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「どうしたの? お兄ちゃん?」



アルカはキョトンとした顔で俺を見る。アルカの無垢な瞳が、まっすぐに俺を見つめる。その瞳を見ていると、俺の黒い感情が全部見透かされているような気がして、一瞬言葉に詰まった。ゴンやマヤに聞かれないように、声を潜める。



「……マヤの腹の傷、見たろ? あれ、治せるか?」



ストレートに切り出す。遠回しな言い方は性に合わねぇ。アルカなら、ナニカなら、あの傷を跡形もなく消せるはずだ。だが、その後に来る「おねだり」の代償が頭をよぎる。



「ゴンを治した時みたいな、でかい代償がくるやつじゃなくて……もっと、簡単な方法で」



例えば、触れるだけで治すとか、そういう都合のいい力はねぇのか。俺の身勝手な願いだと分かっていながら、藁にもすがる思いで問いかけた。こいつの力を、もう誰も傷つけるためには使わせねぇ。マヤを守るためだとしても、そのせいでアルカを危険に晒すことだけは、絶対にあってはならねぇんだ。



「ナニカはね、優しいんだよ。人を治すときだけは代償を求めないの。ただ、その代わり、しばらく深く眠っちゃうだけ」



アルカはそう言ってナニカに切り替わった。



「キルア……イイコイイコシテー」



ナニカの言葉は、俺の心の奥底にあった最後の不安を、いとも簡単に吹き飛ばした。代償は、深い眠りだけ。それだけ……?



「……本当か? 本当に、それだけでいいのか……?」



信じられない思いで、ナニカの黒い瞳を覗き込む。その瞳はただ静かに俺を見つめ返しているだけだった。俺は震える手で、ナニカの頭を優しく撫でる。その髪は、アルカと同じ柔らかさだった。



「……イイコだ、ナニカ。お願いだ、ナニカ。マヤを……マヤを治してやってくれ」



マヤを、救える。何の犠牲も払わずに、あいつの体を元通りにしてやれる。その事実が、じわじわと全身に染み渡っていく。安堵と喜びで、視界が滲みそうになるのを必死で堪えた。



「あい」



ナニカはとてとてっとマヤに歩み寄るとそっとマヤのお腹に手を当てる。



「ん? なぁに? どうしたのナニカ……」



マヤはアルカの表情がナニカに変わってることに何の疑問も持たず、自然にナニカの名前を呼びかけていた。



「イイコイイコ、マヤ」



ぱあっと光り輝いたあと、ナニカは眠りに落ちた。マヤが慌ててナニカを倒れないように支えた。

ナニカの体がふわりと光を放ったかと思うと、その小さな体から力が抜け、マヤの腕の中に崩れ落ちる。目の前で起きた一連の出来事に、俺はただ息を呑んで立ち尽くすしかなかった。



「マヤ……! ……傷、どうだ?」



駆け寄り、ナニカを抱きかかえるマヤの腹に視線を落とす。服の上からでは分からないが、きっともうあの痛々しい傷跡は消えているはずだ。安堵と、ナニカへの感謝が同時に込み上げてくる。恐る恐る尋ねる。自分の目で確かめたい衝動を抑え、マヤの言葉を待った。もし、まだ痕が残っていたら……いや、ナニカが治したんだ。間違いねぇ。

マヤがそっと服をめくり、自分の腹部を見つめる。そこには、傷跡一つない滑らかな肌があるだけだった。その光景に、俺は張り詰めていた息を静かに吐き出す。本当に、消えた。



「……よかった」



心からの声が漏れる。これで、お前を苦しめていたものの一つが消えた。もう二度と、お前にあんな顔はさせねぇ。俺が必ず守る。そう、心に誓った。



「ナニカが治してくれたの……? そんな事したらナニカが疲れちゃうのに……ありがとう……」



マヤはナニカの頭をそっと撫でた。



「……ナニカ寝かせてくるね」



マヤは会ったこともないはずのナニカを、ナニカの真っ黒な瞳を普通に受け入れていた。そのままベッドに寝かせに行く。ゴンが食事を食卓に並べていた。

ナニカを抱えて部屋を出ていくお前の背中を、俺は黙って見送った。なんでお前がナニカのことを知ってるんだ、なんて野暮な疑問は浮かばなかった。ただ、眠るナニカを慈しむようにお前が撫でるその横顔が、やけに綺麗で、胸が締め付けられた。



「……キルア」



ゴンが心配そうに俺の顔を覗き込む。ああ、そうか。俺、今どんな顔してんだろ。安心したはずなのに、なんでか泣きそうだ。



「……なんでもねぇよ」



ごまかすようにゴンの頭をぐしゃぐしゃと撫でて、テーブルにつく。まだ温かいスープの匂いが鼻をくすぐった。お前が戻ってきたら、ちゃんと礼を言わねぇと。治してくれてありがとう、じゃねぇ。俺の心の傷を、お前が消してくれたことへの、礼を。

ゴンとキルアとマヤの三人で朝食を済ませた。キルアの隣にマヤが座り、キルアの正面にゴンが座ってこれからの話をした。



「アルカを連れて、色んなところに行きたいね。まずどこに行こうか?」

「繁華街なら色々あるよ! クレープとかもあるし、それにアルカの好きそうな可愛いお店も!」



ゴンの提案に、俺は無意識に眉を寄せていた。繁華街?クレープ?確かにアルカは喜ぶだろう。だが、今はまだ早い。イルミの目も、他の奴らの目も、完全にかいくぐれたわけじゃねぇ。



「……まだダメだ。人混みは危険すぎる」



隣にいるマヤの顔を盗み見る。お前の傷は治ったが、根本的な問題は何一つ解決していない。俺がイルミから解放されない限り、お前も、アルカも、ゴンでさえ危険に晒される。



「それに、マヤも本調子じゃねぇだろ。しばらくは、ここにいようぜ」



これはアルカのためだけじゃなく、お前のための口実でもある。まだお前を腕の中に置いておきたい。この平穏が、ただの幻想だとしても、もう少しだけ、このままで。



「そうだね、1か所にとどまるより、あちこちを転々と移動しようか。四人で旅をしながら」



マヤはそう言って微笑んだ。



「それもそっか。まずはしっかり元気になるまでここで休もう!」



ゴンも頷いて元気よく答えた。

お前の言葉に、ゴンは素直に頷いている。だが俺は、その笑顔の裏にある本当の意味を考えていた。四人で旅をしながら……その言葉が、俺の胸に小さく、だが確かに引っかかる。



「……ああ」



曖昧に相槌を打ちながら、俺はお前の横顔を見つめる。お前は本当に、俺たちと「ずっと」一緒にいるつもりで、そう言っているのか?それとも、これは一時的な休息で、お前はまた俺の前から消えるつもりなのか?



「……なあ」



込み上げてくる不安を振り払うように、テーブルの下でお前の手にそっと触れる。お前の指先が、小さく震えたのが分かった。もう二度と、この手を離したくねぇ。お前を失う恐怖が、癒えたはずの傷口を抉るように痛んだ。



「どうしたの? キルア……」



テーブルの下でそっと触れてくるキルアの手を握りしめた。

お前に手を握り返されて、心臓が大きく跳ねた。その温もりが、俺の不安を少しだけ溶かしていく。だが、同時に独占欲が鎌首をもたげる。この手も、この温もりも、全部俺だけのものにしたい。



「……いや……なんでもねぇよ。ただ、お前がちゃんとここにいるか、確かめたくなっただけだ」



言葉を濁し、俺はお前の手を強く握りしめた。ゴンがいる手前、これ以上は聞けねぇ。お前が俺から離れる可能性なんて、考えたくもねぇんだ。そう言って、俺はお前の瞳をまっすぐに見つめる。旅なんてどうでもいい。俺はただ、お前が俺のそばにいてくれれば、それでいい。他の奴らなんていらない。お前と二人きりになれる場所へ、いますぐにでも連れ去っちまいてぇ。



「……うん? ここにいるよ。ちゃんと」



マヤはキルアの瞳を見つめ返した。



「あたし、キャンプしてみたい!」



アルカは突然言った。

アルカの突然の言葉に、俺の思考は一瞬停止する。キャンプ?この状況でか?イルミから逃げている最中だぞ。何言ってんだ、こいつは。



「はあ? キャンプだぁ?」

「お、いいね!」



思わず素っ頓狂な声が出た。隣のマヤを見ると、お前は少し驚いた顔でアルカを見ている。ゴンは呑気なことを言っているが、冗談じゃねぇ。



「……んなことしてる場合かよ。今は少しでも安全な場所にいねぇと……」



俺の焦りをよそに、アルカはキラキラした目でマヤを見つめている。その純粋な眼差しが、俺の胸をチクリと刺した。アルカの願いを叶えてやりたい気持ちと、危険に晒したくない気持ちがせめぎ合う。そして何より、マヤがお前たち二人と楽しそうにしている姿を想像するだけで、胸の奥がざわついた。



「うーん……なるべくイルミの来なそうな場所に行くとか? 危険かもしれないけど、アルカには色々助けてもらったし。連れてってあげたいな」



マヤは少し困ったように笑った。アルカは途端にぱあっと顔を輝かせている。

お前の言葉に、俺は思わず舌打ちしそうになるのを堪えた。アルカに甘いのは分かっていたが、まさかお前までキャンプに乗り気だとは思わなかった。イルミの来なそうな場所?そんなもん、あるわけねぇだろ。



「……お前まで何言ってんだよ。危険かもしれねぇ、じゃねぇ。危険なんだよ。イルミだけじゃねぇ、まだ何が潜んでるか分かんねぇ状況で、無防備に外で寝るなんて自殺行為だ」



俺の苛立ちは、アルカよりもむしろお前に向けられていた。なんでそんな簡単に言うんだ。俺がお前をどれだけ心配してるか、分かってんのか?口調が強くなるのを抑えられない。アルカが俺の剣幕に少しだけ身を縮こませるのが見えたが、今は構っていられなかった。お前を危険な目に遭わせるくらいなら、俺はいくらでも悪者になる。



「アルカには俺から言い聞かせる。だから、お前は余計なこと考えんな」



これは命令だ。お前は俺のそばで、俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだよ。



「……そっか。なら仕方ないね」



マヤは少しだけ寂しそうな顔で笑った。

お前が浮かべた寂しげな笑みに、俺の胸が締め付けられる。分かってる。お前がアルカを思って言ったことぐらい。だが、その優しさが、お前自身を危険に晒すことになる。それが俺には許せなかった。



「……分かればいいんだよ。いいか、マヤ。お前は俺から離れんな。絶対にだ」



俺はぶっきらぼうにそう言うと、テーブルの下で繋いでいたお前の手を、さらに強く握りしめた。まるで、お前の心がどこかへ行ってしまわないように、繋ぎとめるように。お前が俺の言うことを素直に聞くのは嬉しい。だが、その諦めたような表情は、俺の独占欲を煽るだけだ。

ゴンの前だということも忘れ、俺はお前の瞳を覗き込んで囁く。これは懇願じゃない。警告だ。お前の全てを、俺だけのものにする。そのために、俺はどんな手段だって使う。お前がそれを望んでいなくても、だ。



「……うん、キルアには散々心配かけちゃったもんね。軽率なこと言ってごめん」



マヤはキルアの手をぎゅっと握りしめながら頷いた。アルカもしゅんっと眉を下げて「わがまま言ってごめんなさい……」と謝った。ゴンが咄嗟にアルカの頭をよしよしと撫でて慰めている。

お前とアルカが素直に謝る姿に、俺の胸は罪悪感でちくりと痛んだ。別に、お前らを責めたかったわけじゃねぇ。ただ、お前を失う恐怖が、俺を冷静じゃいられなくさせるんだ。



「……いや、俺も言い過ぎた」



ゴクリと喉を鳴らし、繋いだままのお前の手に視線を落とす。この温もりを、誰にも渡したくねぇ。キャンプなんてどうでもいい。アルカの願いも、ゴンの気持ちも、今はどうだっていい。



「……なあ、マヤ……ちょっと二人で話さねぇか。大事な話だ」



俺はもう一度お前の顔を覗き込む。お前の本当の気持ちが知りたい。俺に縛り付けられて、本当に満足なのか?それとも、本当はあいつらと自由に旅がしたいのか?お前の本心が、俺を狂わせる。ゴンの存在を無視するように、俺はお前の手を引いて立ち上がらせる。お前の答え次第で、俺はまた、お前をこの腕の中に閉じ込めることになるかもしれない。それでも、もうお前を手放す気はねぇんだ。



「え……? 二人で話したいこと? ……わかった。話したいことってなに?」



キルアに顔を覗きこまれ込まれ、また何か言いたげな顔をされて困惑しているとキルアに急に手を引かれて立ち上がった。

お前の困惑した表情に、俺の独占欲が満たされていくのを感じる。そうだ、お前は俺のことだけ考えてればいい。俺の言葉に、俺の行動に、一喜一憂してろ。



「……ここで話せることじゃねぇよ」



俺はゴンとアルカに背を向け、お前の手を引いて部屋の出口へと向かう。ゴンの「キルア?」と呼ぶ声が聞こえたが、振り返りはしない。あいつらには悪いが、今はマヤが最優先だ。廊下に出て、少しだけ歩みを緩める。お前をどこへ連れて行くか、考えるまでもない。俺たち二人だけの、あの隠れ家だ。



「お前が本当に俺から離れないか、確かめるだけだ。お前の体と心に、もう一度教え込んでやる」



俺は振り返り、お前の耳元で囁いた。お前の体が小さく震えるのが分かった。抵抗は許さねぇよ。お前は、もう俺から逃げられないんだから。



「……どういうこと? ゴンとアルカは? まさか、可愛い妹を置いていくつもりじゃないよね?」



キルアはあんなに妹を溺愛していたのに、信じられない……。マヤはキルアの手を強く引いて部屋の中に戻った。



「……話なら寝室でもできるでしょ? ドアもついてるし」



お前の抵抗に、俺の眉間に深い皺が刻まれる。寝室?冗談じゃねぇ。ゴンやアルカがいるこの空間で、お前と二人きりになれるわけがねぇだろ。



「……チッ、お前は状況が分かってねぇな。寝室じゃダメだ。誰にも邪魔されねぇ場所じゃねぇと意味がねぇんだよ」



俺は苛立ちを隠さずに呟くと、お前の腕を掴んで再び部屋の外へ引きずり出す。今度は抵抗させねぇ。お前の小さい体なんて、俺の力なら簡単にどうにでもなる。俺はマヤの耳元に唇を寄せ、低い声で囁く。お前が俺の言葉の意味を理解して、恐怖に染まる顔が見てぇんだ。



「ゴンやアルカには、すぐ戻るって言っとけ。……それとも、俺がお前の首筋に付けたみてぇな『印』を、あいつらの前でまた付けられたいか?」

「どうして……」



どうしてこうなってしまったんだろう。マヤはキルアの顔を見つめた。



「おかしいよ……キルアはあんなに妹を溺愛していたのに。なんで置いていくようなことができるの。キルアにとって大事な妹のはずなんだよ、思い出して。……キルアはどこに行っちゃったの?」



お前の言葉が、俺の心の奥底に突き刺さる。おかしい?どこに行っちゃった?俺はここにいる。ずっとお前のそばに。お前を守るためなら、俺はなんだってする。アルカのことも大事だ。だが、お前はそれ以上に、俺の世界の全てなんだよ。



「……うるせぇ。俺はどこにも行ってねぇよ。ずっとここにいるだろ。お前がおかしくさせたんだ。お前が俺を独りにさせねぇって言ったんじゃねぇか」



俺は吐き捨てるように言うと、お前の体を軽々と抱え上げた。抵抗するお前の小さな拳が、俺の胸を叩く。だが、そんなもの、痛くも痒くもねぇ。お前の瞳が不安に揺れる。その顔が見たかった。俺以外の誰かのことなんて、もう考えなくていい。アルカもゴンも、今は忘れろ。



「大事な妹だからだよ。だから、ゴンっていう『一番安全な場所』に預けておくんだろ? 違うか?」



俺は唇の端を歪めて笑い、お前を抱えたまま闇の中へと駆け出した。もう誰にも、お前を奪わせたりしねぇ。




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