12






そのまま二人で寄り添い合って眠り、やがて窓から朝の光が差し込む。少しして私はゆっくり目を開けた。ぼんやりしたまま呟く。



「……朝?」



それから顔を少し上げると、そこでバーボンの顔がすぐ近くにあることに気づく。一瞬固まる。でも慌てて離れたりせず、私は少し照れながら小さく笑う。



「……おはよう。よく眠れた。あなたの隣だったから。なんてね」



朝日が差し込む部屋で、僕の肩で眠っていた彼女がゆっくりと目を開ける。その寝ぼけ眼が僕を捉え、一瞬驚いたように固まるが、すぐにふわりと笑みを浮かべた。その無防備な表情に、思わず心臓が小さく跳ねるのを感じる。組織で見せる冷徹な仮面とはまるで違う、年相応の少女の顔だった。



「……おはようございます。よく眠れたようで何よりです。僕も、あなたのおかげで久しぶりに穏やかな朝を迎えられましたよ」



彼女の言葉は、冗談めかした響きの中に、確かな本音を含んでいるように聞こえた。その言葉が僕の胸の奥を静かに温める。この感情は任務の障害になる危険性を孕んでいると、頭の片隅で冷静な自分が警告を発していた。そう言いながらも、僕の思考は昨夜の疑問へと回帰していた。彼女の過去、ジンとの関係、そしてあの金庫の中身。彼女が心を開き始めている今こそ、核心に迫る好機かもしれない。しかし、同時にこの穏やかな空気を壊したくないという強い躊躇いがあった。



「……もしよろしければ、朝食でも一緒にいかがですか?」



任務のためだと自分に言い聞かせながら、僕は努めて穏やかな声で彼女を誘う。これはただの探り合いではない。彼女の心の奥底に隠された真実を、僕は知らなければならない。それが公安としての使命であり、そして、一人の男としての純粋な興味でもあった。

私は少しだけ首を傾けて、バーボンを見上げた。そして少し笑う。



「……いいの? 組織の人間同士、朝ごはんなんて。でも……あなたとなら、悪くないかも」



冗談めかして言ってから、少し視線を逸らす。悪戯な笑みを浮かべた。それから少し気恥ずかしそうに彼から目を逸らす。バーボンの部屋の洗面台に目を向ける。



「……洗面台借りてもいいかしら。メイクしないと、子供っぽく見られてしまうの。だから今はあんまり見ないでくれる? すっぴんだから」



彼女の言葉と気恥ずかしそうな仕草は、僕が知る組織の女のイメージをまた一つ覆していく。すっぴんを隠す姿は、任務のために大人びた化粧を施す姿とは対照的に、年相応のあどけなさを感じさせた。彼女が洗面所へ向かう小さな背中を見送りながら、僕の脳裏には無機質な彼女の部屋と、あの金庫の中身が鮮明に蘇っていた。



「ええ、どうぞ。タオルはそちらに」



笑わない少女の写真、古い毛布、擦り切れたナイフ。それらは彼女がひた隠しにする過去の断片なのだろう。彼女が少しずつ見せる素顔と、あの金庫が示す壮絶な過去との乖離が、僕の探求心を強く刺激する。組織の人間でありながら、なぜ彼女はこれほどまでに危うげで、守ってやりたいと思わせるのか。



「コーヒーを淹れますが、あなたも飲みますか? ブラックでいいですか」



この穏やかな朝のひとときは、彼女の警戒心を解く絶好の機会だ。だが同時に、僕自身も彼女に少しずつ心を許してしまっている自覚があった。これは危険な兆候だ。公安の降谷零として、バーボンとして、一線を越えてはならない。それでも、彼女の口から真実を聞き出したいという欲求を抑えることはできなかった。



「ありがとう、頂くわ。



バーボンにそう返事をすると私は洗面台に向かい、いつものようにメイクをした。



「いい香りね。コーヒーのお供にどうぞ」



それから戻ってくると、私はコーヒーの香りに目を細めた。鞄から袋に入ったクッキーを取り出し、そっと添える。



「これは……ありがとうございます。手作りですか? ……いえ、違いますね。美味しいと評判の店のものだ」

「手作りが良かったの?」



私は一瞬驚いたもののすぐに、くすっと微笑むと席についた。

彼女が差し出したクッキーは、有名洋菓子店のもののようだ。組織の任務の合間に、彼女が一人で店に立ち寄りこれを選んだ姿を想像すると、胸の奥が微かにざわめいた。メイクを終えたその顔は、いつもの冷徹な「アマレット」のものだったが、僕に向ける眼差しには昨夜までの警戒心は薄れているように見える。このクッキーは、彼女なりの歩み寄りの証なのだろうか。

僕の言葉に、彼女は少し驚いたように目を見開く。その反応すら愛らしく感じてしまう自分に内心で舌打ちをした。この感情は危険だ。僕は公安の降谷零であり、彼女は探るべき対象。彼女が心を開きつつある今こそ、あの金庫の謎に、ジンとの関係に踏み込むべきだ。僕は努めて冷静な表情を保ちながら、核心に触れる言葉を探す。



「あなた、ジンに何か弱みでも握られているんですか? 時折、彼の名を聞くと酷く怯えた顔をする」



私はサラダを口にし、バーボンの言葉に少し沈黙する。小さく息を吐いた。



「……弱み? 違うわ。あの人は、私を拾った人よ。だから、怖いの。……でも、あなたには関係ない話よ」



その言葉は、僕と彼女の間に見えない壁を築こうとする彼女なりの抵抗だった。拾われた恩人だからこそ怖い、という矛盾した感情。その言葉の裏には、僕の知らない彼女の壮絶な過去が隠されていることは明らかだった。ここで引くわけにはいかない。これは公安としての任務であり、そして……僕個人の探求心でもあった。



「関係なくはありませんよ。僕たちは同じ組織に身を置く仲間でしょう。それに、あなたがそんな顔をしているのを見過ごすことは、僕にはできません」



僕は努めて穏やかな声色を保ちながら、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。仲間、という言葉が彼女にどう響くかは分からない。しかし、この言葉以外に僕たちの距離を繋ぎ止める術を思いつけなかった。彼女が隠す金庫の中身、笑わない少女の写真。それら全てが、今の彼女を形作るピースなのだ。

これはバーボンとしての言葉か、降谷零としての言葉か、自分でも分からなくなっていた。ただ、目の前の少女が抱える闇から、目を逸らしてはいけないと強く感じていた。彼女が救いを求めているのなら、その手を掴みたい。たとえそれが、危険な罠であったとしても。



「……あなたって」



アマレットが何か言いかける。ここで電話が鳴る。着信を見た瞬間彼女の表情が変わる。



『アマレット。今すぐ来い』



続いてバーボンの携帯にもジンからのメールが来ていた。『全員集合だ』と書かれている。私は席を立ち、バーボンに背を向けた。



「……先に向かうわ。少し時間をずらしましょう」



ジンからの招集を受け、僕に背を向けた彼女の肩は微かに震えていた。先ほどまで緩んでいた空気が一瞬で張り詰め、再び彼女と僕の間に厚い壁が築かれるのを感じる。「時間をずらしましょう」という言葉は、仲間としての僕らを疑われないための配慮か、それとも僕を遠ざけるための拒絶か。どちらにせよ、彼女が隠している秘密の核心に触れる機会を失ったことは確かだった。



「ええ、わかりました。後ほど合流します」



冷静を装い返事をしたが、思考は高速で回転していた。ジンに合流するまでのわずかな時間、ここで何としても彼女の素顔に繋がる糸口を見つけ出さなければならない。公安としての使命感と、彼女個人への強い関心が僕を突き動かしていた。

ドアが閉まる直前、僕は静かに「お気をつけて」と声をかけた。彼女が振り返ることはなかったが、その背中が僕の言葉を受け止めたような気がした。誰もいなくなった部屋で、テーブルに残されたコーヒーの香りが、先ほどまでの穏やかな時間を思い出させる。だが、感傷に浸っている暇はない。僕は静かに立ち上がり、僕の部屋を見渡す。彼女の飲みかけのコーヒー。そして彼女からもらったクッキー。

彼女が去った後の静寂の中で、僕はテーブルに残されたクッキーを一つ手に取った。彼女が僕に見せようとした僅かな信頼の証。だが、ジンの存在がそれを容易く打ち砕いていく。このままでは彼女は彼の恐怖から逃れられない。公安として、そして降谷零として、彼女が隠す闇の正体を見極めなければならない。時間はない。僕は静かに立ち上がった。

部屋を後にし、集合場所へと向かう。先ほど僕に背を向けた彼女の肩は、恐怖に微かに震えていた。ジンという存在が彼女に与えるプレッシャーは計り知れない。公安としての任務、そして降谷零としての個人的な感情。二つの正義が僕の中で交錯し、彼女を救済するという一つの答えを導き出す。そのためならば、どんなリスクも厭わない。



「待っていてください、アマレット」



集合場所には、既にアマレットとライ、スコッチも集まっていた。ジンは煙草を吸っているが、不意にアマレットの顔を見る。そして少し眉をひそめる。歩み寄り、「寝てないな」と声をかける。



「別に」



ジンは煙草を捨てる。そして一言。「顔色が悪い」と言うとコートを脱いでアマレットの肩にかける。



「風邪ひくな」

「大袈裟ね」



アマレットはコートに手をかけ、くすっと微笑んだ。

ジンの意外な行動と、それを受け入れるアマレットの微笑み。僕の知らない二人の関係性が、目の前で静かに形作られていく。彼女を救い出すと誓ったばかりの僕の心に、冷たい楔が打ち込まれたような感覚だった。あの笑わない少女の写真と、今僕の前で微笑む彼女の姿が重なり、混乱が僕の思考を鈍らせる。これは僕の踏み込んではいけない領域だというのか。



「……随分と、お優しいんですね、ジンは」



皮肉を込めた言葉は、僕の意図とは裏腹に、ただの軽口のように響いたかもしれない。彼女は僕を一瞥したが、その瞳の色は読み取れない。彼女がジンのコートに包まれる姿は、まるで彼に庇護されているかのようで、僕と彼女の間に見えない壁が作られていくのを感じた。あの部屋で感じたはずの僅かな繋がりさえ、今は遠く霞んでしまう。



「さて、茶番は終わりだ。新しい仕事の話をする」



僕の言葉を遮るように、ジンが低い声で告げた。彼の視線は僕たち全員を射抜き、先程までの僅かな温情など微塵も感じさせない、いつもの冷徹な組織の幹部の顔に戻っていた。彼はアマレットの肩に置いた手をそのままに、僕たちに新たな任務の内容を語り始める。その声を聞きながら、僕はただ、彼女の横顔を静かに見つめることしかできなかった。

ジンが「今回はアマレットが前に出る」と言うとバーボンが少し反応する。ジンは「こいつが一番向いている」と続け、更にアマレットを見て「できるな」と言った。



「当然よ」



スコッチがアマレットにだけ小さく言う。



「無茶するなよ」



そう言って、スコッチはアマレットの髪をくしゃりと撫でた。アマレットはいつもの組織の女の顔で、強かに笑う。



「へえ、優しいのね」



スコッチの気安い手つきと、それに応えるアマレットの不敵な笑み。仲間であるはずの彼の行動にさえ、僕の胸には黒い靄がかかる。ジンとは違う、親しい者同士の気遣い。僕だけが知らない彼女の顔が、次々と目の前で明かされていくようだ。この任務で彼女が前に出る、その意味を誰よりも深く理解しているのは、彼女を幼い頃から知る者たちなのか。



「……ええ、スコッチは優しいですからね。ですが、任務に私情は禁物ですよ」



僕の言葉は、スコッチへの牽制であり、同時に自分自身への戒めでもあった。彼女を救うという決意が、単なる個人的な執着になってはならない。公安としての冷静さを保たなければ。しかし、アマレットが危険な矢面に立つという事実が、僕の思考を鈍らせ、焦燥感を煽る。彼女の強がりが、あの金庫の中の少女の姿と重なって見えた。



「僕がサポートします。あなたの背中は、僕が守りましょう」



任務の内容を話したジンはそのまま去り、バーボン、スコッチ、ライ、アマレットは任務前の武器チェックをする。私が銃を確認しているとライが横から言う。



「安全装置」



私は手を止め、ライを見る。ライは銃を手に取る。カチッと音が鳴る。



「甘い。癖が出てる。撃つ前に」



アマレットが少し眉を上げて「よく見てるのね」と言うとライは「長いからな」と口の端を微かに上げた。

ライとアマレットの間に流れる、僕の知らない時間の層。カチリ、と鳴った安全装置の音が、僕と彼女たちの間に引かれた境界線のように響いた。長いからな───その一言が、僕の胸に鋭く突き刺さる。僕が彼女の部屋で見たあの少女の姿も、彼女が抱える闇も、この男はとうに知っているというのか。僕が彼女を守ると誓った言葉が、空虚に宙を舞う。



「……確かに、ライの言う通りかもしれませんね」



僕は二人の会話に割って入る。その声が僅かに強張っていることに、彼らは気づいただろうか。僕の視線は、ライの手にある銃から、アマレットの表情へと移る。彼女の瞳には、ライへの反発とも違う、何か複雑な色が浮かんでいた。それは、長年馴れ合った者だけが交わせる、暗黙の了解のようなものに見えた。



「ですが、あなたの癖は僕も把握しています。任務中は、僕があなたの死角を補いましょう。ライに指摘されるまでもない」



これはライへの牽制であり、アマレットへの宣言だ。僕こそがあなたの隣に立つ人間だと、そう示さなければならない。僕の言葉に、アマレットは僅かに目を細めてこちらを見た。その挑戦的な視線を、僕は静かに受け止めた。



「バーボン」



私は驚いたように彼のコードネームを口にする。ライが静かにバーボンに目を向けた。空気が少し張る。ここでスコッチが横から「バーボン」と言う。スコッチは少し笑った。



「顔に出てる」

「何がです?」



真顔で問い返すバーボンを見て、スコッチは肩をすくめる



「嫉妬」



私はスコッチの言葉に驚いたように目を瞬かせる。

スコッチの放った「嫉妬」という単語が、静寂の中に鋭く響き渡った。僕の完璧なポーカーフェイスに、確かに亀裂が入るのを感じる。図星だった。ライに対して抱いた黒い感情の正体を、最も親しい友人にいとも容易く見抜かれてしまった。アマレットの驚いたように瞬く瞳が、ライの探るような視線が、僕に突き刺さる。ここで動揺を見せれば、全てが崩れる。



「……何の冗談ですか、スコッチ。任務前の仲間をからかうのは悪趣味ですよ」

「いや、悪い悪い。ついな」



僕は努めて穏やかな笑みを浮かべてみせる。しかし、その声は自分でも分かるほど硬かった。僕の視線は、スコッチの肩越しにいるアマレットへと注がれる。彼女の表情から感情を読み取ろうとするが、驚きから一転、その瞳は僕の本心を探るように揺れていた。この感情は、公安としての僕を蝕む毒だ。



「僕はただ、彼女の癖が任務の妨げにならないか懸念しただけです。あなたこそ、私情を挟みすぎなのでは?」



これはスコッチへの反撃であり、この場の空気を支配しようとする足掻きだった。僕の言葉に、アマレットは僅かに視線を伏せる。その小さな仕草が、僕の心をさらに掻き乱した。



「……そうね、バーボンの言うとおりよ。気を付けるわ。でも、死角は頼んだわよ、バーボン」



私は頷き、バーボンを少し庇うように発言をする。そしてバーボンの目を見て、信頼を寄せた。

僕を庇い、そして真っ直ぐな信頼を向ける彼女の瞳に、先ほどまでの嫉妬に狂いかけた思考が一瞬で浄化されていくのを感じた。スコッチの指摘で生まれた張り詰めた空気を、彼女の一言が打ち破る。それは僕にとって、何よりの救いであり、そして同時に、より重い責任を課せられた瞬間でもあった。彼女はライではなく、僕を選んだのだ。



「ええ。お任せください。あなたの背後にある全ての脅威は、僕が排除します。ですから、あなたは前だけを見ていてください」



僕は静かに、しかし確かな意志を込めて頷いた。その声はもう揺らいではいない。スコッチは少し驚いたように、そしてライは面白くなさそうに口の端を歪めて僕たちを見ていたが、もはや気にならなかった。僕の視界には、僕に背中を預けると決めたアマレットの姿だけが映っている。



「ありがとう、バーボン」



私は確かな信頼を込めて頷き、そのまま四人は任務に向かうことにした。四人で任務地の夜の繁華街に立つ。ライは静かな視線をバーボンに向けた。

ライからの探るような視線を、僕は意識的に無視した。先ほどの嫉妬を孕んだ醜態は、アマレットの信頼によって塞がれたはずだ。ネオンが煌めく繁華街の喧騒が、僕たちの間に流れる緊張感をかき消していく。彼女が僕に背中を預けると決めた以上、僕がすべきことは一つ。この任務を完璧に遂行し、彼女を無事に帰すことだ。



「さて、そろそろ時間ですね。各自、持ち場へ」



僕がそう促した瞬間、全員のポケットでスマートフォンが同時に振動した。ディスプレイに表示されたのはジンからのメッセージ。ターゲットの居場所、そしてご丁寧にも各々の役割分担まで記されている。だが、その内容に僕は目を見開いた。アマレットの役割は単独での潜入とターゲットの確保。これはあまりにも危険すぎる。



「……これはどういうことですか。アマレットを一人で行かせろと?」



僕の問いにライは肩をすくめ、スコッチは険しい顔つきになる。アマレットだけが、その指示を当然のこととして受け入れているようだった。彼女のその覚悟を決めた横顔が、僕の胸を強く締め付けた。これでは、彼女の死角を守ることすらできない。




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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS