01






ある夜の日。ボロの服を着た11歳ほどの──深く被られたキャスケット帽のせいで風貌は見えず、性別はわからない──が鮮やかな手付きでスリをし、何食わぬ顔で盗った財布を懐にしまって歩いていく場面に出くわす。髪は少しボサボサで、短い。

俺はそいつの視線と一瞬だけ目が合った。あのスピード感ある動きは確実に経験者だ。周囲の連中は気付いちゃいねぇ。



「おい小僧、その財布は拾ったのか?」



少し離れた場所から声をかける。そいつは一瞬ひるんだ後、逃げ出そうとした。このままじゃマズい。



「待てって。俺は通報なんかしねぇ。だが他の奴らは違うぜ」

「……他の奴ら?」



男物の帽子を被ったその子は、警戒するように目を鋭く光らせてジンを見ている。いつでも逃げ出せるように体勢は崩さない。そのまま黙って冷静に分析していた。靴が高級なのに服はラフ。そして、銃の匂い。周囲を見ると、たしかに人通りはそれなりに多い。

周囲をチラッと見るだけで、俺の言いたいことは伝わったようだ。警官や通行人の姿が近くにある。



「そうさ、あんたみたいな小僧がスリやってんの、ここにゃ見てる目が多すぎる」



そいつは一歩後ずさったが、逃げる隙はない。震える手を懐に当て、盗んだ財布を守るように構えている。



「怖がんなよ。ちょっと話そうぜ。その手つき、腹減ってんのか?」

「……お腹いっぱい食べたことなんてない。僕をどうするの?」



そいつは観念したように距離を開けながらジンの後ろをついて歩く。その間もジンからは目を逸らさない。僕、と言ったが……声はやけに高い。俺は立ち止まり、振り返ってそいつを見た。確かにボロボロの服。やけに小柄すぎる。



「お前、名前はあるのか?」



俺は声を落として訊く。そいつは懐の財布をさらに強く握りしめた。公園が見えてきた。人目を避けられる。俺はポケットからコンビニの菓子パンを取り出す。



「ここで良い。まずは腹を満たせ。それからゆっくり話そう。俺も元は……お前と似たようなもんだったんでな」



そいつは菓子パンを差し出されると一瞬だけ驚いた顔をし、それからごくんと唾を飲み込んだ。相当飢えていた様子だ。それから戸惑いながらも俺の手からパンを受け取る。



「……マヤ……」



小声で自分の名前を口にする。少女はパンの袋を破き、それを頬張った。甘い味が口に広がり、少女の頬に赤みが差した。



「……ありがとう。お兄さんも孤児?」



マヤの小さな口元に、パンくずがついている。その隙のない目は、まだ俺を警戒している。



「親はいたが、今はいねぇ。孤児って言えばそうだな」

「……そう。じゃあ今はお兄さんも一人?」

「ああ。一人だ。でも慣れるさ」



公園のベンチに腰掛け、空を見上げる。マヤの服の袖が破れているのが目に入った。俺は思案するように顎に手を添え、「手際はいいな。盗みは。だが..….」と言いかけて止まる。



「.…..今夜どこで寝る予定だ?」

「寝る場所……路地裏のブロックの中」



パンを食べ終えたマヤは、俺を見上げている。俺は小さくため息をつき、自分の肩掛けバッグを開けて古い毛布を取り出した。その毛布を差し出し、彼女の目をまっすぐ見る。



「今夜は冷えるぞ。警察よりマシだが、ブロックの中じゃ風避けにもならねぇ。持ってけ」

「……ありがとう」



マヤは毛布を受け取り、初めて微笑んだ。ジンは少し俯いて自分の手首を無意識に撫で、古い傷跡の上を指が這う。



「俺もお前みたいな時があった。生きてりゃ何とかなる。たぶんな」

「お兄さんは、今何をしてる人? ……一人で寂しくない?」



マヤは目の前の人に興味を持った様子でジンが手首を撫でる仕草を見つめている。ジンは目を細め、マヤの素直な質問に少し表情が和らいだ。



「今は裏で仕事してる。人の荷物を運んだり、稀に店の用心棒をやったり。寂しいかって?」



ジンは手首の傷から指を離し、マヤの頭を軽く撫でた。マヤは頭を撫でられた瞬間驚き、軽く身構えたが、少しだけその表情が和らいだ。



「……あったかい」

「慣れるんだよ、誰だって。でも時々は……ああ、少しはな。だから今こうしてお前と話してるのかもしれねぇ」



マヤはジンの服の裾を少しだけ摘む。その手は少しだけ震えていた。



「なら……お兄さんの話し相手になる。……また会える?」



ジンは目を丸くして少女を見つめ、何かを決意したような表情に変わった。



「いいぜ、また会おう。あのアーケードの裏、俺が時々たむろしてる場所なら見つけられる」

「アーケードの裏……。わかった。今くらいの時間に、そこに行く」



マヤは顔を上げてジンの顔を見た。少しだけほっとしたように息を吐く。ジンはポケットを探り、小さな折り畳みナイフを取り出した。安全装置を確認してマヤに差し出す。



「持っておけ。身を守るためだ。昔、俺を助けたものだ...…そのうち話してやるよ、どうやって生き延びてきたか」

「……ナイフ。いいの? じゃあ今度聞かせて。お兄さんの話。お兄さんの名前も」



マヤはナイフを受け取り、慎重な手付きで動作確認をしている。これを使ってどう生き延びたのか興味津々な様子で問いかけた。ジンは髪をかき上げ、どこか遠くを見るような目をした。



「ジンだ。まぁ、本名じゃねぇけどな。あんたみたいに、俺も小さい頃からずっとストリートで生きてきた」

「ジン……。僕も名前は……ない。自分で付けた。……身分が何もないから。」



ジンはマヤがナイフを扱う手つきを見て、少し懐かしむような表情になる。



「最初に人を刺したのは14の時だった。自分を守るためだけどな……。生き残るってのは時に汚れた手を持つことでもあるんだ」

「そうなんだ……。その人、死んだの?」



マヤはハッとしたようにジンを見て、それからナイフを出してその尖先を見つめた。よく切れそうな刃。ジンは低く溜息をつくと、瞬間的に過去の光景が脳裏を過ぎったような表情を見せる。



「……血はあったかい。覚えとけ」



彼はマヤの小さな手に握られたナイフを見て、目を細める。それは事故だった。あいつが死んだのは俺のせいじゃない。ただ……運が悪かっただけだ。



「お前はそんな目に遭わないように気をつけろよ」

「そっか。ありがとう、ジン。気をつける……またアーケードの裏で」



マヤはナイフを大事そうにポケットにしまいこむ。それから少しだけ寂しそうに微笑んで、ジンを見送った。ジンはマヤの笑顔に一瞬足を止め、軽く手を上げた。



「ああ、また来るよ。今度は何か食い物持ってくる。ちゃんと待ってろよ」



彼はアーケードを後にしながら、思った以上に心に引っかかるマヤの姿を振り払えずにいた。自分の過去を重ねているのか、それとも単なる同情か。



「面倒事には関わらないつもりだったんだがな……」


























マヤは夜道を走っていた。ナイフを持った通り魔に追い詰められる。ジンに貰ったナイフで手を切り裂き、その男はナイフを取り落とした。したたかに殴り付けられる。マヤは殴られながらもその男の落としたナイフを蹴り飛ばして遠くに飛ばす。ジンに貰ったナイフは手放さなかった。男は立ち去り、マヤはそのまま路地裏まで逃げ込むとそこで気を失った。

アーケードの時計は9時を過ぎていた。ジンは約束の場所に立ちながら、落ち着かない気持ちを抑えられなかった。



「遅いな……あいつ、ちゃんと来るって言ったのに」



彼は路地裏へと足を向けた。何かが引っ張る。路地裏から、手から血を流して飛び出して来る男と肩がぶつかる。路地裏の近くにはその男が持っていたナイフが転がっている。マヤはその奥でナイフを握りしめたまま倒れていた。

ジンは地面に落ちたナイフを一瞥し、すぐに路地裏へと走り込んだ。薄暗い路地の奥で、マヤが血まみれの手でナイフを握りしめ、意識を失って倒れているのを見つけた。



「マヤ! おい、しっかりしろ!」



彼は急いでマヤの側に膝をつき、首筋に指を当てた。かすかな脈を感じ、安堵のため息をついた。怒りと焦りが入り混じった表情で、ジンはマヤの手からそっとナイフを取り上げた。



「くそっ……約束しただろ、面倒事に巻き込まれるなって」























マヤが目を開けたとき、知らない場所にいた。殴られた傷はいつの間にか治療されている。マヤはゆっくりと身を起こした。警戒するように辺りを見回している。



「ここは……?」



暗い部屋の片隅で椅子に座っていたジンが、マヤの動きに気づいて顔を上げた。窓から差し込む街灯の光が彼の疲れた表情を照らしている。



「うちだ。大人しく寝てろ。あいつは当分来ねえよ」



ジンはゆっくり立ち上がり、マヤに近づいた。手には水の入ったグラスがある。



「財布を取るだけって約束したろ。なんでナイフを持ってた? 次からは俺に話してからにしろ」

「ジン……? ごめん……」



マヤはジンの顔を見るなり驚いた顔をする。それから申し訳なさそうな顔をする。



「でも、あいつ……後ろからいきなりナイフを突きつけてきた。咄嗟に避けて切りつけたら殴られたの。誰なのかわからない」



掠れた声で状況を説明した。ジンは額に手を当て、小さく舌打ちした。マヤが話す「あいつ」という言葉に目が鋭く光る。



「盗みを働いたのが誰かの縄張りだったんだな。くそ、ガキに手を出すとはな」

「……そっか。縄張り……」



グラスを差し出し、マヤの髪を乱暴に撫でる。その手つきは優しさを隠そうとしているようだ。



「二日は動くな。見つかったらまた狙われる。食い物は用意しておく」



マヤは受け取った水をゆっくりと飲んでいく。喉が潤うと乱雑に髪を撫でるジンの顔を見上げ、ありがとう、と口にした。ふとテーブルの上の新聞紙が目に入る。そこに書かれた通り魔殺人事件の男の写真を指差す。



「この人だ。さっきの人……」



ジンはマヤの指す写真に目を凝らし、険しい表情になった。それから唐突に立ち上がると、窓の外を警戒するように見つめる。



「通り魔か.…..。お前は運がいい。でもまだ危ない」



部屋の隅から小さなナイフを取り出すと、ベッドの側に置いた。彼の瞳には怒りと決意が宿っていた。



「俺が帰るまでここから出るな。見つけてやる...…あの野郎を」




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS