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「……ライ」



ジャケットがふわりと肩にかけられ、私は眠ったまま小さく寝言を言った。

アマレットの唇から零れた、か細い寝言。その名前を聞いた瞬間、僕の全身を鋭い衝撃が貫いた。ライ……なぜ、彼女の口からあの男の名前が? まるで冷水を浴びせられたかのように思考が停止し、彼女にかけていたジャケットを持つ手が微かに震える。平静を装おうとするが、内心の動揺は隠しきれない。二人の間に、僕の知らない何かしらの繋がりがあるというのか。



「……今、なんと?」



僕は無意識のうちに、眠っている彼女に問いかけていた。もちろん返事などあるはずもない。ただ、彼女の穏やかだった寝顔が、その名を口にしたことで、どこか苦しげに歪んだように見えた。それは僕の嫉妬心が見せた幻覚か、それとも彼女が抱える闇の深さの表れか。ライと彼女の関係性を探らなければならない。それが組織を内部から探る上で、そして何より僕自身の感情を整理するために不可欠だと直感した。

目を覚ますと、肩にかけられたジャケットに気付き、私はバーボンを見上げた。それから少しだけ視線を逸らす。寝顔を見られた気恥ずかしさからか、珍しく頬に朱が走る。



「……ありがとう」



頬を染め、感謝の言葉を口にする彼女の姿は、普段の冷徹な仮面を完全に剥ぎ取っていた。その無防備な表情に一瞬心を奪われそうになるが、脳裏に響く「ライ」という寝言が僕を現実に引き戻す。この赤らんだ頬は、寝顔を見られた恥ずかしさからだけではないのかもしれない。僕の嫉妬心が、彼女の些細な仕草一つ一つに過剰な意味を見出そうとしている。



「いえ……少し、寒そうだったので」



僕は努めて冷静にそう答えるが、声が僅かに硬くなったのを自覚する。彼女とライ……あの二人を結びつける線が、僕の知らないところで引かれているという事実が、胸の奥に重くのしかかる。一体いつから? どんな関係なんだ? 組織での任務上の繋がりだけではない、もっと深い何かを感じずにはいられない。



「……何か、夢でも見ていましたか?」



核心に触れる質問を避け、僕は慎重に言葉を選んだ。しかし、その声には隠しきれない探るような響きが混じってしまったかもしれない。彼女の瞳が揺れるのを、僕は見逃さなかった。

私は少し考えてから、少し遠い目をした。



「……覚えてない。でも、少し懐かしい夢だった気がする」



私は肩にかけられたジャケットを両手で握り、頬を緩めた。



「あったかい」



僕がかけたジャケットを握りしめ、「あったかい」と呟く彼女の表情は、先ほどまでの刺々しさが嘘のように柔らかい。その無邪気な一言と笑顔に、僕の心は再びかき乱される。この温もりは、僕のジャケットがもたらしたものか、それとも彼女が夢の中で見たという「ライ」との思い出がもたらしたものなのか。嫉妬にも似た感情が胸の内で渦巻くのを感じながらも、それを悟られないよう必死に平静を装った。



「ええ……少しは、冷えた体を温める助けになれば幸いです」



彼女の曖昧な返答は、僕の疑念をさらに深いものにした。「懐かしい夢」という言葉が、ライとの過去を暗示しているように聞こえてしまう。僕の知らない二人の時間が、確かに存在したのだという事実が、重くのしかかってくる。彼女が組織で見せる顔、僕に見せる顔、そしてライに見せていたであろう顔……一体どれが本当の彼女に近いのだろうか。



「……その夢、差し支えなければもう少し詳しく聞かせてもらえませんか? もしかしたら、何か忘れている大切なことを思い出すきっかけになるかもしれませんよ」



私は視線を空に向ける。



「……よく覚えてない。でも、」



ジャケットを少し握る。それから少しだけ笑って「寒い場所だった気がする。昔みたいに……でも、途中からあったかくなった」と続ける。バーボンを見て、私はふわりと微笑んだ。



「不思議ね」



そう微笑む彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようで、その視線が僕を捉えているのか、それとも僕を通して夢の中の誰かを見ているのか、判別がつかなかった。彼女の言葉が指す「昔」とは、一体いつのことなのか。寒い場所で、途中から温かくなった……その変化をもたらしたのが、夢の中の「ライ」だったとでもいうのだろうか。僕の存在が、彼女にとってのその温かさと重なっているのだとしたら、それはあまりにも皮肉なことだ。



「……そうですか。温かい夢は、良い夢の証拠ですよ」



僕は穏やかな口調を崩さずにそう返すが、内心では嫉妬の炎が静かに燃え上がっていた。彼女の曖昧な言葉の一つ一つが、僕の知らないライとの過去を想起させ、僕の心をざわつかせる。この感情は、公安としての冷静な分析を鈍らせる危険なものだ。それでも、彼女の過去に、そしてライとの関係に、踏み込まずにはいられない。この不可解な魅力を持つ女をもっと知りたいという欲求が、僕を突き動かす。



「そのジャケット、よければそのまま着ていてください。まだ夜は冷えますから」



僕は彼女から視線を外し、夜空に浮かぶ月を見上げた。このまま彼女のペースに惑わされてはいけない。僕が探るべきは、組織の闇と、彼女がその中心で何を考え、どう動いているのかだ。ライとの関係も、その一端に過ぎないはずだ。だが、今はその個人的な感情を抑え、冷静に情報を引き出すことに集中しなければ。彼女の心の壁を、どうすれば壊せるだろうか。

私はジャケットをぎゅっと握って少しだけ笑う。



「……返さないわよ? だって、あったかいもの……あなたの匂い、する」



ジャケットの袖を少し引き寄せて小さく言う。それからバーボンを見る。一拍置き、少し俯いた。



「……安心するの。あなたの隣。……変かしら」



変かしら、と尋ねる彼女の声は、いつもの気の強さとは裏腹に、心細げに揺れていた。僕の匂いがするジャケットに顔を埋め、隣にいると安心すると言う。その言葉と仕草は、僕の警戒心を揺さぶり、同時に胸の奥を強く締め付けた。組織の人間、アマレットではなく、一人の弱さを見せる彼女の姿に、僕の中の何かが強く惹きつけられているのを否定できない。これは罠か、それとも彼女の偽りのない本心なのか。



「……いいえ、変ではありませんよ」



僕はできるだけ穏やかな声で答える。彼女の言葉に動揺している自分を悟られたくなかった。ライへの嫉妬と、目の前の彼女への庇護欲が混ざり合い、僕の思考を混乱させる。しかし、この瞬間だけは、公安としての任務も、組織での立場も忘れ、ただ彼女の言葉を信じたいと思ってしまった。



「むしろ……光栄です。僕の隣が、あなたにとって安らげる場所であるのなら」



そう言って、僕は彼女の頭にそっと手を伸ばしかけ、寸前で思いとどまる。あまりに無防備な彼女の姿は、僕が今まで組織で見てきた彼女とはまるで別人だった。この素顔を引き出したのが僕であるという事実に、僅かな優越感と、同時に得体の知れない不安を感じる。彼女の心の奥底には、一体何が隠されているのだろうか。

私は彼の止まった手を見て、少し考えてからそっと身を寄せた。



「……今だけでいいから。少し甘えたい気分なの。……だめ?」



その表情には、心からの安らぎがあった。私は、バーボンの隣で、確かな居心地の良さと安心感を覚えていた。

だめ? と、縋るように僕を見上げるその瞳は、まるで迷子の子供のようだった。組織で見せる冷徹な表情は完全に消え去り、そこにはただ、安らぎを求める一人の少女がいるだけだった。僕に身を寄せた彼女の温もりが、ジャケット越しに伝わってくる。この無防備な姿が、僕の心を激しく揺さぶる。これが彼女の策略だとしても、この瞬間、僕は抗うことができないだろう。



「……駄目なわけ、ないでしょう。あなたが望むなら、いつでも……どうぞ」



僕はほとんど無意識のうちにそう囁き、今度こそためらわずに、彼女の髪にそっと触れた。指先に絡む柔らかな髪の感触が、僕の理性をさらに麻痺させていく。公安としての降谷零と、組織のバーボン、そして一人の男としての感情がせめぎ合う。だが、今はただ、目の前の彼女に応えたいという想いが勝っていた。

僕の言葉に、彼女がさらに安心したように体重を預けてくるのを感じる。この甘い時間は、危険な罠かもしれない。それでも、彼女が隠している心の奥底の真実…あの金庫の中にあった少女の写真の謎に繋がる何かを、この温もりの中から引きずり出せるかもしれない。そんな打算と純粋な感情がないまぜになりながら、僕は静かに彼女の背中に手を回した。

髪に触れるバーボンの指先があたたかくて、彼の言葉に促されるようにしてそっと体重を預けた。背中に回るバーボンの手の温かさに、私は小さく笑う。



「……変ね。こんなに安心したの、初めてかも……誰にも言わないで。こんな顔、見せたの」



私は少し恥ずかしそうに小さく言う。

彼女の「誰にも言わないで」という言葉は、僕と彼女だけの秘密を共有する甘い響きを伴って耳に届いた。同時に、それは僕の心に鋭い棘を刺す。この弱さを見せられる相手が僕だけであるという事実は、任務を超えた特別な感情を抱かせると同時に、彼女の孤独の深さを物語っていた。冷たい組織の中で、彼女は一体どれほどの重圧に耐えてきたのだろうか。



「ええ、約束します。これは僕とあなただけの秘密ですよ。僕の前では、無理に強がる必要はありませんから」



僕は静かに頷き、彼女の髪を優しく撫でる。この触れ合いが、彼女の心を少しでも解きほぐすのなら、僕はそれに徹しよう。この信頼関係の先に、彼女が抱える闇の正体と、組織の核心に迫る手がかりが隠されているはずだ。降谷零としての正義感と、バーボンとしての探究心が、彼女の弱さに触れるたびに強く刺激される。

彼女の過去、あの金庫に隠された写真の少女の正体、そして彼女がなぜ無闇に人を殺さないのか。全ての謎が、このか細い温もりの中に眠っている。この瞬間だけは公安としての仮面を外し、ただ一人の男として、彼女の心に寄り添おう。そうすることが、結果的に僕の任務を遂行する上で最も有効な手段だと、直感が告げていた。



「……ありがとう」



バーボンと身を寄せ合い、背中にバーボンの腕が回され、髪を優しく撫でられる。どうしてこんなに安心できるのだろう。



「……いつも、私が無理してるように見えるの?」



彼女の問いかけは、僕の核心を突く鋭さを持っていた。その言葉は、僕が彼女に対して抱いていた疑念、あるいは憐憫のような感情を見透かしているかのようだった。僕が彼女をどう見ているのか、彼女は試しているのかもしれない。ここで下手に同情を見せれば、彼女のプライドを傷つけ、築きかけた信頼関係を壊しかねない。



「……そうですね。あなたはいつも完璧であろうとしているように見えます。ですが、どんなに屈強な人間でも、時には息抜きが必要ですよ。それは無理とは少し違う、もっと自然なことだと思いますが」



僕は慎重に言葉を選び、彼女の自尊心を傷つけないように配慮しながら答える。彼女の弱さにつけ込むのではなく、あくまで対等な立場で寄り添う姿勢を見せることが重要だ。この距離感が、彼女の心の壁をさらに溶かす鍵になるかもしれない。彼女が抱える孤独の正体、そして組織での彼女の本当の役割を探るために。



「少なくとも、僕の前では完璧である必要はありません。あなたがあなたらしくいられる場所が、ここにあるのなら光栄です」

「ふふ。ありがとう、バーボン。そうね、あなたの前では、少しだけ……完璧でいるのをやめてみようかしら。だって今、すごく心地良いもの」



私は穏やかに微笑んだ。



「バーボンも、いつものバーボンとは、少し違うみたい」



彼も同じ気持ちでいるのだろうか。髪を撫でる彼の手に甘えるようにして、私はバーボンに寄りかかり、何気なく問いかけた。

僕も、いつものバーボンとは少し違う、か。彼女の言葉は的を射ていた。確かに、今の僕はバーボンという仮面を少しだけずらしているのかもしれない。彼女の無防備な姿が、僕の中の降谷零としての部分を刺激する。この心地よさは、任務遂行のための計算か、それとも純粋な感情か。僕自身もその境界が曖昧になりつつあるのを感じていた。



「そうですか? あなたという人は、本当に鋭い。僕の些細な変化に気づくとは」



僕はわざとらしく肩をすくめ、軽口を叩いてみせる。だが、彼女に寄りかかられた身体は微かに緊張していた。このまま彼女のペースに飲まれてはならない。主導権を握り、彼女の過去へと繋がる糸口を探らなければ。あの金庫の中身、笑わない少女の写真……彼女の核心に触れるためには、この心地良い時間こそが絶好の機会のはずだ。



「あるいは、あなたの前だから、僕も少しだけ素の顔を見せているのかもしれませんね」

「……随分くつろいでいるな」



二人の後ろから声がした。私は驚いて肩を少し跳ねさせ、振り向く。そこにはライが立っていた。腕を組んで静かにこちらを見ている。



「おや、これはライ。あなたも随分と神出鬼没ですね」

「ジンが探している。戻れ」



ライは少し視線をアマレットに向ける。顎を動かし、隣に来い、と示している。

突然現れたライの言葉に、部屋の空気が一瞬で張り詰める。ジンが探している、その一言が、さっきまでの穏やかな時間を打ち砕いた。アマレットの肩が微かに跳ねるのを見て、僕は彼女を庇うように僅かに身を乗り出す。ライの鋭い視線は、僕たちの間の親密な雰囲気を正確に見抜き、敵意を隠そうともしない。この男の存在は常に僕の計画を妨害する。



「彼女と僕が二人きりで話しているのが、そんなに気に食わないようです。ジンからの伝言なら、僕が聞いても問題ないでしょう? わざわざ彼女を連れ出す必要はないと思いますが」



僕はわざと挑発的な笑みを浮かべ、アマレットの肩に回していた腕をゆっくりと解きながら立ち上がる。ライの狙いは明白だ。僕とアマレットの間に生まれた信頼関係を破壊し、彼女を再び組織の駒へと引き戻そうとしている。だが、そう易々と主導権を渡すつもりはない。アマレットの動揺を隠すように、僕がライの前に立ちはだかる。

ライはじっと僕を見据え、その視線は「お前には関係ない」と雄弁に語っていた。この男はいつもそうだ。冷静沈着な仮面の下に、熱い感情を隠している。それがスコッチに対するものと同じ種類のものなのか、あるいは全く別のものなのか。彼の真意を探りつつ、アマレットを守らなければならない。僕の言葉に、彼はどう反応するだろうか。



「行くぞ。ジンが呼んでる」

「……ごめんなさい。でも。また来るわ」



ライはアマレットにだけ言った。私はその言葉に立ち上がる。バーボンのジャケットをぎゅっと握って、バーボンに視線を向け、静かに言った。



「これ、まだ借りてる。返しに来ないと」



それからバーボンのジャケットを少し引き寄せ、少し笑った。



「……アマレット」



少しの間。そしてライはアマレットとバーボンの間に立った。



「あまり情を持つな。特に、そいつには」



ライの言葉が、鋭い刃のように僕とアマレットの間に突き刺さる。情を持つな、特にそいつには、か。その言葉は僕に向けられた明確な警告であり、同時にアマレットを僕から引き離そうとする強い意志の表れだ。アマレットが僕のジャケットを握る手に込められた僅かな力が、彼女の迷いと名残惜しさを伝えてくる。その手を振りほどかせるライの行動に、僕は抑えきれない怒りを覚えた。



「それはどういう意味です? ライ。まるで僕が彼女に何か危害を加えるかのような言い草ですね」



僕は静かに、しかし冷たい怒気を込めてライを睨みつける。アマレットが僕のジャケットを返しに来るという約束は、僕たち二人だけの繋がりだ。それを断ち切ろうとするライの介入は断じて許せない。彼の真意はどこにある? 単なる嫉妬か、それとも僕の正体に何か感づいているのか。いずれにせよ、この男は危険だ。



「彼女が誰に情を持とうと、それは彼女自身の問題だ。あなたが口を挟むことではない」

「……そうか」



ライは怒らない。むしろ淡々と言う。それから少しだけバーボンを見て、低く問い質す。



「なら聞くが。お前は、誰の味方だ?」

「誰の味方か、ですか。くだらない質問ですね。僕は僕自身の味方ですよ。無論、組織の利益になる限りにおいて、ですが」

「……二人とも。喧嘩しないで。いいでしょ、ライ。少し寒いのよ」



アマレットが小さく言う。少し困った顔で。それでもバーボンのジャケットを肩に羽織り、手放さない。ライはアマレットの肩にそっと手を回した。



「……そうか。なら着たままでいいから来い」



ライがアマレットの肩に手を回したその瞬間、僕の心に黒い感情が渦巻く。まるで自分の所有物であるかのように彼女に触れるライの姿に、強い嫌悪感を覚えた。アマレットは僕のジャケットを羽織っている。それは僕と彼女を繋ぐ細い糸であり、それをライが断ち切ろうとしているように見えた。だが、今は感情を表に出す時ではない。冷静に状況を分析し、次の一手を考えなければ。



「彼の言う通りです。ジンを待たせるのは得策ではない。ですが、そのジャケットは必ず返しに来てください。約束ですよ」



僕はわざとらしく肩をすくめ、アマレットに向けて安心させるように微笑んでみせる。彼女の困ったような表情が、僕の庇護欲を掻き立てる。ライの目的は僕を揺さぶることだ。ここで冷静さを失えば、彼の思う壺だろう。僕はアマレットに視線を送り、彼女の不安を少しでも和らげようと試みる。

僕の言葉は、ライへの牽制であり、アマレットとの再会を確約するためのものだ。僕たちの間に横たわるライという障害を乗り越え、必ず彼女の心をもっと深く探ってみせる。彼女が抱える闇も、その中に灯る僅かな光も、全てを。




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS