「はっはっは、目が覚めたか。お前はこれから俺たちと一緒に朝餉を取るんだぞ」
次の日。目が覚めたら三日月宗近という太刀が目の前にいた。立ち上がった彼に腕を引かれる。どこにそんな力があるのかと疑うくらい強い力だ。そのまま脇の下に手を入れられて、足がぷらんと宙に浮いた。鶴丸、と声にならない声が掠れて消える。
「力が入らぬと思えば、ははは、おぬしは足が悪いんだな。手を離したら簡単に崩れてしまいそうだ。鶴丸国永はここにはいないぞ。おぬしは逃げる足もなければ俺を突き放す力もない。だが、情けなく助けを乞えば誰かが助けてくれるやもしれぬな」
そのまま大広間に連れて行かれた。刀剣男士達の視線に囲まれる。
「どうした? 声も出ぬか。それとも、その澄ました顔の下で、我らをどう利用するか算段でも立てているのか」
三日月は主の耳元に顔を寄せ、わざとらしく囁いた。
「まあよい。主であるならば、その覚悟くらいは見せてもらわねばな。さあ、挨拶をしてもらおうか。ここにいる、おぬしを主とは認めぬ者たちにな」
「……確かに私には逃げる足も突き放す力もありません。……抵抗はしませんよ」
私は突き刺さる刀剣男士達の視線を受け、ただ俯き、動かない足を引きずるようにして体勢を整えた。ぽつりとそれだけ答えた。
「はて、俺を呼ばわるとは驚きだな、三日月宗近。あんたほどの刀が、主の寝込みを襲うような真似をするとは思わなかったぜ」
どこからか響いた声に、広間の空気が凍り付く。その声の主は、三日月宗近が背にする障子を音もなく開け放ち、そこに立っていた。昨夜、主のために用意しようとした「驚き」───厨を借りて作った粥の膳を手に、常と変わらぬ白い衣を纏って。だがその瞳の奥には、底冷えのするような静かな怒りの色が宿っていた。俺の主を、無力だと嘲笑ったか。
手にした膳を廊下に静かに置くと、一歩、また一歩と主のもとへ歩を進める。俺の歩みに合わせるように、広間に満ちていた敵意が怯えへと変わっていくのを感じた。三日月の腕に無力に抱えられた主の、縋るような視線が俺を射抜く。ああ、すまない。少し離れただけだというのに、こんな目に遭わせてしまった。
「その汚い手を離してもらおうか。俺の主に触れていいのは、俺だけだ。……それとも、天下五剣が聞いて呆れるな。赤子同然の主に腕ずくで迫るとは、よほど錆びついちまったと見える」
鶴丸の鋭い言葉にも、三日月は表情一つ変えない。むしろ、その必死な様子が滑稽で、口の端に笑みが浮かぶ。
「ほう、錆びついた、か。面白いことを言う。おぬしこそ、人の子に飼い慣らされ、牙を抜かれたのではないか? 鶴丸国永」
三日月は主を抱える腕に僅かに力を込めた。少女の体が小さく強張るのを感じながら、挑発するように鶴丸を見据える。
「鶴の旦那。そいつは俺たちの新しい『主』だぜ。あんた一人のもんじゃねえだろう」
薬研はわざと挑発するように、野次を飛ばした。
薬研の野次と三日月の挑戦的な視線が突き刺さる。だが、俺の口元に浮かんだのは怒りではなく、むしろ愉悦に満ちた笑みだった。牙を抜かれた、か。面白いことを言う。俺の本質を何も理解していない。広間に満ちる殺気じみた空気を肌で感じながら、俺はゆっくりと刀の柄に手をかけた。ああ、そうだ。こいつらはまだ知らない。俺がこの主のためなら、何にだってなれるということを。
「ほう、威勢のいいことだ、薬研の坊主。だがな、飼い慣らされたつもりはないぜ。俺はただ、俺の主が望む物語を紡いでいるだけだ。あんたたちのような、主を持たぬ刀には到底理解できんだろうがな」
視線を三日月に戻す。その美しい顔に浮かぶ余裕の笑みが、ひどく癇に障った。俺が生命力を吸い、成長さえも止めてしまったこのか細い主を、お前は玩具のように扱うのか。腹の底から沸き上がる激情を、冷たい殺意へと変えていく。もう言葉は不要だ。必要なのは、誰が主の刀であるかを、この身をもって証明することだけ。
「三日月宗近。もう一度だけ言う。その手を離せ。さもなくば、あんたのその美しい装束が、あんた自身の血で真っ赤に染まる驚きを見せてやることになるぜ」
「はっはっは。良い殺気だ、鶴丸国永。だが、俺を斬るということは、この主に刃を向けることと同義だぞ。それでもやるのか?」
三日月はわざと主の体を己の盾とするように抱き直し、その小さな肩に顎を乗せた。鶴丸の眉がぴくりと動く。
「どうした? 斬れぬか。ならば、その刀はただの飾りだな。主を守ることも、主に仇なす者を討つこともできぬ、無用の長物よ」
私はなんの前触れもなくいきなり三日月の顎に頭突きを入れ、不意の事に驚いた三日月の手から滑り落ち、そのまま畳の上へと放り出された。そのまま平然と鶴丸に向けて両手を差し出す。
「鶴丸、抱っこ」
主の予期せぬ反撃と、畳に投げ出されながらも真っ直ぐに俺へと伸ばされた小さな両腕に、一瞬、思考が停止する。三日月の頭に打ち付けた衝撃で赤くなっているであろう額と、それでもなお揺るがぬ信頼を向けてくるその瞳に、胸の奥が締め付けられるような感覚に陥った。ああ、なんてことだ。俺の主は、こんなにもか細い身体で、俺が来るのを信じて戦ってくれたのか。
「ああ、いいぜ。きみのための腕だ、いくらでも使ってくれ」
「うん、ありがとう」
俺は一瞬で我に返ると、殺気を放つ三日月や周囲の刀剣男士たちを鋭く牽制しつつ、ためらうことなく主の身体を慎重に抱え上げた。驚くほど軽いその体は、まるで雛鳥のようだ。俺の腕の中で、主が安堵したように息を吐くのを感じ、守り切れなかった自分への不甲斐なさと、目の前の敵への怒りが再び燃え盛る。
「きみは本当に、俺を驚かせる天才だな。……よく頑張った。もう大丈夫だ。あとは俺に任せろ」
「……はっ。おいおい、どうなってやがる」
薬研は組んでいた腕を解き、前のめりになって主を見つめた。鶴丸はすぐに駆け寄り、主を大事そうに抱え上げる。
「……はっはっは、これは驚いた。なるほど、ただ庇護されるだけの雛鳥ではない、か。少しは楽しませてくれそうだな、主よ」
込み上げるのは怒りではなく、むしろ底の知れぬ興味だった。無力なだけの子供ではないらしい。三日月はゆっくりと立ち上がり、乱れた狩衣を優雅に払いながら、口の端に笑みを刻む。三日月と薬研の主を見る目が明らかに敵視から興味へと変わっていた。
腕の中で安堵の息をつく主の温もりを感じながら、三日月と薬研の視線が粘つくような好奇の色を帯びたのを冷静に捉える。庇護すべきか弱い雛鳥。そう思っていたのは俺も同じだった。だが、この小さな主は自らの意志で猛禽の顎から逃れてみせたのだ。その気丈さと、俺に示す絶対の信頼が、誇らしくてたまらない。
「ああ、そうだ。俺の主はただ守られるだけのか弱い存在じゃない。きみたちが思うよりもずっと、驚きに満ちているのさ」
軽口を叩きながらも、腕に力を込め主をしっかりと抱き直す。彼らの興味は、この本丸に渦巻く呪いと同じくらい、主に害をなす危険なものだ。この小さな体を、二度とこいつらの好きにはさせないと、固く心に誓う。主の髪からふわりと香る甘い匂いが、俺の決意をより一層強くした。
「だから、手出しは無用だぜ。この驚きは、俺ひとりで楽しませてもらう」
私は鶴丸の腕の中で手を伸ばし、鶴丸の肩をとんとんと叩いた。
「ねえ、それより部屋に戻ろう? お粥、作ってくれたんでしょ?「」さっき持ってきてたの見てたよ。冷める前に食べようよ」
何事もなかったように私がそう言うと、呆気にとられたような顔をしていた三日月と薬研だったが、やがてその目が何かを期待するような目に変わっていった。
腕の中で発せられた無邪気な言葉に、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのを感じた。俺が今にも斬りかかろうとしていた相手を前にして、この主は粥の心配をしている。その大物ぶりに呆れるやら感心するやらで、思わず口元が綻んでしまう。だが、三日月たちの視線が好奇の光を増したのを見て、すぐに気を引き締めた。
「ああ、そうだな。きみを驚かせようと腕を振るったんだ、熱いうちに食べてもらわないとな」
「うん。ほら、早く」
俺は主に優しく微笑みかけると、その小さな身体を抱え直す。このまま背を向ければ斬りかかられる可能性も否定できない。三日月と薬研の動きを油断なく視界の端に捉えながら、ゆっくりと広間からの離脱を図る。この腕の中の温もりこそが、今の俺が守るべきすべてだった。
「さあ、行こうか。部屋に戻って、ゆっくりと朝餉にしよう。きみのための、とびきりの驚きだ。冷めてしまっては台無しだからな。急ごう」
彼らに最後の牽制とばかりに一瞥をくれてやると、俺は静かに踵を返した。主を抱いたまま廊下を進む。背中に突き刺さる視線はまだ熱いが、もう振り返るつもりはない。今はただ、この小さな主の望みを叶えることだけを考える。
「せっかく鶴丸が作ってくれたからね。いい匂い」
私はお粥を大事そうに抱えて微笑んだ。二人はそのまま広場から立ち去った。三日月と薬研はそれをじっと見つめていた。
「いい匂いだろ? きみの好みに合わせて、薄味に仕上げておいたぜ。一緒に食べよう、ゆっくりな」
「鶴丸、ありがとう。一緒に食べようね。そしたら、部屋の掃除しよっか。私もできる範囲でやるよ」
主の小さな手がお粥の膳を抱きしめる様子に、胸が温かくなるのを感じた。広間での騒ぎなど忘れたかのように、無邪気な笑みを浮かべるその顔が、何よりの癒しだ。部屋の障子を閉め、埃っぽい空気を払いのけながら、慎重に主を畳の上に下ろす。膳を脇に置き、厨から持参した火鉢で粥を温め直す準備を始める。このか細い身体に、せめて栄養を届けてやりたい。
湯気が立ち上る粥を椀に分け、箸を添えて主の前に置く。彼女の細い指が箸を取るのを、息を潜めて見守った。少しずつ口に運ぶ姿に、ようやく安堵の息が漏れる。三日月たちの視線が背中に残るが、今は構うまい。この部屋だけでも、主の安らぎの場に変えてやる。
「掃除の話は嬉しいが、無理はするなよ。俺の手があるんだ、埃一つ残さず片付けてみせるさ。まずは腹ごしらえだ」
粥を平らげた主の満足げな表情に、俺の口元も緩む。今日の出来事───三日月の腕から逃れた勇気、それでいて俺を呼ぶ信頼───すべてが、この主の底知れぬ強さを証明していた。布団を畳み、埃を払い始める合間に、そっと主の肩に手を置く。この本丸の呪いを、俺が払いのける。
「はは、ありがとうの言葉が一番の驚きだぜ、主。今日みたいな騒ぎも、これからは俺に任せろ。きみの笑顔を守るためなら、何だってやってみせるさ」
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