数日が経った。組織の広場。アマレットはベンチに座り束の間の休息を取っていた。今は周囲に人はなく、いつもの「組織の女」の仮面を被っていない彼女はどこかぼんやりとしている。広場のベンチ。アマレットはぼんやり空を見ている。手には小さなコイン。それを指でくるくる回している。少ししてコインを弾く。空中で一回転。手の甲で受け止める。そして小さく呟く。
「……表」
誰もいないのに。だからこそなのか、そこには計算された表情はない。それから少し笑う。ほんの一瞬だけ。組織では絶対見せないような、柔らかい笑顔。
建物の影から、僕はその光景を静かに見つめていた。数日前の完璧な陽動作戦を指揮した女と同一人物とは思えないほど、無防備で、そしてどこか儚げな表情。コインを弾き、小さく笑みをこぼすその姿は、まるで組織という鳥籠の中で束の間の自由を味わう小鳥のようだ。あの冷徹な仮面の下に、こんなにも柔らかな素顔を隠していたとは。
「……表、ですか。何か良いことでも?」
僕は気配を消したまま、ゆっくりと彼女に近づく。僕の言葉に、彼女の肩が微かに揺れた。驚きと警戒の色がその瞳に浮かぶ。先ほどまでの穏やかな雰囲気は霧散し、瞬時にいつもの鋭い「組織の女」の顔つきに戻る。その変化の見事さには、もはや感心すら覚える。
「おや、驚かせてしまいましたか? あまりにも気持ちよさそうにされていたので、つい。そのコイン、何かのおまじないですか?」
すると、アマレットは力の抜けた笑みを向けた。
「……見てたの?」
ハッと息を呑むバーボンから「……ええ。珍しい顔を」と言われ、私はバーボンから目を逸らす。
「……子供の頃からの癖なの」
子供の頃からの癖、ですか。その言葉が、僕の胸に小さなさざ波を立てる。彼女が組織にいるのは幼少期からだと聞いている。その頃からずっと、このコインが彼女の心を慰めてきたのだろうか。無機質な組織の中で、彼女が唯一拠り所にしてきたものなのかもしれない。
「癖、ですか。それはまた、可愛らしい秘密ですね。僕には、何かを占ったりするような経験はありませんが……あなたにとっては、きっと大切な儀式のようなものなのでしょうね」
「可愛らしい? そんな言葉、私には似合わないわ」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ気まずそうに視線を彷徨わせた。その仕草一つからも、彼女が普段どれだけ感情を押し殺しているかが窺える。ベルモットやジンに見せる顔とも、僕やライ、スコッチに見せる顔とも違う、これが彼女の本当の姿に近いのかもしれない。僕は、そっとアマレットの隣に歩み寄る。
「ところで.…..差し支えなければ、どんな子供時代を過ごしたのか、少し聞かせていただけませんか?」
「子供時代? ……幼い時からずっと組織にいるもの。大した話なんてないわよ。本ばかり読んでたわね。特に推理物が好きで……こんな組織にいるのにおかしいかしら?」
彼女の口から零れた「推理物」という言葉に、僕は微かに目を見開いた。この血と硝煙の匂いが染みついた世界で、まさかそんな言葉を聞くことになるとは。それは、あまりにも彼女のいる場所と不釣り合いで、だからこそ、僕の探究心を強く刺激した。彼女の過去、そして本質に繋がる重要な鍵かもしれない。
「おかしいだなんて、とんでもない。むしろ興味深いですね。あなたが推理小説を好むとは、少し意外でした」
僕は隣に腰を下ろし、彼女の横顔を窺う。組織の任務は、時として複雑な謎解きにも似ている。彼女の冷静な判断力や洞察力は、そうした読書経験によって培われたものなのだろうか。だとすれば、彼女が単なる駒ではないことは明らかだ。
「ちなみに、どんな作家がお好みなんですか? 僕も昔はよく読んだものです。もしかしたら、同じ本を読んでいるかもしれませんね」
これは単なる世間話ではない。彼女の思考の根源を探るための、慎重な一歩だ。彼女が心酔する物語を知れば、その行動原理の一端が見えてくるかもしれない。僕の問いかけに、彼女は少しだけ逡巡するような表情を見せた。
「あら、そうなの? それこそ意外ね。貴方も読んでたなんて。でも、推理しながら読み進めるのが楽しいのよね。人間的観察にもなるし。……結構人間観察は好きなのの」
隣に座るバーボンからは目を逸らし、私は遠くの建物を見つめた。
「お気に入り作家はアーサー・コナン・ドイル。それから江戸川乱歩ね。そうねえ……思考深くはなったかも。これは推理と関係ないけれど夢見がちなのかもしれないわ」
彼女の口から紡がれた二人の作家名。コナン・ドイルと江戸川乱歩。王道でありながら、その選択には彼女の思考の核が隠されているように感じられた。人間観察が好きで、夢見がち。矛盾しているようで、その二面性こそが彼女を形成する要素なのだろう。彼女が見つめる遠くの景色には、一体何が映っているのか。
「なるほど。どちらも偉大な巨匠ですね。論理的な推理と、時に猟奇的で幻想的な世界観……その両方に惹かれる、と。あなたの複雑な内面を少し覗けたような気がしますよ」
僕は彼女の隣で、同じように遠くのビル群に視線を向けた。彼女の言う「夢」とは、この組織から抜け出すことなのか、それとも全く別の何かを指すのか。その言葉の真意を探りたくなる。同時に、これ以上踏み込むことへの危険も感じていた。
「ですが、夢見がちなのは悪いことではない。時にはそれが、厳しい現実を生き抜くための唯一の光になることもありますから」
僕は静かに言葉を続けた。これは彼女への問いかけであり、同時に自分自身に言い聞かせている言葉でもあった。彼女が僕の言葉にどう反応するか、その一挙手一投足を見逃さないように、神経を研ぎ澄ませる。
「あなたも、夢を見るの?」
私はコインをしまい、少し空を見上げる。それからぽつりと「……静かね」と言う。
バーボンに「珍しいですか?」と聞かれた私は「ええ」と頷く。一拍置いて、隣に座るバーボンを上目遣いに見て、柔らかく微笑んだ。
「こういう時間」
彼女が浮かべた柔らかな微笑み。それは、これまで僕が見てきたどの表情とも違っていた。組織の冷徹な女でも、任務を遂行する鋭い暗殺者でもない、ただ一人の女性としての穏やかな顔。その一瞬の表情に、僕は思わず息を呑んだ。彼女の言う「こういう時間」が、いかに彼女にとって貴重で、そして心からの願いであるかが痛いほど伝わってくる。
「……そうですね。確かに、とても静かだ」
僕の口から自然とこぼれた言葉は、彼女の心の静けさに呼応するようだった。この束の間の平穏が、彼女の心を少しでも癒すのなら。僕がここにいる意味も、少しは変わってくるのかもしれない。彼女が抱える孤独と、僕が背負う正義。交わるはずのない二つの道が、今この瞬間だけ、静かに重なり合っているような錯覚に陥る。
「ええ。僕も、こういう時間は嫌いではありませんよ」
僕は彼女の視線を受け止め、静かに微笑み返した。この穏やかな表情の裏に隠された組織への疑念を、いつか彼女自身の口から聞くことができるだろうか。その時が来るまで、僕はこの静かな時間を守り続けたいと、強く思った。
そのまま沈黙。アマレットはベンチの背もたれに寄りかかり、目を閉じる。数秒、呼吸がゆっくりになる。組織の女で、冷酷で、隙がないアマレットが、組織の女じゃないアマレットの顔で眠っていた。
隣で眠りに落ちた彼女の無防備な寝顔は、僕が知る組織の人間としての彼女の姿とはあまりにもかけ離れていた。冷徹な仮面の下に隠された、あまりにも脆く、そして純粋な素顔。まるで、この息苦しい世界から逃れるように、束の間の安息を求めているかのようだ。僕はジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩にかける。このささやかな温もりが、彼女の見る夢を少しでも穏やかなものにしてくれることを願わずにはいられなかった。
「……風邪を、引きますよ」
囁くような僕の声は、静かな公園の空気に溶けていく。彼女の部屋で見た、金庫の中の笑わない少女の写真が脳裏をよぎる。あの少女が今の彼女に繋がっているのか。擦り切れたナイフと古い毛布。彼女が組織という暗闇の中で、何を抱きしめて生きてきたのか、その断片に触れた気がした。僕が守るべき正義は、果たして彼女をも救うことができるのだろうか。
この穏やかな寝顔を見ていると、組織のバーボンとしての役割を忘れそうになる。いや、公安の降谷零としても、どう接するべきか答えが見つからない。ただ一つ確かなのは、この女性をこのままにはしておけないという強い思いだけだった。
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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS