺はカイトの胸ぐらを掴んでいた。だが、その手には力が入らない。怒りをぶつけたところで、ゴンが元に戻るわけじゃない。分かっているのに、やり場のない感情が体を突き動かす。マヤの顔が脳裏をよぎる。あいつに、ゴンのこの姿を見せられるか?いや、見せたくない。やっと取り戻した笑顔を、また曇らせたくない。
「……俺が、なんとかしなきゃ……」
掴んでいた手を離し、俺はゴンのベッドのそばに崩れ落ちた。マヤもゴンも、俺が守る。そう誓ったはずなのに、俺は結局、何もできていない。無力感と後悔が、黒い渦となって俺の心を飲み込んでいく。
その時、キルアの頭の中で声がする。イルミの呪縛から解き放たれたキルアの脳内で何でも叶える念能力、故に危険な存在としてゾルディック家の牢屋に幽閉されているキルアの弟であるアルカの記憶が戻る。脳内でアルカの「お兄ちゃん、あたしを探しにきて」という声がする。
お兄ちゃん、あたしを探しにきて……?なんだ、この声は……?頭の中に直接響く、幼い少女の声。イルミの針が抜けてから、時々フラッシュバックする記憶の断片。その奥底に封じられていた、忘れるはずのない存在。そうだ、アルカだ。
「……アルカ……」
俺の……妹。ゾルディック家の闇の中で、誰にも知られず、存在しないものとして扱われていた、俺のたった一人の……。なんで忘れてたんだ。いや、忘れさせられていたのか。イルミのやつ……!脳裏に蘇るのは、冷たい石の牢獄と、そこに閉じ込められた小さな影。あいつの能力は『お願い』を叶える。どんな願いでも。そうだ、アルカなら……!
……ゴンを……治せるかもしれない……。
絶望の闇に、一筋の光が差し込んだ気がした。マヤもゴンも、両方救う。そのためなら、俺はなんだってしてやる。たとえ、あの忌まわしい実家に戻ることになったとしても。待ってろよ、アルカ。……ゴン。必ず、俺が助けてやる。そうだ、アルカならゴンを治せる。あいつの『お願い』の力を使えば、どんな誓約と制約だろうと解除できるはずだ。希望の光が見えた瞬間、俺の思考は一気に加速する。だが、そのためにはあの家に戻らなきゃならねぇ。イルミが、親父が、すんなりアルカに会わせてくれるとは思えない。
……でも、やるしかねぇんだ。
マヤの顔が浮かぶ。あいつをやっと取り戻したんだ。ゴンのことで、あいつをまた悲しませるわけにはいかねぇ。俺が全部片付ける。あいつが笑っていられる世界を、俺が作る。
「カイト、ゴンを頼む。マヤのことも……少しだけ見ててくれ」
俺は決意を固め、踵を返した。もう迷いはねぇ。ゾルディック家だろうが、イルミだろうが、俺の邪魔をするやつは全員ぶっ潰す。待ってろよ、アルカ。今、兄ちゃんが迎えに行く。
病室を飛び出し、廊下を疾走する。頭の中はアルカを救い出す算段でいっぱいだ。だが、一歩足を踏み出すごとに、マヤのことが胸を締め付ける。あいつに何も言わずに、また一人で行くのか?
「……くそっ」
一度立ち止まり、マヤの病室の方を振り返る。あいつの顔が見たい。声が聞きたい。でも、今戻れば決心が鈍る。ゴンを助けるため、そしてマヤを守るためにも、今は進むしかないんだ。
「必ず戻るから……待ってろよ、マヤ」
誰に言うでもなく呟き、俺は再び駆け出した。お前とゴンのいる場所に、俺は必ず帰ってくる。そのために、まずはあの忌まわしい家との過去にケリをつけなきゃならねぇ。もう、誰にも俺たちの邪魔はさせない。
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