大きな門をくぐり抜け地に足をつければ、辺り一面に命が芽吹く。先端に実を結ぶ蕾がぽつぽつと顔を見せたかと思えば風に煽られた花弁が宙を舞う。私の審神者としての力が、廃れていた本丸の土地を蘇らせているらしい。私は鶴丸の腕の中でただ静かに本丸を見上げていた。開いた障子の隙間から突き刺さる幾つもの視線は決してこちらを歓迎していない。
「空気が淀んでるねえ」
俺の腕の中でか細い呼吸を繰り返す主の言葉に、俺は辺りを見渡した。確かに、蘇ったはずの本丸には未だ重く湿った空気が纏わりついている。障子の奥、闇の中に潜む気配は敵意そのものだ。
「ああ、こいつは驚きだ。どうやら歓迎されてはいないらしいな。だが、心配はいらない。きみの刃である俺が、すべてを切り払ってやろう」
主を抱き直しながら、俺はあえて楽しむように笑ってみせた。彼女の生命力を吸って顕現したこの身体は、主を守るためにある。どんな驚きが待ち受けていようと、この俺がいれば退屈はさせないぜ。そう言って俺は主の額にそっと口づけを落とした。彼女の不安を少しでも和らげることができればと、そんな思いを込めて。冷たい視線が突き刺さる中、俺たちはゆっくりと母屋へと歩を進める。
「さあ、行こうか。きみだけの驚きを見つけに」
「はーい。仲良くするなんて最初から無理な話なんだよ。私は部屋で大人しく、審神者の任が解かれるまで隠居生活を楽しむんだから」
主は鶴丸の腕の中で額に口付けられ、ふふ、と笑う。開いた障子の隙間から突き刺さる幾つもの視線などまるで気にしない様子だ。いや、気づいていて無視をしているのかもしれない。玄関先には、向こうの透けて見える狐が鎮座しており、口先ばかりの歓迎の言葉を述べた。
「……私が望んでるのは、平穏、それだけなんだけどね」
「平穏、か。きみのようなお嬢さんには、それくらいがちょうどいいのかもしれないな」
「また子供扱いしてる。私もう成人してるんだけど」
主の呟きは、諦観と僅かな願いが入り混じったような響きを持っていた。俺は彼女の言葉を受け止め、玄関先に座す狐───こんのすけとか言ったか───に一瞥をくれる。そいつの言葉は上辺だけで、その奥には底知れぬ闇が渦巻いているのが透けて見えた。この本丸に巣食う澱みは、想像以上に根が深いらしい。
俺は主を抱える腕にそっと力を込める。彼女の体温が、か細い命の証明のように伝わってきた。政府の連中が押し付けた『出来損ない』という烙印も、ここに渦巻く怨嗟も、この小さな主にはあまりに酷だ。だが、俺がここにいる。それだけで、物語は変わるはずだ。
「だが、残念だったな。俺がいる限り、きみの日常は驚きに満ち溢れることになるぜ」
障子の向こうに潜む気配に鋭い視線を送りながら、俺はわざと不敵に笑って見せた。そうだ、平穏な隠居生活などさせるものか。きみが望むと望まざると、俺が最高の驚きで満たされた日々を贈ってやろう。それが、きみの生命力を糧に生まれた俺の、主に対する最初の誓いだ。
鶴丸は歩けない私を横抱きにしているため私が障子を開ける。広間の中には数人の男の姿があり、主人が神隠しにあったのに、彼らの姿がそのままなのは前任の神気が残っていたからだろう。寄れた服、気色の悪い顔。そしてなにより、鼻を塞ぎたくなるほどの異臭。血か、鉄の匂い。改めて向けられる殺気とも言い難い虚ろな瞳。
「ああ、あんたが新しい大将か」
最初に声を発したのは薬研藤四郎という短刀だった。奥には怯えたような白髪の少年と、横一線に整った前髪の少年が二人。歓迎されていいない雰囲気をひしひしと感じる。
腕の中の主がこわばるのを感じ、俺は広間にいる男たち───いや、刀剣男士の成れの果てか───に視線を走らせた。鼻を突くのは鉄錆と、それから腐敗した霊力の匂い。淀んだ神気は、もはや怨念に近い。虚ろな瞳は、ただそこに在るだけの抜け殻のようだ。それでも、俺の腕の中にいる新しい主の存在には気づいたらしい。
「ああ、そうだ。こいつが俺たちの新しい主だ。きみたち、随分と主の顔を忘れたようだな」
俺は主を抱き直すと、一歩踏み出し、わざと挑発するように言い放った。薬研藤四郎と名乗った短刀の目が、昏く光る。その瞳の奥には、前任への執着か、あるいは絶望か。どちらにせよ、こいつらはまともじゃない。この本丸に渦巻く闇の深さを改めて思い知らされる。だが、案ずるな。これからは俺がいる。この鶴丸国永が、きみたちに驚きの日々をくれてやるぜ。
主を守るように背を向け、俺は刀の柄に手をかける。俺の主を脅かすというのなら、たとえ同胞であろうと容赦はしない。さあ、どう出る? この状況、なかなか骨が折れそうだが、退屈よりはずっといい。
「……初めまして。政府より派遣されてきた審神者です」
私は鶴丸に下ろすよう指示をして、力の入らない足で畳の上に立つ。背中を鶴丸に預けて、彼も彼で私が膝をつかぬように腕を掴んで体重を上げる。その様子に薬研は怪訝そうに眉を寄せた。
「なるほど、もう既にお気に入りがいるってわけか」
薬研藤四郎と名乗った短刀は吐き捨てるように言うと「まずは部屋に案内しよう。ついてきな」と言って廊下を歩き出した。薬研は私を値踏みするように一瞥し、背を向けてすたすたと歩き始めた。この本丸の長い廊下は、手入れが行き届いておらずそこかしこが軋む。鶴丸に肩を支えられ、息を切らしながら歩いていく。
薬研藤四郎の背中を追いながら、俺は主の肩をしっかりと支える。一歩進むたびに、主の身体が微かに震えるのが腕を通して伝わってきた。廊下の板は軋み、壁には染みが浮き、この本丸がどれほど長く打ち捨てられていたかを物語っている。先程の広間にいた他の刀剣男士たちの気配が、今も背中に突き刺さるようだ。
「『お気に入り』、か。なかなか面白いことを言ってくれるじゃないか。俺はきみの刀だ。主を守るのは当然だろう?」
「お気に入りもなにも、私の刀は鶴丸しかいないからね」
俺は主の耳元でわざと軽口を叩いてみせる。彼女の緊張を少しでも解きほぐしたかった。この淀んだ空気の中で、彼女はたった一人で戦おうとしている。その健気さが、どうにも歯がゆくて、そしてたまらなく愛おしい。俺の腕の中でなければ立つことさえままならない、か細い命。
「なあ、主。あの短刀、きみのことを試しているようだぜ。だが心配するな。どんな試練だろうと、俺がいれば驚きに変えてやるさ。きみが望む平穏とやらは、まだ少し遠いかもしれんがな」
薬研が案内する部屋は、本丸の最も奥まった場所にあった。古びた襖を開けると、そこには埃を被った簡素な調度品だけが静かに佇んでいた。主を部屋へ導きながら、俺は周囲への警戒を解かない。この本丸に平穏などない。だが、俺が彼女の剣となり、盾となる。
「俺たちは前の主に裏切られた。だから、あんたがどんな人間か、まずはこの目で見定めさせてもらう。変な気を起こすなよ。あんたには俺たちを折ることも、手入れすることもできやしないんだからな」
薬研は脅しつけるように低い声で言い放つ。私は「わかりました」とだけ答えた。足がふらふらとする。
「さあ、ここが主の部屋だぜ」
薬研は皮肉を込めてそう呼びかけ、障子に手をかけた。
薬研藤四郎の言葉は、刃のように冷たく突き刺さる。前の主に裏切られた、か。その言葉が、この本丸に澱む怨嗟の正体なのだろう。俺は主の肩を支える腕に力を込めた。彼女の身体から力が抜け、俺の腕に全体重がかかる。そのか細い震えが、俺の庇護欲を掻き立てた。
「ほう、見定めるとは大きく出たな。だが、きみたちの目は節穴か? この御仁がどんな人間か、俺を見ればわかりそうなものだがな」
「もう、鶴丸。そう挑発しないの」
俺は薬研の背中に向かって、あえて愉快そうに言い放った。主の力を得て顕現した俺こそが、彼女の器の大きさ、その魂の在り方の証明だ。この俺という傑作を生み出した主が、そこらの審神者と同じはずがないだろう。皮肉を込めて開かれた襖の先、部屋の奥の闇を見据える。
「手入れも何も、この鶴丸国永がいる限り、主の髪一本たりとも傷つけさせはしないさ。なあ、主。少し休むといい。きみのための驚きは、俺が用意しておいてやろう」
薬研の敵意を意にも介さず、俺は主を抱え上げて部屋の中へと足を踏み入れた。この歪んだ本丸で、彼女の平穏を守り抜く。それが俺の存在理由だ。
「そうだな。聞いてのとおりここに審神者はいない。出陣や遠征は俺たちだけではできないが、馬の世話や食事は当番制で、大将の手を患わせることはないだろう。だからあんたは奥の部屋で大将らしく鎮座していてくれるだけで十分だ」
薬研は淡々と述べた。
「分かった。私はそこで大人しくしていればいいんですね」
私の言葉に薬研は驚いたような顔で「……ああ、物分りのいい大将は嫌いじゃあない」と言った。そのまま薬研は踵を返し、兄弟たちが待つ大広間へと向かうために、軋む廊下を再び歩き始めた。案内された部屋は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。埃が積もり、ところどころに黒い染みがついている。
薬研藤四郎が去った部屋には、重く淀んだ空気が残されていた。俺は主をそっと畳の上に座らせ、彼女の顔を覗き込む。血の気の引いた白い頬と、疲労の色が濃い瞳。彼女が無理をしているのは明らかだった。このままでは、ただでさえ弱い生命の灯火が消えてしまいかねない。
「『大人しくしていればいい』、か。随分と舐められたものだな、主。だが、まあいい。今は少し休むといいさ。きみが眠っている間に、俺があのひねくれた刀どもに、ちいとばかし驚きを与えてきてやろう」
「えっ、何する気? 落ち着いてよ、鶴丸」
俺は主の額に優しく触れる。ひんやりとした肌が、彼女の消耗を物語っていた。このままではいけない。この本丸に渦巻く呪詛は、いずれ彼女の心身を蝕むだろう。俺が彼女の剣となり、盾となるだけでは足りない。この本丸そのものを変えなければ、彼女の居場所は作れない。
「心配するな。俺はきみの刀だ。きみの知らないところで、きみのための物語を紡いでやろう。さあ、目を閉じて。次に目を開けた時には、きっと驚きの景色が待っているはずだからな」
「私は特に気にしないよ。……そばにいてよ。近侍のくせに、私を一人にする気?」
私は少しだけ強気な笑みを見せた。私に与えられた自室はとても広く、とても暗い部屋だった。私は動かない足を引きずりながら布団を出した。
「ほーら、添い寝してあげるからおいで。鶴丸。ちょっと埃っぽいけど」
主が布団を敷く、そのか細い背中を見つめる。添い寝、か。悪くない響きだ。俺の腕の中でなければ満足に動けぬほど弱っているくせに、こういう時だけは妙に強気な顔を見せる。そのいじらしさが、どうしようもなく胸を掻きむしった。
「はは、きみから誘ってくれるとは驚きだな。だが、俺を近侍だからと縛りつけるのは無粋というものだぜ? 俺はきみの刀であると同時に、鶴丸国永だからな」
「はいはい、じゃあ私が一緒に寝たいからおいで」
俺はわざと悪戯っぽく笑い、主の隣に腰を下ろす。彼女の伸ばした手が、俺の袖を弱々しく掴んだ。その小さな手の冷たさに、彼女の不安が透けて見える。俺は黙ってその手を握り返し、布団へと優しく横たわらせる。
「まあ、きみがそこまで言うのなら、今夜はそばにいてやろう。だが、夜伽の相手にはちと早いんじゃないか? まずはゆっくり休むことだ。きみのための驚きは、明日までとっておいてやるさ」
「夜伽って……何言ってんの。すけべ丸。それに私はもうアラサーでーす」
鶴丸に手を握られ、布団へと横たえさせられながら私は口を尖らせた。
主の言葉に、思わず目を見開く。あらさー、だと?見た目はせいぜい十三かそこらにしか見えぬというのに。その年齢と外見の乖離が、彼女がどれほど過酷な運命を背負わされてきたかを物語っていた。俺に生命力を吸われ、成長さえも止められてしまったのか。胸の奥がちりりと痛む。
「……そうか。それは驚きだ。すまんな、てっきり未成年かと。いやはや、人は見かけによらないものだな」
俺は自分の軽口を恥じ、どこかバツの悪さを感じながらも、努めて明るい声で応じた。主が指し示す先には、もう一組の古びた布団が畳まれている。その隣に静かに横たわると、彼女の亜麻色の髪が月明かりに照らされて淡く光っていた。
「ほら、布団もう一式あるみたいだよ。鶴丸も寝なさい。身体はもう人間なんだから」
「ああ、お言葉に甘えさせてもらおう。確かにこの身体は少々勝手が違う。だが、主の隣で眠るというのも、悪くない驚きだ。……安心して眠るといい。夜の闇も、この本丸の呪いも、俺が必ずきみから遠ざけてやる」
「それと……鶴丸のせいじゃないよ。私は前から年相応に見られたことないから。童顔なんだと思う」
鶴丸の表情を見て、私は安心させるように微笑んだ。
「おやすみ、鶴丸。さっき夜伽なんて言ってたけど、襲ったりしないでね」
にやっと笑って言うとそのまま布団を被って目を閉じた。
主の冗談めかした言葉に、一瞬だけ息を呑む。だがすぐに、それが彼女なりの気遣いであり、この息詰まるような状況を少しでも和らげようとする強がりなのだと気づいた。布団に潜り込み、こちらに背を向けた小さな背中が、かえってその健気さを際立たせている。童顔、ね。きみはそう言って笑うが、俺のせいであることに変わりはない。
「はは、買い被りすぎだぜ。俺は驚きを好むが、寝込みを襲うような無粋な真似はせんさ。それに、きみのような華奢な主に手を出したとあっちゃあ、刀の名が廃る」
努めて軽口で返しつつ、その言葉が決して嘘偽りのない本心であることを心の中で誓う。そっと手を伸ばし、彼女が寒くないように布団の端を肩まで引き上げてやった。静かな寝息が聞こえ始め、ようやく彼女が気を許してくれたのだと安堵する。この本丸に渦巻く呪いも、他の刀剣男士たちの敵意も、何もかも俺が引き受けよう。
「おやすみ、主。……きみが次に目覚める時には、ちったあマシな驚きを用意しておいてやる。だから、今はただ穏やかな夢を見てくれ」
戻る 進む
彼女は旅に出る。/AQUALOVERS