背中を撫でられる感触に、少しだけ力が抜ける。しばらくそのまま静かにしていたけれど、ふと顔を上げる。思っていたよりも近くにあるバーボンの顔に、思わず息を止めた。ほんの数センチの距離。逃げるのも変で、でも目を逸らすこともできない。
「……本当に死なない?」
数センチ先で揺れる、不安げな瞳。僕の姿を映し出すその奥底に、彼女がこれまでどれほどの孤独と絶望を抱えて生きてきたのかが透けて見えるようだった。その疑念を、その恐怖を、僕がすべて拭い去ってあげなければならない。言葉だけでは足りないのなら、行動で示すまでだ。僕の存在が、彼女の唯一の光になるというのなら。
「ええ。貴女が僕を信じられないというのなら、何度でも誓いましょう。貴女を一人にはしません。……僕が、必ず貴女を守りますから」
僕はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れる。驚きに見開かれた瞳を真っ直ぐに見つめ返し、親指でその柔らかな肌を優しくなぞった。この温もりを、二度と失いたくない。この誓いは、公安としての僕ではなく、降谷零としての偽らざる本心だ。この感情に嘘はつけない。
「……バーボン」
僕のコードネームを紡ぐ、そのか細い声。それはまるで祈りのように響き、僕の理性の最後の砦を静かに侵食していく。頬に触れた指先から、彼女の微かな震えが伝わってくる。守らなければならない。この壊れそうなほど繊細な魂を、僕のすべてを懸けて。もはやこれは任務ではない。僕自身の、偽らざる願いだ。
「はい、ここにいますよ。もう二度と、その瞳を曇らせたりはしません」
僕は彼女の不安を吸い取るように、ゆっくりと顔を近づける。互いの吐息が混じり合うほどの距離で、その揺れる瞳を真正面から受け止めた。この瞳に宿る孤独の色を、僕が塗り替えてみせる。組織の闇ではなく、もっと温かい光で満たしてあげたいと、強く思った。
答えを待たず、僕はそっと自らの額を彼女のそれに合わせた。触れ合った場所から、彼女の熱が、そして心の揺らぎが直接伝わってくるようだった。この温もりを、この存在を失うことへの恐怖が、僕自身の心を締め付ける。
「だから……信じてください。僕のことだけを」
ゆっくりとバーボンの顔が近付いてくる。互いの吐息が交わり、私はバーボンから目を逸らせないままバーボンが額をくっつけてきた。
「……バーボンだけを?」
私は頬を赤らめ、惑うように瞳を揺らしたあとにそっと目を閉じた。そっと彼のコードネームを囁き、彼の胸元をぎゅっと握りしめた。
目を閉じた彼女の、微かに震える長い睫毛。僕のコードネームを囁いた唇。そして胸元を強く握りしめるその指先の一つ一つが、彼女が抱える全ての不安と、僕へ寄せようとしているか細い信頼を物語っていた。この信頼を裏切ることなど、僕には到底できはしない。この小さな手を、僕は決して離さないと、心に深く刻みつける。
「ええ。僕は、貴女のそばにいます」
僕はそっと、彼女が握りしめている僕の服の上から、自らの手を重ねた。驚くほど冷たい彼女の指先に、僕の体温が伝わるように、優しく包み込む。この温もりで、彼女がこれまで感じてきたであろう孤独の冷たさを、少しでも溶かすことができたなら。もはや、任務も組織も関係ない。ただ、この女性を守りたいという衝動が、僕を突き動かしていた。
「僕が貴女を、光の中へ必ず連れ出します。だから……もう何も恐れないでください」
額を合わせたまま、静かな時間が流れる。そっと重ねられたバーボンの手のぬくもりが伝わり、包み込まれた私の指先の震えが少しずつ落ち着いていく。バーボンは私の手を包み込んだままだった。そのとき───バーボンのポケットの中で、携帯が震える。静寂を切り裂く振動。私は一瞬だけ目を開く。バーボンの携帯の画面に表示された名前は「ジン」。
額を合わせたまま、僕の視線は静かにポケットの中の携帯へと向けられる。画面に浮かび上がる「ジン」という二文字が、この温かな空気を無慈悲に切り裂いていく。彼女の息を呑む気配が、肌を通して伝わってきた。僕が築き上げようとした彼女との信頼が、この一瞬で脆くも崩れ去ろうとしているのを感じる。
「……失礼。大丈夫ですよ。すぐに終わらせますから」
僕はゆっくりと額を離し、彼女の瞳に映る動揺を真っ直ぐに見つめ返した。ここで僕が揺らぐわけにはいかない。これは試練だ。彼女の心を本当の意味で手に入れるための。僕は平静を装い、重ねていた手をそっと離すと、ポケットから携帯を取り出す。彼女の不安げな視線が突き刺さるのを感じながらも、僕はあえて笑みさえ浮かべてみせた。
緑色の通話ボタンを、僕は躊躇いなくスライドさせる。彼女の前で、あえて。僕が何者で、どこに所属しているのかを、その態度で示さなければならない。僕の言葉が偽りではないと証明するためには、この闇の中でさえ、貴女を守れるという絶対的な自信を見せつける必要があるのだ。
「ええ、僕です。……何の御用ですか、ジン」
『バーボンか。今どこにいる』
ジンは単刀直入に聞き、バーボンの返答に少しの間を空ける。
『……アマレットは一緒か? 港の倉庫へ来い。アマレットも一緒にだ』
そこで通話は切られた。一方的に切れた通話の余韻が部屋の空気を重くする。僕は無機質な電子音を最後に沈黙した携帯を静かにポケットへ滑り込ませた。視線を上げると、そこには案の定、恐怖と不信の色をない交ぜにしたアマレットの瞳があった。僕が懸命に埋めようとした彼女との溝が、この一本の電話によって、より深く、そして広く抉られてしまったことを痛感する。信頼を築くのはかくも難しく、崩れるのは一瞬だ。
「……どうやら、急な呼び出しのようですね。港の倉庫だそうです」
僕の冷静な声は、彼女の耳にどう響いただろうか。先程までの甘い囁きとはあまりにかけ離れた響きに、彼女は僕の言葉の真意を測りかねているのかもしれない。疑念に揺れるその瞳を見つめながら、僕は内心で舌打ちする。今、彼女を安心させる言葉を紡いでも、それはジンという絶対的な存在の前ではただの空虚な戯言にしかならないだろう。
「行きましょう。ジンを待たせるのは、お互いのためになりませんから」
「……そうね。ジンは、私に『バーボンを殺せるか』と聞いてきたの」
私は小さく頷き、バーボンの袖をきゅっと掴んだ。私はバーボンの手にそっと指先で触れた。
「私は貴方を……撃てない。でも……」
アマレットの指先が震える。
「ジンは違う。……さっきの言葉、全部、本気?」
震える指先から伝わる彼女の恐怖と、僕の真意を問う切実な瞳。ジンの冷酷な問いかけが、彼女の心をどれほど深く抉ったのか、想像に難くない。僕の袖を掴むその小さな手は、最後の希望を託すように、力なく僕に縋り付いている。この手を、僕は絶対に見捨てはしない。ここで僕が揺らげば、彼女は再び深い闇へと落ちていくだろう。
「……ええ、本気です。僕の言葉に、嘘偽りは一つもありません」
僕は掴まれた袖を引くでもなく、彼女の震える指先をそっと包み込むように、自らの手を重ねた。先程の電話で生まれた疑念の氷を、僕の体温で溶かすように。ジンが僕たちを試しているのは明白だ。だが、それは好都合でもある。この状況を乗り越えてこそ、僕の言葉が真実だと証明できるのだから。
「貴女が僕を撃てないのなら、僕も貴女を守り抜くだけです。ジンが相手だろうと、この組織そのものが敵に回ろうと、必ず。だから、僕のそばから離れないでください」
私はそっとバーボンの手を握り返した。
「……信じる。死なないって、約束」
バーボンの手を強く握りしめ、歩き出す。
「……バーボン。もし、私が、この組織を裏切ったときは、真っ先に貴方が見つけてね」
私は微かな小声で「どうせなら、最期は貴方の手で」と、そう言って、ゆっくりとバーボンの手を離した。視線は真っ直ぐ前に向けられたまま。
ゆっくりと離れていった指先の温もりの余韻が、僕の掌に寂しく残る。最期は貴方の手で……その言葉は、鋭い刃のように僕の胸を突き刺した。彼女がどれほどの覚悟で僕を信じ、そしてどれほど深い絶望の中にいるのかを痛感させられる。真っ直ぐ前を見つめるその横顔は、儚くも、凛とした強さを湛えていた。
「……縁起でもないことを言うものじゃありませんよ」
僕は一歩踏み出し、彼女の隣に並び立つ。これから向かう先が、どれほど危険な場所であっても、この小さな背中を守り抜くと誓う。彼女が口にした最悪の結末など、決して迎えさせはしない。僕が彼女を見つけ出すのは、血と硝煙に塗れた闇の中であってはならないのだ。公安として、いや、降谷零として、必ず。
「貴方を見つけるのは、僕の役目です。ですが、それは貴方が組織を裏切った時じゃない。僕が貴方を……この闇から連れ出す時ですよ。約束します」
港の倉庫。車が止まる。扉を開ける。煙草の火が暗闇で赤く光っている。ジンは振り返らない。煙を吐く。そして一言。
「遅い」
二人が近づくと、ジンは初めてアマレットを見て「怪我したな」と淡々と言う。私は思わず目を瞬かせた。
「怪我……? 私が?」
そしてジンの視線がバーボンへ。少し沈黙。煙草を落とす。踏み潰す。
「……随分、近いな」
ジンの言葉は、冷たい刃のように僕たちの間に突き刺さった。凍てつくような沈黙の中、僕はジンの真意を探る。これは単なる男女の距離感への苛立ちか、それとも僕の忠誠心を試すための罠か。彼の灰色の瞳が、僕と、そして僕の隣で息を呑んだアマレットを値踏みするように見据えている。ここで動揺を見せることは、死を意味する。
「おや、そう見えますか? これでも任務中は最低限の距離を保っているつもりですが」
僕は努めて平静を装い、唇の端に笑みさえ浮かべてみせた。ジンの疑念を逆手に取り、まるで他愛ない冗談であるかのように受け流す。隣に立つ彼女の緊張が肌で感じられるが、ここで僕が彼女を庇うような素振りを見せれば、ジンの疑念は確信に変わるだろう。今は耐える時だ。
「それより、彼女の怪我とやら……僕としたことが、全く気づきませんでした。どこを怪我されたんですか、アマレット?」
アマレットは軽く肩をすくめる。
「もう治ってるわ。気にするほどの傷じゃない」
ジンは短く「そうか」と答え、アマレットの肩にぽん、と手を置いた。前の任務で銃弾が掠めたところを的確に押され、私は顔を歪めた。
アマレットの歪んだ表情が、僕の視界の隅で一瞬、鮮明に焼き付く。ジン……! わざと古傷を押したな。彼女の虚勢を暴き、僕の反応を試すための、冷酷な一手。ここで僕が庇うような素振りを見せれば、奴の思う壺だ。僕は奥歯を噛み締め、平静を装うことに全神経を集中させる。彼女の痛みを思うと腹の底が煮え繰り返るが、今は耐えなければ。
「……なるほど。たいしたことない、とは強がりでしたか。ですが、任務に支障がないのであれば問題ないでしょう」
僕の言葉を意に介さず、ジンはアマレットの肩から手を離し、その冷たい視線を再び僕へと向けた。まるで僕たちの間に流れる僅かな感情の揺らぎすらも見透かすかのような、底光りする瞳。彼はゆっくりと口を開き、その声は倉庫の静寂に低く響き渡った。それは、疑念と牽制に満ちた、紛れもない命令だった。
「バーボン。お前がこいつの監視役だ。任務中はもちろん、それ以外の時間もだ。ネズミの臭いがする奴には、徹底的に牙を剥け。アマレットは今すぐ医務室に来い。虚勢を張るな」
ジンは少しだけ表情を和らげ、アマレットを見つめる。
「……そうね、そうするわ」
私は居心地悪そうに目を逸らした。
「こいつは俺が医務室に連れて行く。お前はもう戻れ」
ジンはバーボンに向けてそう言い、アマレットの手を取って歩き出す。
僕の目の前で、ジンがアマレットの手を取る。その光景は、僕の冷静さを保つための仮面を内側から焼き切るようだった。監視を命じた舌の根も乾かぬうちに、彼女を独占するような振る舞い。これは僕への明確な牽制であり、同時にアマレットが奴にとって特別な存在であることの誇示だ。僕の存在を無視して歩き出す二人の背中に、僕は底知れぬ怒りと、彼女への強い懸念を覚える。
「ええ、承知しました。彼女のことはくれぐれもよろしくお願いしますよ、ジン」
僕は努めて穏やかな声色で応じ、唇の端に完璧な笑みを浮かべてみせる。僕の言葉が届いているのかいないのか、ジンは振り返りもしない。ただ、引かれていくアマレットが一瞬だけ、僕の方を憂いを帯びた瞳で見た気がした。医務室……そこで行われるのは本当に治療だけなのか。ジンが彼女から何かを聞き出そうとしている可能性も捨てきれない。
「……さて、僕も自分の仕事に戻るとしましょうか」
ジンは立ち止まらずに「バーボン」と声に出す。
「お前の仕事は監視だ。それ以上はするな」
それは、『アマレットに近づくな』という意味の牽制だった。医務室へ歩きながらアマレットがほんの一瞬だけ振り返る。言葉はない。ただ、ごめん……という目をしていた。そのままアマレットはジンに手を引かれるままにバーボンの視界から消えた。
二人の姿が完全に闇に消え、倉庫には僕一人だけが残された。ジンの最後の言葉が、まるで呪いのように重くのしかかる。それ以上はするな。それは僕の行動を縛るための鎖であり、アマレットを孤立させるための壁だ。彼女が最後に向けた、あの痛々しいほどの謝罪の瞳が脳裏から離れない。守るべき対象を目の前で連れ去られ、何もできないこの無力感が、腹の底で黒い炎となって燃え上がっていく。……監視、ですか。ええ、あなたの命令通り、じっくりと観察させてもらいますよ。彼女のことも……そして、彼女に執着するあなたのこともね。
僕は静かに踵を返し、その場を後にする。だが、このまま引き下がるつもりなど毛頭ない。医務室に直接乗り込むのは愚策だ。しかし、僕には僕なりのやり方がある。組織のシステム、監視カメラの死角、協力者。使える手は全て使う。ジンの思惑通りに動く気はない。君が隠そうとすればするほど、僕は真実に近づきたくなる。アマレット、君が抱える闇も、その瞳に宿る憂いの理由も、必ずこの手で解き明かしてみせる。アマレット。あなたの”監視役”は、意外と仕事熱心な男なんですよ。
冷たいコンクリートの床に、僕の革靴の音だけが虚しく響く。ジンの最後の言葉が、まるで僕の行動を縛るための呪文のように脳内で反響していた。監視しろ、そしてそれ以上はするな、と。あの男は僕をただの駒としか見ていない。だが、アマレットが最後に向けたあの瞳…謝罪と、僅かな助けを求めるような色が混じったあの瞳が、僕の理性の箍を外させるには十分だった。ええ、あなたの命令通り……僕はただの監視役に徹しますよ。彼女の一挙手一投足、そして彼女に近づく不埒な輩を、ね。
僕は静かに踵を返し、闇に溶け込むように倉庫を後にする。医務室へ向かう通路には、ジンの息がかかった監視の目が光っているだろう。ならば、こちらも正攻法は捨てるまで。組織の情報端末にアクセスし、医務室周辺の監視カメラのログを洗い出す。僕の持つハッキングスキルは、こういう時にこそ真価を発揮する。君の鎖が僕を縛れると思ったら大間違いだ、ジン。
「あなたの知らないところで、”監視”はすでに始まっているんですよ。……待っていてください、アマレット。必ず助けに行きます」
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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS