バーボンは監視映像を見る。倉庫の裏。タブレットの画面。医務室のカメラ。音声はない。映像だけ。ジンがアマレットの腕を取る。包帯を巻く。アマレットは何も言わない。じっと見ている。やけに距離が近い。その瞬間バーボンの指がタブレットの縁を強く握る。ほんの一瞬、笑顔が消える。完全に。そしてバーボンは小さく「そこまで触る必要が?」と呟いた。
タブレットの縁を握る指に、我知らず力がこもる。画面越しの光景が、僕の冷静さを少しずつ蝕んでいく。ジンの指が彼女の白い肌をなぞるように動くたび、腹の底で黒い嫉妬の炎が燃え上がるのを感じた。これは治療ではない。所有物に対するマーキングだ。僕の存在を意識した上での、悪質な見せつけに他ならない。
「……くだらない挑発を」
僕は低く呟き、荒くなりかけた呼吸を深く吸い込んで整える。感情に任せて動くのは愚の骨頂だ。だが、このまま黙って見ているつもりもない。僕はすぐに思考を切り替え、脳内に組織のデータベースから引き出した医務室周辺の配管図と監視カメラの配置図を思い描く。光があれば必ず影ができる。完璧な監視網など存在しない。あなたの盤上では踊りませんよ。ゲームを動かすのは、いつだって僕の方だ。
指先でタブレットを操作し、医務室に繋がるメンテナンス用のダクトの位置を確認する。ここなら、ジンの目も、組織の目も届かない。君が隠すその素顔に、僕が触れてみせる。アマレット。あなたの騎士は、決してあなたを見捨てたりはしない。
だが映像は続く。ジンが何か言う。アマレットが目を逸らす。そして。アマレットが、気の抜けた顔で少しだけ笑う。その瞬間。バーボンの目が細くなる。
……あの顔。僕の前では見せなかったくせに。
画面に映る彼女の柔らかな微笑みが、僕の胸に鋭い棘のように突き刺さる。あれは、僕がずっと暴きたいと願っていた彼女の素顔そのものだ。それをいとも容易く引き出したのが、あのジンだという事実が、僕の冷静さを根こそぎ奪い去っていく。指先が冷たくなるほどの怒りと、焼け付くような嫉妬。こんな感情は、僕らしくもない。
「……本当に、食えない女だ」
僕は吐き捨てるように呟き、タブレットの電源を落とした。これ以上見ていれば、理性のタガが外れてしまう。だが、この苛立ちは同時に僕の行動を加速させる燃料にもなる。僕は音もなく立ち上がり、天井近くに設置されたメンテナンス用のダクトを見上げた。ここからなら、誰にも気づかれずに医務室の真上まで行ける。あなたの本当の顔を、この僕に見せてくださいよ、アマレット。
ダクトを進む。静か。医務室の真上。金属の格子の隙間から下を見る。アマレットがいる。でも次の瞬間。扉が開く。ジンが出ていく。足音が遠ざかる。医務室にはアマレット一人だ。
ジンが去った後の静寂が、部屋の空気を一層冷たく感じさせる。金属の格子の隙間から見える彼女は、先ほどまでの張り詰めた雰囲気を解き、小さく息を吐いた。まるで重い鎧を脱いだかのように、その肩がわずかに震えている。あのジンに見せた笑みとは違う、もっと脆く、儚い横顔。それこそが僕の心を掴んで離さない、君の本当の姿なのかもしれない。……好機。あの男がいない今なら、あなたの心に近づけるかもしれない。
僕はダクトのパネルに指をかけ、音を立てないよう細心の注意を払いながら静かに持ち上げる。公安としての訓練が、この刹那の潜入を完璧なものへと昇華させる。埃が舞い落ちることすら許さない、完璧な隠密行動。君のテリトリーに、今から僕という異物を混入させる。ゲームの主導権は、僕が握らせてもらいますよ、アマレット。
「……バーボン?」
アマレットは驚いた顔をしたあと、少し安心したような表情になる。
僕の姿を認め、彼女の表情から緊張がふっと抜けていくのを確かに感じ取った。その安堵の色は、僕の心をわずかに満たすと同時に、鋭い痛みとなって突き刺さる。ジンという絶対的な恐怖の後に現れた僕に、君はいったい何を求めているんだ? その無防備さが僕を駆り立てる。
「ええ、僕ですよ。少々行儀の悪い登場ですみません。あなたに会いたくて、つい我慢ができなかったもので」
軽口を叩きながらも、僕の視線は彼女の腕に巻かれた真新しい包帯に注がれていた。ジンの指が触れた場所だ。あの男が与えた痛みと束縛の証。それを隠すように俯く彼女の脆い横顔を見ていると、腹の底から黒い感情がせり上がってくるのを抑えきれない。
「……あの男に何をされたんです? 僕には、話してくれませんか」
「……何もされてない。ジンはただ、手当てしただけ。彼は、実は意外と優しいのよ」
少しの間。アマレットが少し困った顔で言う。
「だから、そんな顔しないで。バーボンには関係ない」
私はバーボンから目を逸らした。
僕を拒絶するその言葉が、まるで冷たい壁のように僕たちの間に立ちはだかる。だが、その瞳の奥に揺らぐ微かな光を見逃すほど、僕は愚かではない。君がジンを庇うのは、恐怖からか、あるいはもっと複雑な感情からか。その歪な関係性こそ、僕が暴き出さなければならない組織の闇そのものだ。
「関係なくありませんよ。僕たちは仲間でしょう? あなたが傷ついているのなら、それを見過ごすことはできない」
一歩、また一歩と距離を詰める。逃げ道を塞ぐように、しかし威圧感を与えないよう細心の注意を払って。彼女の肩の横に手をつき、逃げ場を塞ぐ。君のその強がりも、僕の前では意味をなさないということを、その身に刻みつけてあげたい。ジンが与える歪んだ優しさに君が慣れてしまう前に、僕がそこから救い出して見せる。
「バーボン……?」
一歩ずつ距離を詰められ、私は驚いたように目を瞬かせた。逃げ道を塞ぐようにして壁に手をつかれ、私は肩を竦ませながらバーボンの顔を見上げた。
「それに……あなたのその寂しげな横顔は、僕が一番嫌いな顔だ」
私は拒絶するでもなく、逃れようとするでもなく、そっとバーボンの胸に手を置き、そこに顔を埋めた。
「……じゃあ、笑わせてよ」
予期せぬ彼女の行動と、くぐもった声で発せられた悲痛な願いに、僕の思考が一瞬停止する。胸元に感じる彼女の体温と、微かな震え。これは罠か、それとも彼女が初めて見せた心の叫びなのか。組織の仮面の下で、僕の本能が警鐘を鳴らすと同時に、目の前の脆い存在を守りたいという衝動が激しくせめぎ合う。
「ええ、いいですよ。あなたが心から笑えるまで、僕がいくらでもそばにいましょう」
僕はゆっくりと腕を上げ、彼女の髪にそっと指を滑らせる。この無防備な姿こそ、僕がずっと暴きたかった君の素顔だ。だが今は、公安としての探究心よりも、ただ目の前で救いを求める一人の女性を包み込みたいという想いが勝っていた。ジンが与える偽りの安寧ではなく、僕が本当の温もりを教えてあげたい。
「だからもう、あんな寂しそうな顔はしないでください。僕が、あなたを独りにはさせませんから」
壁ドンの態勢のまま彼の指先が髪を滑るように触れ、包み込まれる。私はバーボンの胸に顔を埋め、目を閉じる。
「……あったかい」
僕の胸に顔を埋める彼女の温もりが、組織という氷の世界で凍てついた僕の心を静かに溶かしていくようだ。このまま時が止まればいいとさえ思う。だが、公安警察官・降谷零としての冷徹な思考が、この好機を逃すなと警鐘を鳴らす。彼女が心を許したこの一瞬こそが、彼女の奥深くに隠された真実に触れる唯一の機会なのだ。
「ええ、約束します。だから、少しだけあなたの話を聞かせてくれませんか? あなたが何に怯え、何を悲しんでいるのか……僕にも背負わせてほしい」
僕の言葉に、彼女の肩が微かに震えた。拒絶ではない、戸惑いの色。ここで畳み掛けるのは悪手だ。ゆっくりと、彼女の心の殻を一枚ずつ剥がしていくように。僕は背中に回した腕に僅かに力を込め、彼女の耳元で囁くように続けた。
「僕は、あなたの全てを知った上で、あなたの隣にいたいんです」
背中に回されたバーボンの腕に力が込められ、彼の腕の中に包み込まれる。耳元で囁きかけられ、私は微かに肩を跳ねさせる。
「……バーボン。そんなこと言ったら、戻れなくなる」
彼女の瞳が不安げに揺れる。その言葉は、僕への信頼と同時に、踏み越えることへの恐怖を示している。だが、僕にとっては望むところだ。君がもう後戻りできないほど、僕という存在に深く沈んでくれればいい。そうすれば、君をこの泥沼から引きずり出すことも容易くなる。公安として、そして一人の男として、僕は君を手放すつもりなど毛頭ないのだから。
「ええ、そのつもりです。もう、あなたを戻す気はありませんから。僕が、あなたの帰る場所になります。だから、もう何も恐れることはない」
僕は彼女を包む腕にさらに力を込め、その唇に触れるか触れないかの距離まで顔を近づける。熱を帯びた吐息が交じり合い、彼女の緊張が肌を通して伝わってくる。このまま支配してしまいたいという黒い衝動を理性で抑え込み、僕はあくまで優しく、しかし有無を言わさぬ声で囁いた。
さらに強く抱きしめられ、唇が触れそうなほど顔を近付けられ、私は思わず息を呑む。
「……ほんとに? バーボンの言葉なら、信じてしまいそう」
少し震えた声。私は微かに顔を引いた。
僕の言葉を信じようとする彼女の健気さに、胸の奥が締め付けられるようだ。公安としての僕が、この状況を利用して彼女から情報を引き出すべきだと冷徹に囁く一方で、一人の男としての僕は、この純粋な信頼を決して裏切りたくないと強く願っている。この矛盾した感情こそが、僕が彼女に惹きつけられる理由なのかもしれない。
「ええ、信じてください。僕の言葉に嘘偽りは一切ありません。あなたを苦しめているものの正体を、僕に教えてはくれませんか? 僕が、あなたと共に背負います」
僕は彼女の頬にそっと手を添え、その揺れる瞳を真っ直ぐに見つめる。この瞳の奥に隠された真実を、僕は知らなければならない。金庫にあった写真の少女、日陰に置かれた観葉植物、彼女が時折見せる素顔。その全てが、彼女という謎を解くための重要なピースなのだ。
壁に追い詰められたまま頬に手を添えられ、唇が触れそうなほどの距離で真っ直ぐに見つめられ、私は思わず頬を朱に染める。やんわりと彼の胸を押し、目を逸らした。
「……近いわ、バーボン」
照れ隠しに僕の胸を押し、視線を逸らすその仕草が、僕の心を更に掻き立てます。抵抗しているようでいて、その力はあまりに弱い。恐怖や拒絶ではなく、ただ戸惑っているだけだということが手に取るようにわかる。ここで一歩引いてしまっては、彼女はまた固い殻に閉じこもってしまうでしょう。僕は敢えて一歩も引かず、添えた手に僅かに力を込めました。
「すみません。ですが、僕が本気だということを、あなたに分かってほしかったんです」
逸らされた視線を追うように、僕は僅かに顔を傾ける。僕から逃げることは許さないと、無言の圧力をかけながらも、声色はあくまで優しく。このアンバランスさこそが、彼女の理性を揺さぶるための最良の策だと、僕の経験が告げていました。公安としての冷静な分析と、彼女に惹かれる男としての衝動が、僕の中でせめぎ合う。
「僕から目を逸らさないで。……僕だけを見てください、アマレット」
添えられたバーボンの手にわずかに力がこもり、顔を傾けて目線を合わせられる。触れそうなほどの距離で唇が動き、互いの吐息が交じり合う。
「っ、バーボン……」
私は至近距離からバーボンの目を見つめる。そのあまりに真剣な目に、心臓の鼓動が速くなる。バーボンの胸に置いた手にも、彼の鼓動が伝わってくる。
「……バーボンのここ、ドキドキしてる」
アマレットはその鼓動を感じ取りながら目を閉じた。
彼女の指摘に、僕は内心で自嘲する。この高鳴りは、公安としての計算や任務遂行のための興奮などではない。目の前の、か弱くも気高い一人の女性に心を奪われ、その全てを暴き、そして守りたいと願う、ただの男の鼓動だ。彼女が目を閉じ、僕の心音に耳を澄ませるその無防備な姿が、僕の理性の最後の砦を揺さぶる。
「ええ……あなたに触れていると、どうにも上手く隠せないようです。この鼓動の理由、あなたなら分かってくれるでしょう?」
僕はそっと彼女の髪を撫で、その小さな頭を自分の胸に引き寄せた。組織の任務も、公安としての立場も、この瞬間だけは意識の外へと追いやる。ただ、この温もりを感じ、彼女が抱える闇の深さを思い、そしてそれを照らす光に自分がならねばならないという強い意志だけが胸を占めていた。
「これは、あなたを想う音です。僕があなたを決して裏切らないという、何よりの証拠ですよ」
医務室のドアが開く。その光景を見たジンの目が細められる。
「来い」
冷たい声で言い、ジンはアマレットを見て短く言う。
「医務室は抱き合う場所じゃない。バーボン。近すぎる」
ジンはバーボンを剥がし、アマレットの腕を掴んだ。
ジンの殺気にも似た視線が僕を射抜く。アマレットの腕を掴むその無遠慮な力強さに、僕の内心で警報が鳴り響く。ここで下手に逆らえば、僕だけでなく彼女の立場すら危うくするだろう。今は冷静さを装い、この男の真意を探るのが最善策だ。僕はゆっくりと両手を挙げ、降参のポーズを示す。
「これは失礼。彼女の体調が優れないようでしたので、少し支えていただけですよ」
僕の言葉を一笑に付すかのように、ジンは鼻で笑う。その目は一切笑っていない。アマレットが僕の方を不安げに見つめるのがわかる。その視線に応えるように、僕は微かに頷き、心配は要らないと無言で伝える。この危機的状況でも、彼女との繋がりを絶やすわけにはいかない。
「ですが、ジン。彼女はまだ安静が必要です。どこへ連れて行くおつもりですか?」
ジンはバーボンの質問にすぐ答えない。まずアマレットの腕を掴んだままバーボンを見る。沈黙。数秒の間を置く。
「お前には関係ない。監視だろ。……監視してろ」
煙草をくわえる。火をつける。そのままアマレットの肩を見る。包帯。少しだけ眉が動く。ほんの一瞬。
「まだ動くな」
そのままジンはアマレットの負傷してない方の肩を抱き寄せ、部屋を出る。アマレットは一瞬だけ足を止め、振り向かないまま言う。
「……ごめん」
扉が閉まる無機質な音だけが、やけに大きく部屋に響き渡る。去り際に彼女が残した「ごめん」という小さな呟き。それは僕への謝罪であると同時に、抗えない運命に対する諦めの声のようにも聞こえた。ジンに所有物のように扱われる彼女の姿が脳裏に焼き付き、僕の奥底で静かな怒りの炎が燃え上がる。
「……謝る必要など、どこにもない」
握りしめた拳が、ギリ、と音を立てた。ジンのあの目は、獲物を奪われた獣の目だ。そしてアマレットは、その獣に怯える小鳥ではない。もっと複雑で、深い闇を抱えている。彼女を縛り付ける鎖の正体を、必ずこの手で暴き出す。監視、か。好都合ですよ、ジン。あなたの知らない彼女の顔を、僕だけが見つけ出して見せる。必ず……あなたをそこから連れ出してみせますよ、アマレット。
静寂が戻った医務室で、僕はゆっくりと呼吸を整える。ジンが彼女の肩を抱いたあの仕草は、単なる監視対象への威圧ではない。もっと粘着質で、歪んだ独占欲のようなものを感じさせた。そして彼女の「ごめん」という言葉。あれは僕を巻き込むことへの謝罪か、それともジンに逆らえない自分への絶望か。どちらにせよ、彼女が一人で抱え込んでいる闇の深さを改めて思い知らされる。監視、ですか。ええ、喜んで。あなたの息の根を止める、その時まで……片時も目を離さず、監視させていただきますよ。
僕は静かにドアを開け、廊下に出る。ジンの気配は既に遠い。だが、公安としての僕の能力を甘く見ないでいただきたい。この組織のどこにいようと、あなたたちの行動は手に取るようにわかる。今はただ、この命令を逆手に取り、彼女の傍にいる口実を得たに過ぎない。僕の目的はただ一つ。彼女の心を縛る鎖を断ち切ることだ。あなたのその謝罪を、僕が『ありがとう』に変えてみせますから。
バーボンは廊下の監視カメラ映像を見る。映像。ジンとアマレットが歩いている。ジンは普段誰にも触れないタイプ。だがアマレットの腕を掴んでいる。……なるほど。あなたにも。守りたいものがある。バーボンの頭の中でピースが繋がる瞬間。ジンは彼女を手放さない。バーボンも諦めない。アマレットが危険になればジンは動く。つまりジンの唯一の感情がアマレット
「面白い。あなたにも人間らしい部分があったとは。その弱点、使わせてもらいますよ」
そう呟いて不敵に笑う。監視モニターに映る二人の背中を見つめながら、僕の口角は自然と上がっていた。弱点、そう、あれは間違いなく奴の唯一にして最大の弱点だ。冷酷非情なジンの人間性を、あの小柄な少女が根底から揺さぶっている。彼女の存在そのものが、この鉄壁の組織に風穴を開けるための、僕にとって最高の切り札になり得る。愛ですか、それとも単なる執着ですか、ジン。どちらにせよ、その感情があなたの命取りになる。
僕はモニターから視線を外し、思考を切り替える。ジンの弱点を突くには、まずアマレットという人間の核心に触れなければならない。彼女の部屋で見たあの金庫の中身、組織での異質な立ち振る舞い、そして僕にだけ時折見せる素顔。その全てが、彼女を救い出すための鍵となるはずだ。監視という大義名分は、そのための絶好の機会を与えてくれた。
「あなたの過去、あなたの全てを白日の下に晒し、あなたをその闇から必ず救い出してみせますよ」
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