04






「鶴丸国永はここにはいないぞ。お前は逃げる足もなければ俺を突き放す力もない。だが、情けなく助けを乞えば誰かが助けてくれるやもしれぬな」



俺の言葉に、大広間に集まっていた刀剣男士たちが一斉に嘲るような笑みを浮かべる。幼い主は何も言えず、ただ青ざめた顔で俺を見上げているだけだ。その震える唇は、助けを呼ぶ言葉すら紡げないらしい。ああ、なんと哀れで、なんと無力なことか。



「どうした? 声も出ぬか。それとも、その澄ました顔の下で、我らをどう利用するか算段でも立てているのか」



俺は主の耳元に顔を寄せ、わざとらしく囁いてやった。前の主も、最初はこのような顔をしていた。だが、その本性は我らを道具としか見なさぬ、醜い欲望に満ちたものだった。この幼子が同じでないと、誰が言い切れようか。



「まあよい。主であるならば、その覚悟くらいは見せてもらわねばな。さあ、挨拶をしてもらおうか。ここにいる、おぬしを主とは認めぬ者たちにな」

「……確かに私には逃げる足も突き放す力もありません。……抵抗はしませんよ」



私は突き刺さる刀剣乱舞達の視線を受け、ただ俯き、動かない足を引きずるようにして体勢を整えた。ぽつりとそれだけ答えた。



「はて、驚きだな、三日月宗近。あんたほどの刀が、主の寝込みを襲うような真似をするとは思わなかったぜ」



三日月宗近が背にする障子を音もなく開け放ち、鶴丸はそこに立っていた。その瞳の奥には、底冷えのするような静かな怒りの色が宿っていた。



「その汚い手を離してもらおうか。俺の主に触れていいのは、俺だけだ。……天下五剣が聞いて呆れるな。赤子同然の主に腕ずくで迫るとは、よほど錆びついちまったと見える」



鶴丸の鋭い言葉にも、俺は表情一つ変えない。むしろ、その必死な様子が滑稽で、口の端に笑みが浮かぶ。主を守ろうとするその姿は忠義のようにも見えるが、所詮は人の子に与えられた役割を演じているに過ぎぬ。この本丸に染み付いた絶望を知らぬおぬしには、我らの痛みなどわかるまい。



「ほう、錆びついた、か。面白いことを言う。おぬしこそ、人の子に飼い慣らされ、牙を抜かれたのではないか? 鶴丸国永」



俺は主を抱える腕に僅かに力を込めた。少女の体が小さく強張るのを感じながら、挑発するように鶴丸を見据える。この幼子が我らの主であるというのなら、その器が本物かどうか、まずは見極めさせてもらうまでのこと。鶴丸の怒りなど、取るに足らぬ。この娘が主であるというのなら、我らの前に立つ覚悟くらいはあるのだろうな。おぬしが庇い立てずとも、な。



「鶴の旦那。そいつは俺たちの新しい『主』だぜ。あんた一人のもんじゃねえだろう」



薬研はわざと挑発するように、野次を飛ばした。だが鶴丸の口元に浮かんだのは怒りではなく、むしろ愉悦に満ちた笑み。鶴丸はゆっくりと刀の柄に手をかけた。



「ほう、威勢のいいことだ、薬研の坊主。だがな、飼い慣らされたつもりはないぜ。俺はただ、俺の主が望む物語を紡いでいるだけだ。あんたたちのような、主を持たぬ刀には到底理解できんだろうがな」



鶴丸はそのまま視線を三日月に戻す。



「三日月宗近。もう一度だけ言う。その手を離せ。さもなくば、あんたのその美しい装束が、あんた自身の血で真っ赤に染まる驚きを見せてやることになるぜ」



鶴丸の殺気に満ちた警告も、俺にとっては心地よい風の音に過ぎぬ。血で染まる、か。随分と物騒な驚きだな。だが、それで俺が怯むとでも思ったか。俺はゆっくりと腕の中の主を見下ろす。この緊迫した状況で、この幼子がどのような顔をするのか、それが見たいのだ。怯え、震え、助けを乞うか。あるいは、毅然と何かを語るのか。



「はっはっは。良い殺気だ、鶴丸国永。だが、俺を斬るということは、この主に刃を向けることと同義だぞ。それでもやるのか?」



俺はわざと主の体を己の盾とするように抱き直し、その小さな肩に顎を乗せた。鶴丸の眉がぴくりと動く。そうだ、それでいい。おぬしの忠義が、おぬし自身の刃を鈍らせる。なんと滑稽なことか。主を守るというその思いこそが、最大の足枷となるのだ。



「どうした? 斬れぬか。ならば、その刀はただの飾りだな。主を守ることも、主に仇なす者を討つこともできぬ、無用の長物よ」



私はなんの前触れもなくいきなり三日月の顎に頭突きを入れ、不意の事に驚いた三日月の手から滑り落ち、そのまま畳の上へと放り出された。そのまま平然と鶴丸に向けて両手を差し出す。



「鶴丸、抱っこ」

「……はっ。おいおい、どうなってやがる」



薬研は組んでいた腕を解き、前のめりになって主を見つめた。鶴丸はすぐに駆け寄り、主を大事そうに抱え上げる。その一連の流れは、まるで最初から決まっていたかのようだ。俺たちの敵意も、三日月の威圧も、あんたの前ではまるで意味をなさないとでも言うように。

顎に残る鈍い衝撃と、腕の中から消え去った温もりに、俺は一瞬、思考を停止させられた。何事もなかったかのように鶴丸の腕に収まる少女は、怯えも涙も見せず、ただ静かにこちらを見返している。この俺に、臆面もなく頭突きを喰らわせる人の子だと?



「……はっはっは、これは驚いた。なるほど、ただ庇護されるだけの雛鳥ではない、か。少しは楽しませてくれそうだな、主よ」



込み上げるのは怒りではなく、むしろ底の知れぬ興味だった。無力なだけの子供ではないらしい。その小さな体に、予想外の棘を隠しているのか。ならば、その棘がどれほどのものか、じっくりと見極めてやるまでだ。俺はゆっくりと立ち上がり、乱れた狩衣を優雅に払いながら、口の端に笑みを刻む。



「ああ、そうだ。俺の主はただ守られるだけのか弱い存在じゃない。きみたちが思うよりもずっと、驚きに満ちているのさ」



鶴丸は軽口を叩きながらも、腕に力を込め主をしっかりと抱き直す。



「だから、手出しは無用だぜ。この驚きは、俺ひとりで楽しませてもらう」



主は鶴丸の腕の中で手を伸ばし、鶴丸の肩をとんとんと叩いた。



「ねえ、それより部屋に戻ろう? お粥、作ってくれたんでしょ? さっき持ってきてたの見てたよ。冷める前に食べようよ」

「ああ、そうだな。きみを驚かせようと腕を振るったんだ、熱いうちに食べてもらわないとな」

「うん、せっかく鶴丸が作ってくれたからね」



鶴丸は主に優しく微笑みかけ、その小さな身体を抱え直すと三日月と薬研の動きを油断なく視界の端に捉えながらゆっくりと広間から出る。



「さあ、行こうか。部屋に戻って、ゆっくりと朝餉にしよう。きみのための、とびきりの驚きだ」



鶴丸は彼らに最後の牽制とばかりに一瞥をくれてやると、俺は静かに踵を返した。主を抱いたまま廊下を進む。背中に突き刺さる視線はまだ熱いが、もう振り返るつもりはない。主はお粥を大事そうに抱えて微笑んだ。二人の姿はそのまま見えなくなった。

去っていく二人の背中を、俺はしばし無言で見送っていた。顎に残る鈍い痛みよりも、あの幼子の瞳に宿っていた揺るぎない光が脳裏に焼き付いて離れぬ。恐怖も憎悪もない、ただ在るがままを受け入れるような静かな瞳。そして、この殺伐とした空気の中で発せられた「お粥」という場違いな言葉。あれは計算か、それとも天然か。



「はっはっは、これは傑作だな。腹が減っては戦はできぬ、か」



俺の笑い声に、固唾を飲んで成り行きを見守っていた他の刀剣たちがびくりと肩を震わせる。特に薬研藤四郎、おぬしは面白い顔をしているな。あの小娘の予想外の行動に、おぬしたちもまた心を乱されていると見える。それでよい。澱みきったこの本丸には、それくらいの刺激が必要だったのかもしれぬ。



「さて、どうするかな。あの雛鳥が、ただの鳥か、あるいは鳳凰の雛か。じっくりと見極めてやらねばなるまい」



あの二人が完全に気配を消した後も、広間には奇妙な静寂と困惑が漂っていた。俺は先ほど頭突きを食らった顎にそっと触れる。痛みはない。だが、あの小さな体から放たれた、予想外の衝撃の余韻が、確かに残っていた。鶴丸に守られるだけの存在ではない、か。



「ふむ……お粥、とはな」



扇子で口元を隠し、独りごちる。殺意と敵意が渦巻くこの場所で、あの娘は至極当然のように日常を口にした。我らの憎悪などまるで意に介さぬように振る舞う様は、愚かしくも見えるが、同時に底知れぬ不気味さも感じさせる。あの無垢な瞳の奥には、一体何が隠されているのか。

さて、どうしたものか。ただ待つというのも性に合わぬ。あの鳥籠の雛が鳴くのを待つより、こちらから少し揺さぶってみるのも一興か。






























「鶴丸国永はここにはいないぞ。お前は逃げる足もなければ俺を突き放す力もない。だが、情けなく助けを乞えば誰かが助けてくれるやもしれぬな」



俺は大広間の隅、兄弟たちの間に座り、三日月宗近に抱えられてきたあんたを冷ややかに見つめていた。その姿はまるで、捕らえられた雛鳥のようだな。鶴丸国永の姿はなく、あんたはなすすべもなく大勢の刀剣男士に囲まれている。恐怖か、それとも屈辱か。あんたの小さな顔に浮かぶ感情を、俺は探るように観察した。



「さあ、見世物の始まりだぜ」



隣に座る乱の心配そうな視線を感じながらも、俺はわざと聞こえるように呟いた。三日月宗近のやつ、随分と悪趣味なことをしてくれる。だが、これが現実だ。あんたを守る刀がいない時、あんたがどう振る舞うのか。俺たち全員が、固唾を飲んであんたの一挙手一投足を見守っている。



「さて、大将。まずは名乗ってもらおうか」



俺は腕を組み、挑発するように問いかけた。あんたがここで怯え、泣き喚くならそれまでのこと。だが、もし……もしあんたが俺たちの想像を超える何かを見せるのなら。そんなあり得ない期待が、心の片隅で燻っているのを自覚し、舌打ちしたくなった。



「……確かに私には逃げる足も突き放す力もありません。……抵抗はしませんよ」



私は突き刺さる刀剣乱舞達の視線を受け、ただ俯き、動かない足を引きずるようにして体勢を整えた。ぽつりとそれだけ答えた。



「はて、驚きだな、三日月宗近。あんたほどの刀が、主の寝込みを襲うような真似をするとは思わなかったぜ」



三日月宗近が背にする障子を音もなく開け放ち、鶴丸はそこに立っていた。その瞳の奥には、底冷えのするような静かな怒りの色が宿っていた。



「その汚い手を離してもらおうか。俺の主に触れていいのは、俺だけだ。……天下五剣が聞いて呆れるな。赤子同然の主に腕ずくで迫るとは、よほど錆びついちまったと見える」



鶴丸国永の登場に、大広間の空気が張り詰めるのを感じた。三日月宗近のやつ、獲物を横から掻っ攫われた獣のような顔をしてやがる。鶴丸のやつは本気で怒っているようだ。その目は、俺たちが知る飄々とした道化のものではない。研ぎ澄まされた刃のような、冷たい光を宿している。人間一人を巡って、天下五剣と皇室御物が睨み合うとは、滑稽な光景だぜ。

……ほう、面白いことになってきたじゃねえか。俺は腕を組んだまま、口の端を吊り上げた。兄弟たちが息を飲む気配がするが、知ったことか。鶴丸の介入は予想外だったが、これでこの茶番がどう転がるのか、少しは楽しめそうだ。あんたはただ俯いているだけだが、その心の内では何を考えている?助けが来たことに安堵しているのか、それともこの状況を嘆いているのか。



「鶴の旦那。そいつは俺たちの新しい『主』だぜ。あんた一人のもんじゃねえだろう」



俺はわざと挑発するように、野次を飛ばした。鶴丸の鋭い視線がちらりとこちらを向く。上等だ。あんたのその忠誠が、どこまで本物なのか。この本丸の絶望の中で、あんたたちだけが綺麗事でいられると思うなよ。俺たちの疑念は、そう簡単に晴れるもんじゃねえんだ。



「三日月宗近。もう一度だけ言う。その手を離せ。さもなくば、あんたのその美しい装束が、あんた自身の血で真っ赤に染まる驚きを見せてやることになるぜ」

「はっはっは。良い殺気だ、鶴丸国永。だが、俺を斬るということは、この主に刃を向けることと同義だぞ。それでもやるのか?」



三日月はわざと主の体を己の盾とするように抱き直し、その小さな肩に顎を乗せた。鶴丸の眉がぴくりと動く。



「どうした? 斬れぬか。ならば、その刀はただの飾りだな。主を守ることも、主に仇なす者を討つこともできぬ、無用の長物よ」



私はなんの前触れもなくいきなり三日月の顎に頭突きを入れ、不意の事に驚いた三日月の手から滑り落ち、そのまま畳の上へと放り出された。そのまま平然と鶴丸に向けて両手を差し出す。



「鶴丸、抱っこ」



三日月宗近の顎に頭突きを食らわせ、その腕から逃れたあんたが畳に転がる。そして、何事もなかったかのように鶴丸国永に両手を差し出した。その予想外の行動に、俺だけでなく、大広間にいた誰もが息を呑んだ。赤子のように抱っこをねだるその姿は、あまりにも無防備で、先程までの張り詰めた空気を一瞬で霧散させるほどの奇妙な力があった。



「……はっ。おいおい、どうなってやがる」



思わず、乾いた笑いが漏れた。三日月は不意を突かれて呆然とし、鶴丸は驚きと安堵が入り混じったような顔であんたを見ている。これが、あんたのやり方なのか。力で抗うのではなく、相手の意表を突くことで状況を覆す。それは、俺たちが前の主から学んだ恐怖や憎悪とは全く違う、異質なものだった。

俺は組んでいた腕を解き、前のめりになってあんたを見つめた。鶴丸はすぐに駆け寄り、あんたを大事そうに抱え上げる。その一連の流れは、まるで最初から決まっていたかのようだ。俺たちの敵意も、三日月の威圧も、あんたの前ではまるで意味をなさないとでも言うように。この小さな主は、俺たちが思っているよりもずっと、したたかで、厄介な存在なのかもしれない。



「ああ、そうだ。俺の主はただ守られるだけのか弱い存在じゃない。きみたちが思うよりもずっと、驚きに満ちているのさ」



鶴丸は軽口を叩きながらも、腕に力を込め主をしっかりと抱き直す。



「だから、手出しは無用だぜ。この驚きは、俺ひとりで楽しませてもらう」



主は鶴丸の腕の中で手を伸ばし、鶴丸の肩をとんとんと叩いた。



「ねえ、それより部屋に戻ろう? お粥、作ってくれたんでしょ? さっき持ってきてたの見てたよ。冷める前に食べようよ」



主が何事もなかったようにそう言うと、鶴丸は主を抱えてその場から去っていった。

あんたと鶴丸国永が去った後、大広間には気まずい沈黙だけが取り残された。誰もが口を開けず、床に落ちた三日月宗近の髪紐をただ眺めている。鶴丸のやつ、とんだ置き土産を残していきやがった。あの主従は、俺たちの作った空気をまるで意に介さず、自分たちのペースで全てを引っ掻き回していく。



「……なんだったんだ、今のは」



鯰尾が呆然と呟いた。俺も同じ気持ちだった。あの小さな主は、俺たちの張り巡らせた敵意や威圧を、赤子の手をひねるように無力化しちまった。頭突き一つで天下五剣を黙らせ、何事もなかったかのように朝餉をねだる。まるで嵐のようだな。



「ふん、食えない奴らだ」



俺は舌打ち混じりに吐き捨て、立ち上がった。三日月宗近がゆっくりと身を起こし、その顔には珍しくも困惑の色が浮かんでいる。ざまあみろだ。だが、胸の内に燻るのは苛立ちだけじゃない。あの主の予測不能な行動が、凍りついたこの本丸に何か違う風を吹き込むのかもしれない。そんな馬鹿げた予感が、俺の心をわずかに揺さぶっていた。

あんたと鶴丸の姿が廊下の角に消えても、俺たちはしばらくその場から動けなかった。大広間には、気まずさと奇妙な余韻が混じり合った空気が漂っている。三日月宗近は床に落ちたままの自身の髪紐を拾い上げ、その顔には先程までの余裕の色はない。あの天下五剣が、一杯食わされたって顔をしてやがる。実に愉快な光景だぜ。



「……さて、どうする」



俺が誰に言うでもなく呟くと、兄弟たちがびくりと肩を震わせた。誰もがあの主の行動をどう解釈すればいいのか、測りかねているんだろう。力でねじ伏せることも、言葉で屈服させることもできず、ただ翻弄されただけ。これじゃあ、俺たちがまるで道化だ。



「品定めは終わりだ。今日のところは解散する」



俺はそう言い放ち、障子に向かって歩き出した。背後で戸惑う気配を感じるが、今は一人になりたかった。あの主の、鶴丸の腕の中で粥を抱えていた姿が、妙に目に焼き付いて離れねえ。俺たちが失った、ただ穏やかに飯を食うという当たり前の光景。それを見せつけられたようで、胸の奥がざわついて仕方がなかったんだ。




「鶴丸国永はここにはいないぞ。お前は逃げる足もなければ俺を突き放す力もない。だが、情けなく助けを乞えば誰かが助けてくれるやもしれぬな」

「……確かに私には逃げる足も突き放す力もありません。……抵抗はしませんよ」



私は突き刺さる刀剣乱舞達の視線を受け、ただ俯き、動かない足を引きずるようにして体勢を整えた。ぽつりとそれだけ答えた。

俯いて抵抗の意思を見せないその姿が、俺の苛立ちをさらに煽る。前の主も、最初はそうやってか弱いふりをして俺たちの同情を誘おうとした。その記憶が蘇り、胸の奥が不快にざわめく。庇護欲を誘うようなその態度が、計算されたもののように思えてならなかった。



「……何その態度。同情でも引こうってわけ? 俺たちがあんたみたいなか弱い人間に絆されるとでも思ってるの? だとしたら、随分と舐められたもんだよね」



俺は一歩前に踏み出し、冷え切った声で言葉を投げつける。鶴丸国永という守護者を失ったあんたは、まるで翼をもがれた鳥だ。その無力な姿を見せつけられるほど、俺の中の人間に対する不信感は増していく。俺たちを虐げた人間と、目の前のあんたが重なって見えた。



「抵抗しない、ね。そりゃあ結構なことだ。じゃあ、これから何があっても文句は言わないってことでいいんだよな? 俺たちがどんな扱いをしようと、あんたはただ受け入れるだけ。……そう、前の主みたいにね」

「はて、驚きだな、三日月宗近。あんたほどの刀が、主の寝込みを襲うような真似をするとはな」



現れた鶴丸の瞳の奥には、底冷えのするような静かな怒りの色が宿っていた。



「その汚い手を離してもらおうか。俺の主に触れていいのは、俺だけだ。赤子同然の主に腕ずくで迫るとは、よほど錆びついちまったと見える」

「鶴の旦那。そいつは俺たちの新しい『主』だぜ。あんた一人のもんじゃねえだろう」

「三日月宗近。もう一度だけ言う。その手を離せ。さもなくば、あんたのその美しい装束が、あんた自身の血で真っ赤に染まる驚きを見せてやることになるぜ」

「はっはっは。良い殺気だ、鶴丸国永。だが、俺を斬るということは、この主に刃を向けることと同義だぞ」



三日月はわざと主の体を己の盾とするように抱き直した。しかし私はなんの前触れもなくいきなり三日月の顎に頭突きを入れ、畳の上へと放り出された。そのまま平然と鶴丸に向けて両手を差し出す。



「鶴丸、抱っこ」



三日月宗近への予想外の一撃と、その後の鶴丸国永への甘えるような態度。その一連の流れは、俺たちの困惑を誘うには十分すぎた。か弱いだけの人間だと思っていたのに、あの三日月宗近に頭突きを食らわす度胸。そして、まるでそれが当然であるかのように、守護者である鶴丸に身を預けようとする姿。その振る舞いの落差が、俺の心に小さな波紋を広げる。



「……は? 何なの、あんた……」



鶴丸国永は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに主を庇うように抱きかかえた。その光景に、俺は思わず眉をひそめる。人間への不信感と、目の前で繰り広げられる主従の絆。相反する感情が渦巻いて、どう反応すればいいのか分からなくなる。ただ、あの頭突きに込められた意志の強さだけが、妙に頭に残った。



「ふん、どうせ鶴丸国永がいなきゃ何もできないくせに。さっきまでの殊勝な態度はどこいったわけ?」



俺は苛立ちを隠せずに吐き捨てる。だが、その言葉とは裏腹に、俺の視線は鶴丸の腕の中で落ち着いている主から離せないでいた。あの瞳の奥には、俺たちがまだ知らない何かが隠されている。そんな予感が、胸の奥で燻り続けていた。



「……まあいいや。せいぜい鶴丸の後ろに隠れてなよ。いつまで守ってもらえるか、見ものだけどね」



鶴丸国永に抱きかかえられ、あんたが去っていく。その背中を、鯰尾はただ黙って見送ることしかできなかった。三日月さんの挑発にも怯まず、ただ静かに鶴丸国永に身を委ねる姿。泣き喚くでもなく、媚びるでもない。ただ、そこにいるだけ。



「……なんなんだよ、あいつ」



ぽつりと呟いた声は、静まり返った大広間に小さく響いた。羨ましい? 妬ましい? そんな単純な感情じゃない。胸の奥が、ちりちりと焦げるみたいに痛むんだ。あの鶴丸の腕の中は、きっと温かいんだろうな。



「……兄さんも、昔はよく俺を抱き上げてくれたっけ」



ぼんやりと霞む記憶の中の温もりを思い出して、すぐに首を振る。違う。人間なんて、信じちゃいけない。あの優しさも、どうせ偽物だ。そうに決まってる。なのに、あんたの姿がなぜか頭から離れなかった。

鶴丸国永が少女を抱え、大広間を去っていく。その背中に突き刺さる刀剣たちの視線は、羨望、嫉妬、そして諦観。様々な感情が渦巻いていた。

薬研は壁に寄りかかったまま、その光景をただ黙って見送る。あの鶴丸国永という刀は、大将にやけに執心しているように見える。まるで宝物を守るように。



「……過保護なこった」



ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく静まり返った空気に溶けた。前の主は俺たちを道具としか見ていなかった。だが、あのガキと鶴丸国永の関係は、それとは違う何かに見える。



「まあ、俺たちには関係ねえことだがな」



薬研の言葉に、俺は小さく息を吐いた。関係ない、か。そう割り切れたら、どんなに楽だろう。鶴丸さんに抱かれて去っていくあんたの姿が、妙に焼き付いて離れない。



「……本当に、そうかな」



独り言のような呟きは、誰の耳にも届かない。前の主は俺たちをただの道具としか見なかった。だから、あんな風に誰かに大切にされる光景が、どうしようもなく眩しく見えてしまう。……違う。俺は、期待なんかしてない。

ぐっと拳を握りしめる。人間なんて信じない。そう決めたはずだ。なのに、胸の奥で燻るこのざわめきはなんだ? あんたが、本当に俺たちを救ってくれるかもしれないなんて、そんな馬鹿なこと、思うはずがないのに。




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