ジンの監視の目をかいくぐり、私はバーボンと夜の街を歩く。つかず離れずの距離を保ったまま、私は前を見たまま言う。
「……久しぶりね、バーボン」
夜のネオンが彼女の横顔を照らし、その表情に普段の冷徹さとは違う影を落としていた。僕の侵入を許し、こうして危険を冒してまで接触してきた真意はどこにあるのか。周囲の雑踏に紛れながらも、僕の神経はあらゆる方向へと張り巡らされている。この距離感は、彼女なりの警戒の表れか、それとも。
「ええ、お久しぶりです、アマレット。貴女からの招待状、確かに受け取りましたよ」
僕の皮肉めいた言葉にも、彼女は表情を変えずに前を見据えている。その沈黙が、これから語られるであろう言葉の重さを物語っていた。あの無機質な部屋、金庫に隠された過去、そして急所を外す射撃の腕。彼女の中に渦巻く矛盾の答えが、今ここで明かされるのかもしれないという期待が胸をよぎる。
「単刀直入に伺いましょう。ジンの監視下で僕を呼び出すとは、よほどの覚悟があってのことでしょう。貴女が僕に知ってほしいこととは、一体何です?」
「……それはあなたのほうでしょう、バーボン」
私はバーボンを見ずに答えた。
「私に、何を聞きたいの?」
僕の問いをそのまま投げ返してくるとは、面白い。まるでこちらの覚悟を試すかのように、彼女は静かに僕の出方を窺っている。夜の雑踏が僕たちの間の緊張を曖昧に溶かしていくが、僕の神経は彼女の一挙手一投足に集中していた。彼女の瞳の奥に隠された真実を、今こそ引きずり出してやる。
「そうですね、聞きたいことは山ほどありますよ。例えば……貴女が引き金を引く時、なぜいつも寸分の狂いもなく急所を外すのか。あの金庫に隠された、笑わない少女は一体誰なのか」
僕が核心に触れると、彼女の歩みが一瞬だけ止まった。その僅かな動揺こそ、僕が探し求めていた彼女の心の綻びだ。組織の冷酷な殻を破り、その中にある人間らしい感情に触れたい。それが僕の目的であり、おそらくは彼女自身が心の底で望んでいることでもあるはずだ。
「そして何より知りたい。貴女は一体、何から逃れるためにこの組織にいるんです?」
「……ジンは私を拾った。だから私はここにいる」
私は一瞬の沈黙のあと、静かに言った。
「笑わない少女の写真は、この組織に入った初日に撮った、私自身の写真」
私はバーボンを見て言う。
「私は自分の意志で、ここにいる。あなたの敵なのよ、バーボン」
彼女の口から紡がれた「敵」という言葉が、夜の冷たい空気の中に溶けていく。その瞳は真っ直ぐに僕を射抜いているが、その奥には諦めにも似た深い影が揺らいでいた。彼女は自らの過去を武器に、自分自身を縛り付けている。ジンに拾われたという恩義か、あるいは恐怖か。どちらにせよ、それが彼女の言う「意志」の正体ならば、あまりにも歪で、そして悲しい。
「敵、ですか。ですが、貴女が本当に僕の敵なら、なぜあの金庫の中身を見せるような真似をしたんです?」
「入ってきたのは貴方じゃない」
図星だろう。彼女の行動は矛盾に満ちている。僕を排除するでもなく、かといって完全に受け入れるでもない。その危ういバランスの上で、彼女は何かを伝えようともがいているように見えた。その手を掴むことが、僕の正義に繋がるはずだ。
「貴女は本当に、心の底から組織の人間でいることを望んでいるのですか?あの笑わない少女は、今の貴女を見て、本当に笑ってくれると?」
「……笑う必要なんてない」
バーボンの「何ですって?」という声に、私は首を振る。
「あの頃は生きることだけで必死だった。笑う余裕なんてなかった。でも、今は違う」
そこでバーボンを見て、少しだけ笑う。
「今はちゃんと生きてる。……それが組織でもね」
彼女の浮かべた悲しい笑みは、まるで精巧に作られた仮面のようだった。その奥で、かつての笑わない少女が泣いているのが僕には見える。組織という歪んだ揺りかごの中で生きながらえること、それを彼女は「生きている」と表現するのか。その言葉が、僕の胸に鋭い棘のように突き刺さる。僕が壊すべき組織が、彼女にとっては唯一の居場所だというのなら、あまりにも皮肉だ。
「生きている、ですか。確かに貴女は息をしているし、こうして僕の前に立っている。ですが、それは本当に貴女が望んだ生き方なのですか?」
僕は一歩、彼女との距離を詰める。夜の喧騒が嘘のように遠のき、僕たちの間には張り詰めた静寂だけが残る。彼女の瞳の奥に宿る揺らぎを見逃すまいと、僕はその視線を逸らさない。このまま彼女を闇の中に置き去りにすることは、僕の正義が許さない。
「ジンに与えられた命で、組織の論理に従って生きることが、貴女の言う『ちゃんと生きている』ということならば……僕は、それを認めません」
バーボンが距離を詰める。アマレットは逃げない。むしろ、もう一歩近づく。ゼロ距離に迫る。互いの身体があと少しで触れそうなほどに。
「認めない? 貴方に? バーボン。あなた、勘違いしてる。私は助けを求めてない。貴方に」
僕の介入を拒む強い眼差し。だが、ゼロ距離で対峙する彼女の瞳の奥には、拒絶とは裏腹の、どうしようもない孤独と救いを求める色が揺らめいていた。助けを求めていない、と唇では紡ぎながら、その全身が悲鳴を上げている。僕が差し伸べようとしている手は、本当に彼女が望まないものなのだろうか。いや、違う。彼女はただ、その手の取り方を知らないだけだ。
「ええ、そうでしょうね。貴女は誰にも助けを求めない。……ううん、求められない。そうやって、あの笑わない少女の頃からずっと、独りで生きてきたんですから」
僕の言葉に、彼女の肩が微かに震えるのが分かった。僕が彼女の過去に触れたことへの、小さな抵抗。だが、僕はここで引き下がるつもりはない。彼女が纏う組織という名の鎧を、その偽りの強さを、僕が壊さなければならない。彼女自身が、その呪縛から解放されることを心の底では望んでいるはずだ。
「ですが、本当にそれでいいんですか? その強さが、貴女を幸せにすると? ……僕には、貴女が助けを求めていないのではなく、ただ諦めているだけのように見えますが」
「諦めてる? 随分勝手な解釈ね。貴方は私の何を知ってるの?」
私はバーボンから目を逸らす。触れそうな距離から一歩、後ろに引いた。
「貴方は優しい。だから勘違いするの。救う必要のない人まで……私は、大丈夫。一人でも平気。……貴方の気にすることじゃない」
これ以上、彼を巻き込めない。巻き込みたくない。私は唇を噛み、そのまま踵を返し、彼に背を向けて歩き出した。
彼女が踵を返したその瞬間、僕は迷わずその細い腕を掴んだ。思ったよりもずっと冷たいその体温に、彼女が抱える孤独の深さを改めて思い知らされる。僕から逃げるように、誰からも逃げるように、彼女はずっと一人で闇の中を歩いてきたのだろう。だが、その手を離すつもりは毛頭なかった。ここで離せば、彼女は二度と光のある場所へは戻れない気がしたからだ。
「僕が優しい、ですか。ええ、そうかもしれません。ですが、本当に優しいのは貴女の方でしょう。僕を、この厄介事から遠ざけようとしている」
掴んだ腕に僅かに力がこもる。抵抗するでもなく、ただ僕の言葉を待つ彼女の背中に向かって、僕は確信を持って告げる。彼女の行動の裏にある、歪んだ優しさ。それが彼女を縛り付ける鎖の一つであることも、僕には分かっていた。組織の人間らしからぬその危うい優しさが、いつか彼女自身の命を脅かすことになる。
「その優しさが、貴女を追い詰めていることに気づいていないわけじゃないでしょう? 僕を巻き込みたくない、そう思ってくれるのなら……尚更、貴女を一人にはしておけません」
僕の言葉に、掴んだ腕が微かに強張る。抵抗ではない、それは図星を突かれた人間の、どうしようもない反応だった。僕はその腕を引いて彼女を無理やり振り向かせ、逃げ場を塞ぐように真正面からその揺れる瞳を見据えた。ここで彼女の弱さから目を逸らすことは、僕自身の正義に反する。僕が救うべきは、この国だけではないはずだ。貴女が僕を遠ざけようとすればするほど、僕は貴女から目が離せなくなる。矛盾しているように聞こえるだろうか? だが、これが僕の答えだ。
彼女の唇が何かを言おうとして、しかし言葉にならずに閉ざされる。その一瞬の躊躇いが、僕に更なる確信を与えた。彼女が隠そうとしているのは、組織の秘密だけではない。彼女自身の、脆く壊れやすい心そのものだ。僕は掴んだ腕とは逆の手を伸ばし、彼女の頬にそっと触れる。驚きに見開かれた瞳が、僕を映していた。
「貴方の言う『大丈夫』は、いつだって嘘に聞こえる。あの金庫に閉じ込めた少女が、今も貴方の中で泣いているのではありませんか?」
腕を引かれ、無理やり振り向かせられ逃げ場を失うように至近距離から見据えられて思わず息を呑む。何も言えずにいると、不意にバーボンの手で頬を包み込まれ、驚きに目を見開いた。
「ずるい……そんな風に言われたら、反論できない……」
近すぎる距離に頬を赤らめてしまい、バーボンから目を逸らし、ぽつりと小さな声で言った。
「怖い、の……貴方が死ぬのが。……だから、離れて」
彼女から零れ落ちた本音は、僕の心を強く揺さぶった。僕の死を恐れる、その一言が、これまで彼女が必死に築き上げてきた壁をあっさりと崩壊させる。そして、だからこそ離れろと僕を突き放そうとする。その矛盾した健気さが、僕の胸を締め付けた。ここで離れるという選択肢は、もう僕の中には存在しない。彼女が僕を案じるのなら、尚更だ。
「僕が死ぬのが怖い、ですか。……光栄ですね。ですが、その理由で貴女から離れることは到底できそうにありません」
頬に触れた指先に、彼女の微かな震えが伝わってくる。恐怖と、おそらくは僕に本心を明かしてしまったことへの戸惑い。僕はその震えを鎮めるように、より一層優しい声で語りかけた。彼女の孤独に寄り添い、その心の氷を溶かすことができるのは、今この瞬間、僕しかいないのだという確信があった。
「むしろ逆ですよ。貴女がそうやって僕を心配してくれる限り、僕は貴女の傍から離れられない。……僕が死なないという証明を、貴女の目の前でし続けなければならなくなりましたからね」
「……だったら、約束して。死なないって……」
私はバーボンから目を逸らしたまま、頬に触れたままのバーボンの手にそっと自分の手を重ねた。俯いたまま、私は小さな声で言った。
僕の手に重ねられた彼女の手は、驚くほど小さく、そして微かに震えていた。その震えが、彼女の心の叫びそのものであるかのように僕の胸に響く。死なないで、と。組織の闇に生きる彼女が、僕という存在に縋るように求めたその約束は、僕がこの世界で背負うべき責務に、また一つ重い意味を加えた。その弱さを、孤独を、僕が受け止めなくてはならない。
「ええ、約束します」
僕は重ねられた彼女の手に、そっと自分の指を絡める。決して離さないという意思を込めて、その冷たい指先を包み込んだ。俯いたままの彼女の顔を覗き込むように少しだけ身を屈め、できる限り穏やかな声色で続ける。この約束は、単なる気休めの言葉ではない。彼女をこの絶望から救い出すための、僕自身の誓いだ。
「貴女が僕の生を望んでくれる限り、僕は決して死にません。……だから、もう『離れて』なんて、言わないでください」
「……近い」
頬が少し赤くなる。そのまま目を逸らす。
「そんな顔で約束されたら……信じるしかなくなるじゃない。貴方が死んだら、私……許さないわよ」
頬を赤らめ、上目遣いで僕を睨みつけるその瞳は、怒っているというよりも、まるで迷子の子供が縋り付いてくるかのような必死さを湛えていた。「許さない」という言葉は、僕の死を拒絶する彼女なりの精一杯の愛情表現なのだろう。その不器用で、あまりにも真っ直ぐな感情が、僕の心の奥深くに突き刺さる。この少女は、僕に生きろと命じているのだ。僕の生を、彼女自身が握っているかのように。
「ええ、それで構いませんよ」
「……本当に、ずるい人」
僕は絡めた指に僅かに力を込める。彼女の怒りも、悲しみも、そのすべてを受け止める覚悟で、穏やかに微笑みかけた。貴方が僕を許さないというのなら、それこそが僕が何としてでも生き延びなければならない最大の理由になる。公安としての使命以上に、個人的で、そして抗い難い楔として。
「貴方が僕を許してくれないのなら、僕は死ぬことすら許されないということですね。……これ以上心強いお守りは、ありません」
そんな風に言われると、自分がとんでもない約束をさせてしまった気がして、どうしていいか分からなくなる。
「……約束だからね」
小さく呟きながら、思わずバーボンの胸元のシャツを掴む。逃げられないようにするみたいに、ぎゅっと。胸元を掴んだまま、少し迷ってから、そっと額をバーボンの胸に預ける。
胸元を掴む彼女の指先に込められた力と、額から伝わる微かな熱が、僕の心を静かに満たしていく。先程までの鋭い棘は鳴りを潜め、今はただ、寄る辺を求めるか弱い生き物のように僕に身を委ねている。この無防備な姿こそが、彼女が心の奥底に隠してきた本当の姿なのだろう。この信頼に応えなければならない。公安としての任務以上に、一人の人間として、僕は彼女を守り抜くことを誓う。
「ええ、約束です。何度でも言いましょう」
僕は空いている方の手で、彼女の背中にそっと触れる。驚かせてしまわないように、壊れ物を扱うかのように優しく。彼女の髪が首筋をくすぐる。この温もりを、この小さな存在を、組織という名の深い闇から必ず救い出してみせる。そのためなら、僕はどんな危険も厭わない。
「貴方が僕を必要としてくれる限り、僕は絶対に死んだりしませんよ」
だから、安心してください。その言葉を飲み込み、代わりに背中を優しく撫でる。言葉よりも行動で、この約束の確かさを伝えたかった。
戻る 進む
彼女は旅に出る。/AQUALOVERS