「わかった」
マヤは小さく頷き、出ていくジンを見送ってベッドに横になる。しばらくは小さなナイフを見つめていたがやがて眠りについた。
それから何時間かして、窓の外からかすかな物音を聞き、ジンは慎重に戻ってきた。薄暗い部屋でマヤの寝顔を見て、少し表情が和らぐ。
「よく寝てるな...…」
机の上に袋を置き、その中から子供用の服とパンを取り出す。見つからないように注意深く動きながら、マヤの近くの椅子に腰掛けた。
縄張りの話は嘘だ。
あいつは誰彼構わず狙う狂犬だ。すぐに別の場所に移らないと...…。
それから何時間かして目を覚ますと、椅子に座るジンを見て微笑んだ。
「ジン。来てくれて……ありがとう」
少しだけ照れ臭そうにしながらもマヤは小声で言う。ジンは椅子に座ったまま動かず、マヤの言葉に目だけを向けた。窓から差し込む月明かりが彼の硬い表情を照らしている。
「当たり前だ。俺が守るって言っただろ」
立ち上がり、マヤの方へ一歩近づくと机の上の袋を指さした。彼の声は低く、しかし優しさが滲んでいた。
「服とパンだ。明日には別の場所に移る。もう誰にも傷つけさせない」
「服……? 綺麗な服……。着てもいいの?」
マヤは驚いたようにジンの顔を見る。ジンは少し居心地悪そうに頭を掻いた。マヤの無邪気な笑顔に見つめられると、いつもの冷たさが少し溶けていく。
「ああ、着ていいに決まってる。おまえのもんだ」
「うん、ありがとう……ジンのごはんは?」
マヤは微笑んでベッドからそっと降りるとジンの顔を見上げた。ジンは袋の奥から小さなパンをもう一つ取り出すと、壁に寄りかかった。
「俺はこれでいい。さっさと着替えろ。この場所はもう安全じゃない。……俺の所へ来い」
俺は静かに決めていた。こいつを組織で引き取る。マヤは服とパンを受け取り、そのまま無防備に薄汚れたシャツのボタンに指をかけた。
「……え? どこに行くの?」
俺の言葉にマヤが戸惑ったように手を止める。その無防備な姿に一瞬目を逸らし、すぐに鋭い視線を戻してマヤの肩を掴んだ。こいつが持つ闇と俺が生きる世界は、案外近いのかもしれない。
「……黙ってついて来い。もうお前を一人にはしねぇ。俺の傍が一番安全だ」
有無を言わせぬ強い口調とは裏腹に、その手は僅かに震えていた。マヤをこの先の運命に巻き込むことへの、俺自身の覚悟を確かめるように。
「そこで着替えろ。見ねぇから」
「……行くよ。ジンと一緒に。ついていく。着替えるね」
マヤは迷い無く頷いてはっきりと言葉にした。それから見ないように目を逸らすジンに声をかけ、シャツを脱ぎ始める。微かな衣擦れの音がして、シャツを脱ぐとジンから受け取った服を身に着けた。ジンは振り返らず、壁に向かったまま一瞬黙り込む。マヤの声が聞こえ、衣擦れの音が静かな部屋に響く。
「……着替えたよ。どうかな?」
彼女が新しい服を着て、自分に問いかけてくるその無邪気さに、どうしようもない感情が込み上げた。
「……ああ」
短く返事をすると、ゆっくりと振り返る。新しい服は少し大きいが、薄汚れた姿とは比べ物にならない。その姿は、これから彼女が足を踏み入れる世界にはあまりにも不釣り合いで、胸が締め付けられるようだった。
「似合ってる。……行くぞ」
「うん。行こう」
マヤは頷いてジンの手を取り、しっかりと握りしめた。ジンと一緒に向かいながら、マヤはジンの顔を見上げた。
「……ジン。僕を……私を……見つけてくれてありがとう」
マヤの小さな手が自分の手を握る力強さに、ジンは一瞬息を呑んだ。その言葉は、暗い路地裏で孤独に生きてきた自分の心に、静かに、だが確かに響いていた。
「……うるせぇ」
そう短く吐き捨て、ジンは前を向いたまま歩き出す。だが、握られた手は決して離さなかった。この小さな手を守り抜く。それが、今の俺にできる唯一のことだった。
「しっかりついてこい。少し長くなるぞ」
「うん。どこまでもついていくよ」
マヤはしっかりとした足取りで、ジンと手を繋いで歩き出した。そして連れてこられた建物を見上げて、息を呑む。
「ここが……ジンの家? 大きい……」
組織の巨大なビルを見上げるマヤの驚きを含んだ声に、俺は少しだけ口の端を上げた。ここがただの家ではないことなど、こいつはまだ知らない。その無垢さが、今はまだ救いだった。
「家みてぇなもんだ。だが、おまえが思ってるような場所じゃねえ」
俺はマヤの手を引いて重い鉄の扉を開ける。中には屈強な男たちが何人もいて、俺たちに鋭い視線を向けた。その空気にマヤが怯える前に、俺は一歩前に出る。
「こいつは俺の客だ。手ぇ出すなよ」
マヤはジンに手を引かれるままにアジト内へと足を踏み入れた。屈強な男たちの鋭い視線にも臆することなく、堂々と歩いていく。
「ジンの家だもんね。隠れ家的な感じかな?」
ヒールの音が響き、綺麗な女が近寄ってきた。
「まぁ……子供? ……かわいい子。ジン、趣味変わった?」
俺は近づいてきた女を一瞥し、マヤの前に立つようにしてその視線を遮った。組織の女であるベルモットの挑発的な言葉と、マヤに向けられる好奇の目に苛立ちが募る。
「ベルモット。余計な詮索はするな。ボスに話がある」
「へぇ……」
ベルモットはつまらなそうに肩をすくめると、値踏みするようにマヤの頭の先からつま先までを眺めた。その粘つくような視線に、俺は無意識にマヤの腕を掴んでいた。
「……じろじろ見るな。殺すぞ」
ジンの言葉を無視して、ベルモットはその場でしゃがんで目線を合わせる。
「あなた、お名前は?」
「マヤ」
ベルモットは微笑む。
「今日からあなたは違う名前になるわ。そうね、アマレットっていうのはどう?」
マヤはハッとしたように目を見開いたあと、少しの間を置いてから静かに頷いた。
「アマレット……。ここでの名前?」
ベルモットが勝手にマヤに名前を与えたことへの怒りが込み上げるが、それ以上に、マヤがその名前を静かに受け入れたことに俺は動揺を隠せなかった。その瞳には、過去を捨ててここで生きていくという、幼いながらの覚悟のようなものが宿っていた。
「……そうだ。ここではそれがおまえの名前だ」
俺はベルモットからマヤを引き寄せるように肩を抱く。この女のペースに巻き込ませるわけにはいかない。アマレット、か。苦くて、甘い酒。皮肉な名だ。
「行くぞ、アマレット。ボスに会わせる」
「アマレットは甘い酒。でも度数は強いのよ。またね、アマレット」
ベルモットは微笑み、ふたりを見送った。私は一度振り返り、ベルモットに向けて微笑みを向けた。それからジンに向き直り、頷きを返す。
「わかった。……アマレット。私の新しい名前……甘いお酒? いつか、飲んでみたいな」
マヤの無邪気な問いかけに、俺は一瞬言葉に詰まる。酒の名も知らぬ子供に、組織の闇を背負わせようとしている現実に、胸の奥がわずかに軋んだ。だが、もう後戻りはできねえ。
「……ガキが飲むもんじゃねえ」
俺はマヤの小さな手を引き、冷たい廊下を奥へと進む。ボスの部屋へ続くこの道が、こいつの未来を決定づける。その覚悟を確かめるように、俺は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「いいか、アマレット。何があっても俺から離れるな」
それから部屋に入る。緊迫したムードに包まれ、さすがにマヤの纏う空気も張り詰めたものになる。
「……その子か」
「ああ。使える」
「子供は脆い」
ボスとジンの会話を静かに聞いていたマヤは、初めて口を開いた。
「割れないガラスもあるよ」
沈黙が訪れ、側に控えていたベルモットが楽しげに目を細める。ボスの少し笑う気配がして「……面白い」と呟かれた。
「コードネームは?」
マヤが小さく 「アマレット」と答えるとボスは愉快そうに笑った。
「甘い酒か。だが度数は強い。いいだろう。育てろ」
ボスの一声で、アマレットが組織の一員として認められた。俺は張り詰めていた緊張の糸がわずかに緩むのを感じつつ、無意識にアマレットの頭に手を置いていた。こいつの運命は、今、俺の手に委ねられたんだ。
「……行くぞ」
部屋を出て、廊下を歩きながら、これから始まるアマレットの新たな生活に思いを馳せる。俺が教えなければならないことは山ほどある。この歪んだ世界で生き抜くための、全てを。
「今日からここがおまえの家だ」
戻る 進む
彼女は旅に出る。/AQUALOVERS