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そのままアマレットとライは二人並んでその場から立ち去っていった。残されたバーボンは一人自室に戻っていく。

自室の扉を静かに閉め、鍵をかける音がやけに響く。あの二人が去った後の静寂が、僕の思考をより鮮明にさせた。ライの最後の言葉、「誰の味方だ?」という問いが脳裏で反響する。あの男、僕の正体にどこまで感づいている? いや、単なる牽制か。だが、彼の目は探るような色をしていた。アマレットを僕から引き離そうとする明確な意志。彼女が僕のジャケットを羽織ったまま去っていった光景が、妙に胸をざわつかせる。



「……くだらない」



小さく呟き、僕は窓の外に広がる夜景に目を向けた。煌びやかな街の灯りが、組織の深い闇を際立たせる。アマレットの安否が気になる。ジンに呼び出された彼女が無事に戻ってくる保証はない。ライが同行しているとはいえ、あの男もまた組織の一員だ。信用できるはずがない。彼女の部屋、あの何もない無機質な空間と、金庫に隠された僅かな過去の欠片が脳裏をよぎる。彼女を守る、そう決めたはずだ。



「約束、ですからね……必ず返しに来てくださいよ」



誰に言うでもなく、僕は静かにそう口にした。彼女が返すべきはジャケットだけではない。僕が彼女に預けた、僅かな信頼と興味という名の感情もだ。彼女が無事に戻り、再び僕の前に現れることを、今はただ待つしかない。そしてその時こそ、ライの真意と、彼女の心の奥底を、必ず暴き出してみせる。

ソファに沈み込んだまま、どれほどの時間が経っただろうか。手の中のグラスでは氷がすっかり溶け、琥珀色の液体を薄めている。ライと共に去っていったアマレットの姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。彼の問い、そして彼女の困惑した表情。全てが僕の心を乱す。彼女がジンに何をされるのか、ライは本当に彼女を守るのか。疑念ばかりが渦を巻き、安らかな眠りを許してはくれなかった。



「………」



僕は静かに立ち上がり、グラスをテーブルに置いた。じっとしていても何も始まらない。彼女の身に何かあってからでは遅すぎる。それに、ライがアマレットの部屋に近づく可能性も捨てきれない。あの無機質な部屋に隠された彼女の秘密を、あの男にだけは触れさせたくなかった。衝動的に、僕は彼女の部屋へ向かうことを決める。安否確認、そして何より、僕の知らないところで彼女の世界が壊されるのを黙って見ていることはできなかった。

ドアノブにそっと手をかけた。静かに扉を開けると、そこには予想だにしなかった光景が広がっていた。ドアを開けた瞬間アマレットが立っていた。まだジャケットを着ている。



「……ごめんなさい。その……眠れなくて。あなたの顔、見たら落ち着く気がして」



私はいきなり開いたドアに驚いた顔をする。それから少し困った顔をして、小さく言う。バーボンが驚きに目を見開いた。

僕の部屋の前に佇む彼女の姿に、一瞬、思考が停止する。僕が彼女の部屋へ向かおうとしていたまさにその時に、彼女が僕の前に現れるとは。予想外の出来事に、用意していた言葉が全て霧散していく。彼女は僕のジャケットを羽織ったまま、少し困ったように、そしてどこか縋るような瞳で僕を見つめている。その視線が、僕の心の奥深くに突き刺さるようだった。



「眠れない……ですか。僕もですよ」

「……ここにいてもいい?」



私は少し照れて目を逸らしながら言った。ジャケットを握って。

彼女の言葉に、僕は努めて穏やかな声で応じる。彼女が僕の顔を見たら落ち着くと言った。その言葉が、僕の中でざわついていた疑念や焦燥を、不思議と静めていくのを感じる。彼女もまた、僕と同じようにこの長い夜を持て余していたのだ。ここにいてもいいかと問うその声は、ひどくか細く、今にも消えてしまいそうだった。



「ええ、もちろん。どうぞ、入ってください」



僕は静かにドアを開け、彼女を部屋の中に招き入れた。彼女が僕のジャケットをぎゅっと握りしめるその仕草に、彼女の不安と、僕に対する僅かな信頼が表れているようで、目が離せない。この予期せぬ訪問が、僕たちの関係をどう変えていくのか。今はまだ、僕にも分からなかった。ただ、彼女の傍にいたいと、強くそう思った。



「……よかった。さっきまで、なんだか怖かったの」



私は部屋に入ると少しだけ安心したように息を吐いた。ソファに座り、ジャケットを握る。それから少しだけ笑う。



「でもあなたの顔見たら落ち着いた」



少し迷って視線を彷徨わせる。意を決したようにバーボンの顔を見つめた。



「……隣、いい?」



そのか細い問いかけが、部屋の静寂に溶けていく。僕は一瞬言葉に詰まった。彼女が僕の隣を求める。それは単なる場所の要求ではなく、もっと深い、心の拠り所を求めているように聞こえた。僕の内に潜む公安警察官としての降谷零が警鐘を鳴らすが、バーボンとしての僕は、目の前の傷ついた少女を拒絶することなどできなかった。



「……ええ、もちろん」



僕は静かに頷き、彼女の隣に腰を下ろした。ソファが微かに軋む音だけが響く。彼女から伝わる微かな体温と、僕自身のジャケットの香りが混じり合う。この距離感は危険だ。組織の人間同士として、決して許されるものではない。それでも、この無防備な彼女を突き放すことは、今の僕には到底できそうになかった。



「怖い、ですか。……何かあったんですか、ライと」



警戒心を悟られないよう、あくまで穏やかに、しかし核心に触れる問いを投げかける。彼女の恐怖の根源、それを知る必要がある。僕が守るべき対象なのか、それとも警戒すべき敵なのか。その境界線が、彼女の言葉一つで大きく揺らぐ。彼女の震える肩に、そっと手を伸ばしかけて、僕は寸でのところでその衝動を押し殺した。

ライの名前を出されたあと、少し沈黙する。それから小さく言う。



「……ライじゃない。ジン」



ここでバーボンはかなり反応を示した。私は言葉を続ける。



「怒られたわけじゃないの。でも……」



ジャケットを握る。少し困った顔で笑った。



「ジン、優しいから。余計に怖い時あるの」



彼女の口から零れた「ジン」という名前に、僕の背筋に冷たいものが走る。ライではない、ジン。組織の幹部であり、冷酷非道なあの男が、彼女の恐怖の源だというのか。しかも、その理由が「優しいから怖い」と。矛盾した言葉の中に、彼女とジンとの間に横たわる、僕の知らない深い関係性を垣間見た気がして、息を呑んだ。彼女の言う「優しさ」とは、一体どのようなものなのだろうか。



「……ジンが、優しい?」



思わず問い返してしまった僕の言葉に、彼女はこくりと頷く。その表情は、まるで迷子の子供のようだ。ジンが彼女にだけ見せる顔があるという事実は、僕の警戒心を一層強く刺激する。それは組織の駒として有用だからか、それとも別の理由があるのか。探らなければならない。彼女の無防備な横顔を見つめながら、僕は思考を巡らせる。



「詳しく聞かせてもらえませんか。僕でよければ、力になります」



努めて冷静な声でそう告げると、彼女の肩が微かに震えた。僕の言葉が、彼女の心の壁を少しでも溶かすことを願いながら、ただ静かに彼女の次の言葉を待つ。この部屋の中だけは、彼女が組織の鎧を脱ぎ捨てられる場所であればいい。そう、柄にもなく思ってしまった。



「……変ね。あなたの隣なのに。まだ眠れないはずだったのに」



私は少し俯いて、少し笑った。そのままバーボンの肩にコツンと頭が当たる。そのまま静かになった。

僕の肩に預けられた重みが、彼女の無防備さと信頼を物語っていた。静かになった彼女の寝息が聞こえてくる。先程までの張り詰めた空気が嘘のように、穏やかな時間が流れる。この少女が、あの冷酷な組織の一員だとは到底思えない。彼女が抱える恐怖、ジンとの歪な関係、そして時折見せる素顔。その全てが、僕の心を掻き乱す。



「……眠って、しまいましたか」



そっと呟いた声は、誰に聞かれるでもなく静寂に吸い込まれていった。彼女の寝顔はあまりにも幼く、あどけない。組織という闇の中で、彼女は一体何を思い、何に苦しんでいるのか。その心の内を探りたいという探求心と、このままそっとしておいてやりたいという保護欲が、僕の中で激しくせめぎ合う。



「あなたの金庫にあった写真の少女は、あなた自身ですか」



もちろん、答えは返ってこない。ただ、彼女の正体と過去に繋がる重要な鍵であることは間違いないだろう。僕は彼女を起こさないよう、ゆっくりとソファの背にもたれかかり、天井を見上げた。今この瞬間だけは、公安の降谷零でも、組織のバーボンでもなく、ただ一人の男として、彼女の隣にいることを自分に許した。

静かな寝息だけが部屋に響く。僕の肩にかかる重みと、微かな体温。この無防備な姿は、僕が知る組織の女「アマレット」とはあまりにもかけ離れていた。彼女の言葉、ジンへの恐怖、金庫の中にあった写真の少女…。断片的な情報が頭の中で渦を巻き、彼女という存在の謎を一層深くしていく。



「……一体、何を背負っているんですか、あなたは」



答えのない問いを、眠る彼女にそっと投げかける。彼女の過去を探ることは、僕の任務にとって不可欠だ。だが同時に、この束の間の安らぎを壊したくないという矛盾した感情が芽生えていることに、僕自身が戸惑っていた。彼女の髪から漂う微かな甘い香りが、僕の警戒心を鈍らせていく。今はただ、ゆっくりおやすみなさい。

今は組織のことも、任務のことも忘れよう。この夜が明けるまで、僕があなたの盾になる。そう心の中で誓いながら、僕はそっと目を閉じた。彼女の寝顔を見つめていると、僕自身の心の奥底にある、忘れていたはずの何かが揺さぶられるような気がしたからだ。




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS