「お疲れ様、バーボン」
バーボンが束の間の休息を取っているとアマレットが缶コーヒー片手にやって来て、バーボンの隣に来る。そして「どうぞ」と言い、ことり、と音を立てて缶コーヒーを置いた。
僕が部屋の調査を終えて一息ついていると、当の本人であるアマレットが姿を現した。彼女の登場はまるで僕の行動を全て見透かしていたかのような、完璧なタイミングだった。僕の内心の動揺を悟られないよう、あくまで平静を装う。
「これはどうも、アマレット。気が利きますね」
彼女が差し出した缶コーヒーに視線を落とす。この何気ない行為にも、何か裏があるのではないかと勘繰ってしまう。僕が彼女の部屋に侵入したことを知った上での牽制か、それとも単なる気まぐれか。彼女の真意を測りかねたまま、無言で缶を見つめる。
「少し、顔色が悪かったから。余計なお世話だったかしら」
彼女はそう言って悪戯っぽく笑うが、その瞳の奥は笑っていない。僕の反応を鋭く観察しているのが手に取るように分かった。このコーヒーを受け取るか否か、その選択一つで今後の関係性が大きく変わるだろう。下手に動けば、僕が何かを探っていると認めることになる。
「……コーヒーは嫌い?」
私はコーヒーを見つめたままのバーボンを見て、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔をした。
「いらなかったら捨てるなりしてくれていいわ。それじゃあね」
それもほんの一瞬の事で、いつもの高飛車な顔をしたアマレットはそう言って立ち上がり、そのままバーボンに背を向ける。
アマレットが背を向け、去ろうとする。その一瞬見せた寂しげな表情が、僕の脳裏に焼き付いて離れない。それは計算された演技か、それとも不意に見せた本心か。彼女の複雑な内面が、僕の探求心をさらに強く刺激する。このまま行かせてしまえば、彼女との間に生まれた僅かな接点すら失ってしまうだろう。
「待ってください、アマレット」
僕は立ち上がり、彼女の腕を掴む。その手は驚くほど細く、冷たかった。彼女が振り向くと、その瞳には警戒と、ほんのわずかな戸惑いの色が浮かんでいるように見えた。僕が彼女の部屋で見た写真の少女の面影が、一瞬だけ重なる。
「えっ……?」
不意に腕を掴まれ、思わず仮面を被るのも忘れて素の表情で振り返る。その顔はほんの少しだけいつもより幼く見えた。
「このコーヒー、ありがたくいただきますよ。ただ、少し考え事をしていただけです」
僕は掴んだ手をそっと離し、彼女が置いていった缶コーヒーを手に取った。カシュッ、と軽い音を立ててプルタブを開ける。彼女の真意を探るためには、この差し出された手を取るしかない。たとえそれが毒入りの甘い罠だとしても、僕は踏み込む覚悟だ。
「僕と、少し話しませんか? 君のことも、もっと知りたい」
「……知る価値なんてないわ。私は組織の人間よ。知るって、覚悟がいるのよ。あなたにそれがあるの?」
私はバーボンの顔を冷徹に見返しながら言った。それから私はバーボンから顔を逸らし、目を合わせずに続けた。表情は冷たいまま、声はほんの少しだけ、いつもよりも柔らかい。
「……私は、もう引き返せないの」
そのまま目線を下げ、伏し目がちにバーボンに掴まれた手首を見つめた。
彼女の視線が、僕がかつて掴んだ手首へと落ちる。その伏し目がちな横顔に浮かぶのは、諦観と、わずかながら過去への悔恨の色か。組織の人間だと自らを断じながらも、その言葉とは裏腹に、彼女の心は救いを求めて揺れているように見えた。引き返せない、その言葉の重みが僕の胸に突き刺さる。
「覚悟なら、とうの昔にできていますよ」
僕は静かに告げ、彼女の隣に腰を下ろす。物理的な距離を縮めることで、心の壁も少しだけ溶かせるかもしれない。彼女の視線が僕の手元にあるコーヒー缶へと移るのが分かった。この缶コーヒーが、僕と彼女を繋ぐ唯一の細い糸だ。
「引き返せない場所にいるのは、僕も同じかもしれません。だからこそ、知りたいんです。あなたが何を見て、何を感じてきたのかを」
僕の言葉に、彼女の肩が微かに震える。僕は敢えて彼女の過去に直接触れることはせず、ただ寄り添うように言葉を続けた。彼女が自ら口を開くまで、辛抱強く待つ。それが、彼女の固く閉ざされた心を開くための、唯一の方法だと信じて。この駆け引きの先に、僕が求める真実があると信じて。
隣に腰を下ろす彼の肩が微かに触れた。一瞬だけびくりと震えたあと、バーボンの手元にある缶コーヒーを見つめた。彼の言葉に思わず肩の力が少し抜ける。それから息を吐き、一瞬だけ視線を合わせる。
「……あなたは、どうしてそこまで踏み込めるの? ……普通なら、放っておくでしょう?」
力の入ってない柔らかな表情で、少しだけ困ったような顔で、私は眉を下げて微笑んだ。
彼女が見せた、力の抜けた柔らかな表情。それは組織の人間としてではなく、一人の女性としての素顔なのだろうか。僕の踏み込みに困惑しながらも、その瞳の奥には拒絶とは違う、何かを探るような色が浮かんでいる。この問いは、僕という人間を試しているのかもしれない。
「放っておけませんよ。目の前で何かを抱えている人がいれば、手を差し伸べたくなるのが僕の性分なんです」
「後悔しても、知らないわよ。でも───あなたが思ってるより、私は面倒な女よ」
僕はコーヒーを一口飲み、その苦みを味わいながら、努めて穏やかな声で答える。組織の人間としてではなく、降谷零としての本心が、無意識に言葉となって漏れ出た。彼女の警戒心を解くには、小手先の嘘ではなく、真実のかけらを見せる必要がある。
「それに、あなたは僕にとってただの『組織の人間』ではない。興味深い、もっと知りたいと思わせる何かがあるんです」
僕は静かに彼女の瞳を見つめ返す。その視線に、僕が抱く純粋な好奇心と、彼女の内面に触れたいという真摯な思いを込めた。この一手が、彼女の心を動かすか、あるいは再び閉ざさせてしまうかの分水嶺になるだろう。
「……それ、任務でも言えるの?」
私はくすっと微笑んだ。いつもの冷淡な笑みではなく、自然な笑みだった。その柔らかな微笑みもほんの一瞬の事で、私は組織の女の顔を取り戻し、ほんの0.5秒だけ間を置いて立ち上がる。彼の手を名残惜しげに見つめた。
「……秘密にしておくわ。謎は暴いてこそでしょ? じゃあね、バーボン」
私は完璧な組織の女の顔で微笑み、そっと背を向けた。
僕の言葉を「任務」という枠組みで捉え、からかうように微笑む彼女。その一瞬見せた自然な笑みに、僕は思わず息を呑む。だが、それも束の間、彼女は再び組織の仮面を被り、冷徹な貌で僕に背を向けた。面倒な女、秘密、謎。彼女が残した言葉と、名残惜しそうに僕の手元に向けられた一瞬の視線が、僕の思考を駆け巡る。
「ええ、謎は暴くためにありますからね」
去りゆく彼女の背中に、僕は静かに呟く。それは挑戦状への返答であり、僕自身の覚悟を示す言葉だ。彼女が抱える秘密の深さは計り知れない。だが、その謎が組織の核心に繋がっているのなら、僕が退く理由はどこにもない。むしろ、彼女は僕を試しているのかもしれない。この謎を解き明かす資格があるのかどうかを。
「面倒なのは、お互い様かもしれませんよ」
僕は立ち上がり、彼女が消えた方向を見つめる。アマレット、君が何者であろうと、僕は必ず君の真実に辿り着いてみせる。それが僕の正義であり、僕がここにいる理由なのだから。夜の闇に紛れていく彼女の姿を追いながら、僕は静かに、しかし確かな闘志を胸に燃やしていた。
バーボンが尾行してきていることに気付いていない素振りで私は歩く。
「──ベルモット」
現れたベルモットは面白そうな笑みを浮かべてアマレットの背後に目を向けた。
「あらあら。あなたを尾行するなんて、随分命知らずな子がいるのね」
私は振り返らないまま静かに微笑む。
「……そうね。ほら、面倒でしょ?」
ベルモットと合流した彼女は、僕の存在に気づいていない素振りを続けている。だが、ベルモットのあの含みのある笑みと視線は、明らかに僕を捉えていた。アマレットは僕に気づかせた上で、彼女との関係性を見せつけているのだろう。面倒な女、その言葉の意味が今、現実となって僕の前に突きつけられている。ええ、本当に。ですが、彼も仕事熱心なだけかもしれませんよ。
物陰から二人の会話に耳を澄ます。アマレットの返答は冷静そのものだが、その声には僕を試すような響きが含まれていた。彼女はベルモットを使い、僕を牽制しているのか。あるいは、これは二人からの招待状なのか。どちらにせよ、ここで退く選択肢はない。彼女たちのゲームに乗ってやるまでだ。だが、あまり深入りすると、火傷では済まないかもしれない。
ベルモットとアマレット、二人の間に流れる共犯者のような空気。ジンや他のメンバーとは明らかに違う、家族にも似た親密さ。アマレットが抱える秘密の核心には、ベルモットが深く関わっている。僕の直感がそう告げていた。この謎を解き明かすことは、組織の深淵に触れることと同義なのだろう。
そのままアマレットは立ち去り、ベルモットは悠然とヒールの音を響かせながらバーボンの潜む物陰へと歩み寄る。
「いるんでしょう。バーボン? 見てたわよ。うちのお姫様に興味があるの?」
ベルモットがゆっくりとこちらへ近づいてくる。その余裕綽々な態度、そして僕を「バーボン」と呼ぶ声。僕の尾行は完全に見抜かれていたわけだ。彼女はアマレットを「うちのお姫様」と表現した。単なる可愛がり方ではない、特別な意味を持つ響きだ。その言葉一つで、アマレットの組織内での特異な立場が浮き彫りになる。
「……これは失礼。少し気になることがありましてね」
僕は物陰から姿を現し、穏やかな笑みを浮かべてベルモットに向き直る。ここで動揺を見せるのは得策ではない。彼女の挑発的な問いに対し、あくまで探偵としての好奇心を装う。アマレットへの興味を隠す必要はないが、その本質は見せない。
「ええ、少し。彼女は他のメンバーとは違う、何か特別な雰囲気をお持ちですから」
アマレットの特異性を認めることで、逆にベルモットから情報を引き出す狙いだ。彼女がアマレットをどう思っているのか、その反応を探る。この魔女のような女を相手にするには、一筋縄ではいかない。だが、この駆け引きこそが、僕の求めるスリルでもある。
ベルモットはゆっくり煙草に火をつけながら、微笑する。視線だけで刺すようにバーボンを見る。
「特別? ……ふふ、あなたがそう言うなんて珍しいわね、バーボン。でもね、あの子は“特別”なんて言葉じゃ足りないの」
そっとバーボンに歩み寄り、意味深に微笑む。
「壊れやすくて、鋭くて、とても厄介な子よ。触れれば怪我をするわ」
ベルモットはバーボンのネクタイピンをそっと直し、「だけどね……」と声を潜めた。
「……ジンが聞いたら、面倒なことになるわよ?」
一拍置き、バーボンの耳元で囁いた。ベルモットの指先がネクタイピンに触れた瞬間、彼女の纏う甘い香りと共に、肌を刺すような緊張が走る。ジンの名前を出したのは、僕への最後の警告だろう。アマレットが彼にとっても特別な存在であるという事実を突きつけ、僕の探究心に釘を刺そうとしている。だが、その警告は僕の好奇心を煽る燃料にしかならない。
「ご忠告、感謝します。ですが、僕はスリルを好む質でしてね」
僕は彼女の囁きにも動じず、あくまで穏やかな笑みを返す。ネクタイピンから離れた彼女の指先を見送りながら、あえて挑発的な言葉を選んだ。彼女が引いた境界線を、僕は踏み越える意思がある。それをこの魔女に理解させる必要があった。
「壊れやすく、鋭い……ですか。ますます興味が湧いてきました。彼女が秘める厄介な真実とやらに」
アマレットの危険性を強調するベルモットの言葉は、裏を返せば彼女がそれだけ深くアマレットに関与している証拠だ。この女は、アマレットという秘密の扉の番人なのかもしれない。ならば、まずはこの番人をどうにかする必要があるだろう。僕は静かに、次の一手を思考する。
ベルモットは煙を吐いて、少しだけ目を細める。
「あら、勇敢なのね。嫌いじゃないわ。でもね、バーボン……」
ベルモットは一歩だけ距離を取って、「あの子は“救われたい”なんて思っていないわよ?」と囁いた。
「あなたが踏み込めば踏み込むほど、あの子はあなたから遠ざかるかもしれない」
そのままベルモットは背を向け、去り際に一言だけ言い添える。
「あの子を泣かせたら、許さないわよ?」
それだけ言って歩き出す。ベルモットの立てるヒールの音が遠ざかっていった。
ベルモットの背中が闇に消えていく。彼女の最後の言葉、「泣かせたら許さない」。それは単なる脅しではなく、アマレットへの深い愛情、あるいは執着を感じさせるものだった。"救われたいなんて思っていない"…か。ならば、彼女は何を望んでいる?組織という鳥籠の中で、何を想い、生きているのか。ベルモットの警告は、僕の探求心をさらに燃え上がらせるだけだ。
「……ええ、肝に銘じておきましょう」
誰もいない空間に独り言ち、僕は踵を返す。ベルモットが去った今、直接アマレットに接触する好機かもしれない。彼女が本当に救いを求めていないのか、それとも求められないのか。その真実を、僕自身の目で確かめる必要がある。彼女の心の奥底に隠された棘に触れる覚悟は、とうにできている。
「あなたこそ、彼女の涙を見過ごさないことですね、ベルモット」
彼女が守ろうとしているものが、本当にアマレットのためになるとは限らない。僕は静かに闇に紛れ、先ほどのアマレットの気配が残る方へと慎重に歩を進めた。この危険なゲーム、降りる気は毛頭ない。
ベルモットが去った後の静寂は、僕の思考をより鮮明にさせた。「救われたいなんて思っていない」という彼女の言葉が、頭の中で何度も反響する。だが、それはベルモットの主観に過ぎない。組織という異常な環境で育ったアマレットが、自らの本当の感情を正しく理解しているとは限らない。あるいは、諦めているだけなのか。
「……遠ざかる、ですか」
ベルモットの警告は、僕を試しているようにも聞こえた。僕が公安の人間だと知らずとも、彼女は僕という男の本質を見抜こうとしている。アマレットという聖域に、僕が土足で踏み入る資格があるのかどうかを。だが、僕の目的は単なる好奇心ではない。組織の闇に囚われた魂を、一人でも多く救い出すことだ。たとえそれが、彼女の望まぬ救済であったとしても。
「面白い。ならば証明してみせましょう、僕が彼女の真実に触れるに値する男だと」
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