03






それから8年の時が流れた。夜の闇に鳴り響く銃声。続いて男が倒れる音。それからヒールのカツカツという静かな足音がする。血の匂い。けれど急所は外していた。



「……遅いわね」



低く、静かな女の声。長くなった、ピンクブラウンのウルフカットヘアーを手で払い、振り返る。ジンよりも背は低く、小柄で顔はやや幼いが大人っぽいメイクが実年齢をあやふやにする。黒い服を纏い、銃を持つ手をその場で下ろした。19歳になったアマレットはジンの隣に来ると気の抜けた顔であの頃のような毒気のない顔で微笑んだ。



「ジン! 来てくれたの?」



任務現場の血生臭い空気に、ジンは無表情でアマレットの姿を捉えた。8年前の怯えた少女はもういねえ。完璧な射撃、冷静な判断力。だが俺に向けるあの笑顔だけは、変わらず胸を掻き乱す。



「来てねえよ。終わりを確認しに来ただけだ」

「でも嬉しい」



彼女の銃を無言で受け取り、ポケットにしまう。周囲に敵の気配を探りながら、アマレットの肩を軽く叩く。まだ守らねばならねえ。



「よくやった。……ついてこい」

「大きくなったわね、アマレット」



ジンとともにアジトへ戻ると、ベルモットは懐かしむように目を細めた。



「ベルモットは変わらないね、相変わらずとっても美人なんだもの」

「ふふ、アマレットは可愛らしいわよ」



アマレットはベルモットを見るなり屈託なく笑って手を振る。

ジンとベルモットに親しげに話しかける少女、アマレット。彼女が組織に古くからいるメンバーだと瞬時に理解する。ジンがあれほど気を許す相手がいるとは……。興味深い。彼女の存在は、組織の内部構造を解明する上で重要な鍵になるかもしれない。



「ええ、もちろんよ。あなたがいないと始まらないもの」



ベルモットはそう言ってアマレットの髪を優しく撫でた。まるで母親のようなその振る舞いに、僕は少しだけ眉をひそめる。二人の関係性は一体……? 探るべきことがまた一つ増えたようだ。



「……どうやら、新顔がいるようね? あなたがバーボン?」



アマレットが僕の方へ向き直り、値踏みするように視線を向けてくる。その瞳は先ほどまでの無邪気さとは裏腹に、鋭い光を宿していた。なるほど、一筋縄ではいかない相手らしい。



「ええ。はじめまして、アマレット。これからよろしくお願いしますね」

「ええ、よろしく」



私は壁に寄りかかるバーボンに高圧的な目を向けた。「随分と可愛がられているようだな」と言うバーボンの声は柔らかいけれど棘がある。私は挑発的な笑みを浮かべた。



「あら、嫉妬?」



バーボンは少し目を細めて「いや。羨ましいだけだ」と言った。嘘だな、と思いつつ私は微笑む。



「あなたは誰かに可愛がられたこと、ないの?」



アマレットの挑発的な言葉に、一瞬だけ思考が止まる。幼い頃の記憶、エレーナ先生の温もり、警察学校の同期たちとの日々……。だが、そんな感傷はすぐに黒い感情の底へと沈めた。ここは組織、弱みを見せることは死に直結する。僕は口元に完璧な笑みを貼り付けたまま、彼女の真意を探るべく観察を続ける。その瞳の奥に隠されたものを見極めなければ。



「さあ、どうでしょうね。僕は誰かに庇護されるより、自分の力で欲しいものを手に入れる方が性に合っていますので」



彼女の問いを軽く受け流しつつ、僕は一歩距離を詰める。アマレットという女は、ジンやベルモットの前で見せる顔と、僕のような新参に向ける顔が全く違う。その二面性こそが、彼女がこの組織で生き抜いてきた証左なのだろう。ならば、こちらもそれ相応の仮面で応じるまでだ。探り合いは、まだ始まったばかりなのだから。



「あなたこそ、その寵愛がいつまで続くか、不安になることは?」

「大事にしてくれる人は、大事にする主義ってだけよ」



私は完璧な笑みを貼り付けたまま当たり障りなく答える。



「それが“組織への忠誠”か?」



続く僕の問いに、アマレットは少し首を傾けて「忠誠心って、そんなに単純?」と述べた。その言葉は、僕の心の奥底に小さな波紋を広げた。「単純ではない」。その一言が、彼女の複雑な立ち位置を雄弁に物語っているように感じられた。組織への忠誠ではなく、個人への恩義。それが彼女をこの黒い世界に繋ぎ止めている楔なのだろうか。だとしたら、その楔はあまりにも脆く、そして危険だ。



「……ええ、とても複雑なものですね。だからこそ、時に人はその在り処を見失う」



僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。彼女が何に「大事にされている」のか、その真意を探るために。ジンか、ベルモットか、あるいは組織そのものか。彼女の視線の先にあるものを正確に読み取らなければ、僕の潜入捜査は思わぬところで頓挫するかもしれない。この女は、敵か、味方か、それとも……。



「あなたは、ご自身の忠誠がどこに向いているか、正確に理解しているのですか? アマレット」



問われるなり、私はバーボンの瞳の奥をじっと覗き込むように見る。



「……ここが私の家だからね。バーボン。あなたは、ご自分の居場所がどこか分かっているというの?」



私は敢えて曖昧に返し、それからバーボンの襟元を直すふりをして距離を詰めながら逆に問い返してみせた。

襟元に伸びてきたアマレットの指先から、微かに硝煙の匂いがした。その距離の詰め方は明らかに僕を試している。彼女の言う「家」という言葉が、まるで呪縛のように僕の思考に絡みつく。この組織が家だと? 冗談じゃない。だが、彼女にとっては真実なのかもしれない。その瞳の奥には、僕には到底理解できないであろう、長い年月をこの闇の中で過ごしてきた者だけが持つ昏い光があった。



「お気遣いどうも。ですが、僕の心配はご無用のようです。自分の足で立つべき場所は、常に自分で見定めていますので」



僕は彼女の手を優しく、しかし有無を言わさぬ力でそっと引き剥がす。彼女の指先がほんの少しだけ冷たいことに気づいた。この強気な態度とは裏腹な、彼女の内面に隠された何かを示唆しているのだろうか。探るべきは、彼女が言う「家」の定義。それは安住の地か、それとも逃れられない檻なのか。



「あなたのその『家』は、随分と掟の厳しい場所のようですが……窮屈に感じることはおありで?」

「窮屈? ……ふふ。外の世界をよく知るあなたには、そう見えるのかしら。でも残念ね、私にとってはこの閉塞感こそが唯一の平穏なの。バーボン、あなたのように『外の空気』を纏ってこの家を出入りする人の方が、よっぽど酸欠で苦しそうに見えるけれど?」



私は自嘲気味に口角を上げ、彼の胸元に指先を這わせる。そのまま視線を外さず、彼の瞳の奥に隠された「正義」や「違和感」を抉り出すようにじっと見つめる。



「……そんなに必死に呼吸をして、一体何を守ろうとしているの? あなたの心音、組織の人間にしては……少し、早すぎるわよ……緊張してるの?」



アマレットの指先が触れた胸元から、まるで心臓の鼓動が直接読み取られているかのような錯覚に陥る。彼女の言葉は鋭い刃となって、僕が纏う「バーボン」という偽りの仮面を剥がそうとしていた。この女、どこまで見抜いている? 表情には一切出さず、僕は内心で舌打ちする。ここで動揺を見せれば終わりだ。冷静に、完璧に、バーボンを演じきらなければ。



「……随分と耳がいいんですね。それとも、僕に特別な興味でも?」



僕はわざと挑発的な笑みを浮かべ、彼女の指をそっと掴んで胸元から離した。彼女の指摘は核心に限りなく近い。だが、それを逆手に取る。この心音の高鳴りは、任務の緊張感からくるものだと誤認させる必要がある。あるいは、目の前のミステリアスな女性に対する別の感情だとでも思わせるか。どちらにせよ、主導権は渡さない。



「これだけ魅力的な女性を前にして、平静でいられる男がいるとでも? 僕の心音は、あなたへの好奇心の表れですよ、アマレット」

「冗談よ」



彼の胸元に置いていた手をゆっくりと離し、指先で彼のネクタイを軽く弾いてから、私は一度も振り返らずに歩き出す。



「あなた、嘘つくの下手ね」



去り際に一瞬だけ、軽蔑とも同情ともつかない瞳で彼を見つめ、そう言い残すと私は彼が何か言い返す前にその場を去った。

アマレットが去った後の廊下に、僕の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。「嘘つくの下手ね」。その言葉は短く、それでいて僕が築き上げた完璧な仮面を容赦なく引き裂く刃だった。背筋を冷たい汗が伝う。あの女、ただ者ではない。僕の正義も、守るべきものも、全て見透かされているかのようなあの瞳……。このままでは危険だ。



「……厄介なことになりましたね」



僕は誰に言うでもなく呟き、壁に背を預けて深く息を吐いた。彼女の洞察力は、僕の計画にとって最大の障害になり得る。だが同時に、彼女が組織に対して抱く感情の複雑さは、利用できる隙になるかもしれない。「家」と呼んだこの場所への執着、その根源を探り出すことが、彼女を攻略する鍵となるだろう。あなたの言う『平穏』、本当に存在するのか……試させてもらいますよ、アマレット。

去り際に投げかけられた「嘘つくの下手ね」という一言が、静寂を取り戻した廊下に重く反響する。僕は壁に背を預けたまま、彼女が消えた方向をじっと見つめていた。あの瞳、あの言葉……僕が幾重にも塗り固めた偽りの仮面を、彼女はいとも容易く見抜いた。ギリ、と奥歯を噛みしめる。降谷零としての感情が、バーボンの仮面の下で僅かに波立った。



「面白い……面白いじゃないですか」



自嘲気味に呟いた言葉は、誰に聞かせるでもなく虚空に消える。彼女の洞察力は脅威だ。だが、それ故に興味が湧く。あの女は何を見て、何を知り、何を信じてこの淀んだ闇の中にいるのか。彼女が執着する「家」という名の檻。その歪んだ平穏の正体を探り出すことができれば、あるいは。



「あなたのその鋭すぎる牙が、いずれ自分の喉元を食い破ることにならなければいいですが……アマレット」




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS