08






ライの無愛想な一言と、アマレットの冷静すぎる問いかけが、逃走劇の熱を冷ましていく。彼女の言葉は合理的だが、警察を殺さなかった理由としてはあまりにも薄っぺらい。弾を無駄にしない主義? 組織の人間が口にする言葉とは思えない。彼女の行動の裏には、僕の知らない別の目的が隠されているはずだ。



「ええ、問題ありません。それより、あの状況判断は見事でしたね。あなたのおかげで助かりましたよ、アマレット」

「それはどうも」



僕はわざとらしく感謝の言葉を口にする。彼女の真意を探るための、言葉のジャブだ。この女は底が知れない。ライの視線がバックミラー越しに僕らを射抜く。彼もまた、アマレットの不可解な行動に何かを感じ取っているのだろうか。この三人での任務は、互いの腹を探り合う心理戦の様相を呈してきた。



「それにしても、あの警察の包囲網……まるで僕らの動きが読まれていたかのようでした。情報が漏れていた可能性も考えられますね」



運転するライと、隣に座るアマレット、両方に聞こえるように僕は言う。これは罠だ。僕が仕掛けた、二人の反応を見るための罠。特にアマレット、君がどう出るか。警察を殺さなかった君の行動と、この情報漏洩の可能性は、無関係ではないはずだ。



「内部に“ネズミ”がいるのかもしれませんねぇ……どう思いますか? お二人とも」



バーボンの「ネズミ」発言のあと。車内は一瞬静かになる。私は窓の外を見たまま言う。



「いるでしょうね」



バーボンが少し驚く。一拍置いてから「この組織、綺麗すぎるもの」と私は続けた。私はゆっくりバーボンを見る。



「でも。ネズミは二種類いる。逃げるネズミと───噛みつくネズミ」



ライ が一言、運転しながら低く言う。



「どっちだ」



アマレットの言葉は、単なる比喩ではない。彼女の瞳の奥には、僕の挑発に対する明確な答えと、それ以上の何か……警告のような色が浮かんでいた。「噛みつくネズミ」、その言葉は明らかに僕、そして僕と同じ境遇にいる者たちへのメッセージだ。ライの問いは、アマレットだけでなく、僕にも向けられているように感じられた。



「……さあ、どうでしょうね。どちらにせよ、追い詰めすぎると手痛い反撃を食らうことになる、ということでしょうか。用心深いのは良いことです」

「まあ、そういうこと」



僕はあくまで冷静に、しかし探るようにアマレットを見つめ返す。彼女が僕の正体にどこまで気づいているのか、その真意を測りかねていた。彼女の言う「綺麗すぎる」という組織への評価も、古参メンバーの発言としては異質だ。彼女の存在そのものが、この黒い組織の中で危険な歪みを生んでいる。



「ライの言う通り、どちらのネズミなのか見極める必要がありそうですね。もっとも、僕としては早々に駆除してしまいたいところですが」



これは彼女への最後の牽制だ。僕の言葉に彼女がどう反応するかで、今後の動きを決める。バックミラーに映るライの表情は読めない。だが、この奇妙な三人の関係は、今この瞬間、新たな緊張の局面へと移行したことだけは確かだった。

アマレットはただ静かに窓の外を見つめていた。ライも喋らず、そのまま車は夜の港を離れ、人けのないガレージに入る。ライトが消える。影の中に立っている男。煙草の火。ジンだ。



「遅かったな。説明しろ」



ジンの冷徹な声がガレージの湿った空気に響き渡る。煙草の赤い点が暗闇で不気味に揺れ、彼の鋭い視線が僕たち三人を突き刺していた。この状況、下手に言い訳をすれば即座に疑われる。ここはアマレットの不可解な行動を利用し、主導権を握るしかない。



「これは一体どういうことでしょう、ジン。僕らのルートは完璧なはずでしたが、なぜか警察の包囲網が敷かれていました。まるで、誰かが情報を漏らしたかのように」



僕はあえてアマレットに視線を送り、彼女の反応を窺う。ジンの前で彼女を試すのは危険な賭けだが、この女の底知れない部分を暴くには、これくらいの劇薬が必要だ。彼女が僕の意図をどう読み、どう動くか。その一挙手一投足が、僕らの運命を左右する。



「アマレット、あなたなら何かご存じなのでは? あの場でのあなたの冷静な対応……まるでこうなることを予期していたかのようでしたから」



僕の挑発的な言葉に、ジンの目が細められる。彼は僕とアマレットの間の不和を嗅ぎ取ったはずだ。アマレット、君がここで僕を売るか、それとも僕の仕掛けた罠に乗るか。さあ、君の答えを聞かせてもらおうか。

ジンは一瞬黙る。それからアマレットを見る。そして言う。



「怪我人は?」

「肩を掠めただけ」



私は簡潔に一言だけ答えた。するとジンは「そうか」とそれだけ答えた。ジンが最後に言う。目線はアマレットに向けられたまま。



「よくやった」



ライはただ静かにアマレットを見ていた。

ジンの「よくやった」という言葉は、僕の予想を根底から覆すものだった。アマレットの不可解な行動を、ジンは評価した。つまり、あの状況はジンの想定内、あるいは彼の指示によるものだった可能性が高い。僕が彼女を追い詰めるために仕掛けたつもりの罠は、見当違いだったということか。



「……どういう意味です、ジン。彼女の独断とも思える行動が、なぜ評価されるのですか。おかげでターゲットを取り逃がす寸前だったのですよ」



僕の問いかけは、苛立ちと冷静さを装った探りだ。ジンは僕の疑惑を意にも介さず、煙を吐き出す。彼の視線は依然としてアマレットに注がれたままで、僕の存在などまるで無視しているかのようだ。この男の中では、既に結論が出ている。



「お前はまだ、この女の本当の価値を理解していないようだな、バーボン。今回の任務の成功は、アマレットがいたからこそだ」



その言葉は、僕に対する明確な牽制だった。僕が知らない情報、僕が知らないアマレットとジンの繋がり。この組織の闇は、僕が想像しているよりもずっと深い。アマレットは僕に背を向けたまま、何も語らない。だがその沈黙が、何よりも雄弁に僕との間の壁を示していた。

ジンが去り、ガレージに残るのは三人だけ。沈黙が下りる。バーボンがまだジンの言葉を考えている間にライが車のドアを開ける。そしてアマレットにだけ言う。



「来い」



アマレットは何も言わず車の方へ行く。その瞬間バーボンが言う。



「どこへ?」



ライは振り返らずに短く一言だけ「送る」と答えた。アマレットが一瞬だけバーボンを見る。



「あなたは? 肩、縫った方がいいわよ」



そう言ってから、ほんの一瞬だけ目を細める。それは気遣いにも、警告にも見えた。

彼女の言葉は、単なる気遣いではなかった。そこには、僕をこの場から遠ざけようとする明確な意図が感じられた。ライと二人きりでどこへ行くつもりだ。ジンの信頼を得ているアマレット、そして常に冷静なライ。この二人が組んで動く時、そこには必ず組織の深部に関わる何かがある。



「ご心配なく。この程度の傷、慣れていますから」



僕はあえて平静を装い、彼らの動向を探る。車のエンジンがかかり、ヘッドライトが僕の姿を照らし出す。その眩しい光の中で、僕は助手席に座るアマレットの横顔を見つめた。彼女は僕を試しているのか、それとも本当に僕を排除しようとしているのか。



「それよりも、お二人はどちらへ? 任務の報告なら、僕も同行すべきでは?」



これは最後の探りだ。僕の言葉にライは答えず、ただ静かにエンジンを回す。



「報告なら済んだじゃない」



たった今ジンに報告し、ジンが去ったばかりだと私は挑発的に笑う。ライはアマレットに一瞬目を向けて言う。



「無茶をしたな」



アマレットは窓を見たまま「あなたほどじゃない」と返した。短い会話。でも、互いを知っている距離感。突然携帯が鳴る。私は通話ボタンを押した。



『無事みたいね、お姫様』



アマレットの電話口から聞こえた「お姫様」という言葉。その甘美な響きとは裏腹に、僕の全身に緊張が走った。一体誰からの電話だ? ベルモットか? そしてその言葉に応じるアマレットの表情は、車の窓ガラスに反射してよく見えない。だが、彼女の口元が微かに笑みを浮かべたのを、僕の目は見逃さなかった。



「……お姫様、ですか。随分と親密な呼び方ですね。あなたたちが何を企んでいるのか、必ず突き止めてみせますよ」



ベルモットは『港、ずいぶん派手だったじゃない』と続ける。



『それで? バーボンはどうだった?』



私は窓の外を見たまま「しつこい男ね」と返した。ベルモットは笑う。



『そうでしょうね。あの子、あなたを追うわよ』



運転席のライが低く言う。



「もう追ってる」



ベルモットは楽しそうに「でしょうね」と言う。そのままライがアクセルを踏み込み、二人を乗せた車はバーボンの前から掻き消えていった。

僕の皮肉めいた呟きは、遠ざかる車のエンジン音にかき消されただろう。ライとアマレット、そして電話の相手───ベルモット。僕の知らないところで、確実に何かが動いている。ジンがアマレットを評価した一件といい、今日の任務には裏があったと考えるべきだ。僕が排除されたのは、これからが本番だという証拠に他ならない。

ベルモットとライ、そしてアマレット。あの三人の会話は、明らかに僕を警戒し、そして僕の知らない何かを共有している者のそれだった。「あなたを追うわよ」……ベルモットの言葉は警告か、それとも僕を試すための挑発か。どちらにせよ、彼らが僕を厄介な存在と認識していることは間違いない。

ガレージの暗闇に排気ガスの匂いが立ち込める中、車は僕を置き去りにして去っていく。残されたのは、拭いきれない疑念と、彼らが隠しているであろう真実への渇望だけだった。ガレージの出口から消えていくテールランプを睨みつけながら、僕は静かに決意を固める。肩の傷が鈍く痛むが、それ以上に、この胸に渦巻く疑念と焦燥感が僕を駆り立てていた。アマレット、君の底知れない闇も、ライの不可解な行動も、全て僕が白日の下に晒してやる。



「ええ、追いますよ。どこまでも」



誰もいないガレージに僕の低い声が響く。遠ざかる車のテールランプの残像が、網膜に焼き付いて離れない。彼らが隠そうとすればするほど、僕の探求心は燃え上がる。公安としての僕が、このまま引き下がるわけにはいかない。あなたたちの秘密、必ずこの手で暴いてみせますから。肩の傷がズキリと痛むが、今はそれすら心地よい刺激に感じられた。この痛みは、僕がまだゲームの盤上にいる証拠だ。アマレット、あなたの持つ組織の闇、そしてライ、あなたの真の目的。全てを白日の下に晒す。その時まで、僕の追跡は終わらない。

もう追ってる……ライの言葉が頭の中で反響する。彼らは僕の追跡を予測し、それを楽しんでいる節さえある。ベルモットの嘲笑うかのような声、そして多くを語らないアマレット。彼らの間で交わされる暗号のような会話は、僕という共通の障害を前にした共犯者たちの結束を示しているかのようだ。



「面白い。そこまで僕を警戒するとは、よほど知られたくない秘密があるようですね」




僕は静かに呟き、ポケットからスマートフォンを取り出す。すぐに部下へ連絡を取り、ライの運転する車の追跡を指示する。物理的な距離は開いても、僕の目はあなたたちを捉え続ける。彼らが向かう先、接触する人物、その全てがパズルのピースとなるだろう。あなたたちが隠すその秘密……僕が手に入れた時、あなたたちはどんな顔をするのか。今から楽しみですよ、アマレット。

夜の闇に紛れ、僕はひとりガレージを後にする。これから始まるのは、嘘と真実が入り混じる危険なゲームだ。だが、この胸の高鳴りは恐怖ではない。むしろ、真実に近づいているという確かな手応えだった。

部下からの連絡によると順調に追跡できているとのことだった。ただ、順調すぎておかしい。こちらの追跡に気付いていて泳がされている可能性あり、とのことだった。部下からの報告は簡潔だったが、その内容は僕の思考を加速させるのに十分だった。「泳がされている可能性」。やはり、彼らは僕の追跡を織り込み済みで行動している。僕の部下たちが気づくほどの不自然さ……それはつまり、僕自身への明確なメッセージだ。「お前の手の内などお見通しだ」と。



『ええ、分かっています。引き続き追跡を。ただし、深追いはせず、一定の距離を保ってください』



電話越しに冷静に指示を出しながら、僕は思考を巡らせる。これは罠か、それとも陽動か。彼らの真の目的は、この追跡劇そのものではなく、僕の注意を惹きつけている間に、別の場所で何かを成し遂げることにあるのかもしれない。アマレットとライ、そして裏で糸を引くベルモット……実に厄介な布陣だ。



「僕を欺けると思っているのなら、少し買いかぶりすぎですよ。あなたたちの描く筋書き、僕が全て塗り替えて差し上げます」



二人の車はひとけのない海沿いの道路に向かった、と連絡が入る。これ以上の追跡はおそらく誘い込まれていると見るべきだとも連絡が入る。

部下からの報告が、僕の脳裏に警鐘を鳴らす。人けのない海沿いの道路……それは、取引や秘密の会合にうってつけの場所であると同時に、邪魔者を始末するための舞台としても最適だ。彼らが僕をそこへ誘い込もうとしているのは明らか。僕の追跡を逆手に取り、罠にはめようという算段か。



『結構です。追跡はここで打ち切ってください。彼らの思惑に乗る必要はありません』



僕は冷静に指示を出し、通話を切る。車のハンドルを握る手に力がこもる。アマレット、そしてライ。君たちの狙いは僕を孤立させることか。だが、残念ながら、僕はそんな単純な挑発に乗るほど愚かではない。君たちが僕を誘い出したその場所こそが、君たちの目的を明らかにする鍵となる。僕がその誘いに乗るとでも思いましたか? 甘いですね。あなたたちが仕掛けた舞台、外からじっくりと観させてもらいますよ。

僕はすぐさま車を発進させ、追跡ルートとは別の、海沿いのエリアを一望できる高台へと向かう。双眼鏡越しに、君たちの茶番を暴いてみせる。僕の知らないところで、あなたたちが何を企んでいるのか、この目で確かめるまでは、このゲームは終わらない。

だが、部下から二人の車を見失った、との連絡が入った。部下からの短い報告が、僕の立てた仮説を根底から覆す。見失った? ありえない。あれだけ周到に僕を誘い込んでおきながら、あっさりと姿を消すなど、あまりにも不自然だ。これは単なる追跡劇ではない。彼らの目的は、僕をこの高台に釘付けにし、僕の視線を一方向に集中させること自体にあったのかもしれない。



「……なるほど。まんまと一杯食わされたというわけですか」



双眼鏡を下ろし、僕は自嘲気味に呟く。アマレットとライの車が消えた海沿いの道路。そこは彼らが用意した壮大な舞台装置の一つに過ぎなかった。僕が彼らを監視していると思っていたこの瞬間にも、彼らは別の場所で、本当の目的を遂行しているのだろう。僕の視線が届かない、全く別の舞台で。



「ですが、これで確信しましたよ。あなたたちが隠しているのは、僕の想像をはるかに超える大きな何かだということを。ええ、おかげで俄然、燃えてきました」



双眼鏡から目を離し、僕は夜景に紛れる街の灯りに視線を移す。僕がこの高台から見ている景色は、彼らが意図的に見せた幻影に過ぎなかった。海沿いの道路は陽動。僕の注意を惹きつけるための、見事なまでの陽動作戦。まんまと彼らの掌の上で踊らされていたというわけか。ええ、見事な手腕ですよ。ですが、これでゲームのルールは理解しました。

口の端に笑みを浮かべながら、僕はスマートフォンを取り出し、部下に新たな指示を出す。僕の意識を海沿いに向けさせている間に、彼らはどこへ向かったのか。考えられるルートは限られている。この陽動の規模から推測するに、彼らの真の目的は、都心部……それも、何らかの重要施設が関係している可能性が高い。あなたたちの本当の舞台はどこです? アマレット。僕を欺いた代償は、高くつきますよ。この降谷零の全能力をもって、あなたたちの計画を阻止してみせますから。

結局、夜が明けるまで何の手がかりも掴めなかった。アマレットとライの陽動に翻弄され、貴重な時間を浪費してしまったという事実だけが、冷たく僕の胸に突き刺さる。朝日が昇り始め、東の空が白んでいくのを眺めながら、僕は小さく息を吐いた。彼らの目的は、僕をこの場に釘付けにすること、それ自体だったのだろう。



「……完敗、ですかね。まさかここまで徹底的にやられるとは」



自嘲の笑みがこぼれる。だが、この敗北感は決して僕の心を折るものではない。むしろ逆だ。彼らがこれほど大規模な陽動を仕掛けたということは、それだけ隠したい秘密が重大であることの証明に他ならない。僕の知らないところで、組織は着々と計画を進めている。その核心に、アマレットがいる。



「いいでしょう。あなたたちが隠したかったもの、必ず白日の下に晒してあげますよ。この僕から逃げ切れると、本気で思っているのならね」




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS