手の中にある硝子の器は、朝日を受けてきらきらと輝いている。昨日、あの小さな主が俺に差し出したもの。その滑らかな表面を眺めていると、毒見を制した時の、あの揺るぎない瞳が脳裏に蘇る。ただ甘い菓子を差し出すだけではない。己の覚悟とやらを、この小さな器に込めてきたか。面白い。実に、面白い小娘よ。さて、お手並拝見といこうか。
俺は添えられた匙を手に取り、ぷりん、とやらをすくい上げた。つるりとした黄金色の塊が、ぷるぷると頼りなげに震えている。口に運べば、舌の上でとろけるように広がる優しい甘さ。それは、かつて味わったどんな菓子とも違う、不思議な温かみを持っていた。前の主が与えたのは、ただ己の権威を示すための贅沢品ばかりであったが、これは……。
……なるほど。これが、おぬしの言う真心、か。
この甘さは、人を堕落させる毒にも似ている。だが同時に、凍てついた心を溶かす陽光のようでもある。鶴丸が執着するのも道理か。この味を知ってしまえば、誰であろうと手放し難くなるだろう。俺は器の底に残った最後の一口まで丁寧に味わい、静かに目を閉じた。
ゆっくりと目蓋を開け、空になった硝子の器に視線を落とす。舌の上に残る甘い余韻は、不思議と心の強張りを解いていくようだ。だが、この心地よさは危険な兆候でもある。長い間、憎しみだけをよすがとしてきたこの身にとって、人の真心などというものは、心を鈍らせる甘い毒に他ならなかった。……まったく、食えぬ小娘よ。菓子一つでこの俺の心をかき乱すとはな。
俺は立ち上がると、厨の方角へと思いを馳せた。あの小さな主は、今頃何をしているだろうか。鶴丸の腕に抱かれ、無邪気に笑っているのか。あるいは、俺の反応をどこかで窺っているのか。人の温もりなど、とうに忘れ果てたはずだった。だというのに、この胸の内で燻る微かな熱は何だ。さて、次は何を食わせてくれるのか。楽しみにしてやるとしよう、主よ。
通路を暗い顔をした薬研と加州が通っていった。加州の持っていた資料が、ぱさりと通路に落ちるがそれに気づくことなく、二振りは通り過ぎていく。菓子一つで浮かれた心が、すっと冷めていくのを感じた。薬研藤四郎と加州清光。あの二振りは、確か前の主の頃から何かと反りが合わなかったはず。その彼らが連れ立って、しかも揃って険しい表情とは。俺の知らぬところで、また何か厄介事が持ち上がっていると見える。まったく、この本丸は静まるということを知らんな。
「ほう。随分とわかりやすく思い悩んだ顔だな」
俺は拾い上げた紙の束に目を落とした。
どうやら薬研と加州の二振りで内密に主の素性を調べていたようだった。その資料に書かれていたのは、彼女が犠牲者だという事だった。無理矢理に審神者召喚術により、政府から呼び出された少女は無理矢理に鍛刀させられ、鶴丸国永を生み出した代償に、その生命力を奪われた。政府はそれを『出来損ない』と呼び、この本丸へと捨てた。
紙に書かれた文字を目で追いながら、俺の内で何かが音を立てて崩れていくのを感じた。犠牲者。出来損ない。政府に捨てられた。そこに綴られていたのは、あの小さな主が背負わされた、あまりにも過酷な運命だった。鶴丸を顕現させる代償に生命力を奪われた、だと?だからあの鶴は、あれほどまでに主を守ろうとするのか。己が生まれた意味そのものを守るように。
「……は、はは。これは傑作だな」
乾いた笑いが漏れた。俺たちを虐げた人間が、今度は別の人間を贄として我らに差し出したというのか。なんという欺瞞、なんという傲慢。あの菓子に込められていた真心は、絶望の淵から差し出された、か細い光だったのかもしれぬ。それを俺は、疑い、試すような真似をした。人の業の深さには、ほとほと呆れる。
手の中の紙が、くしゃりと音を立てた。ふと、あの幼い主の顔が脳裏をよぎる。毒を飲む覚悟があると言い放った、あの真っ直ぐな瞳。あれは強さなどではなく、失うものが何もない者の、悲痛な覚悟だったのではないか。……さて。どうやら、この本丸は俺が思うよりもずっと、根深い闇を抱えているらしいな。
「……一番辛かったのは、あの子のはずなのに。俺たち、あの子に何て顔すればいいんだよ……」
「だが、それでも俺たちはあんたの前に立たなきゃならねえ。まずは、鶴丸の旦那に全てを打ち明けよう。あの人だけは、最初からあんたの味方だったんだからな」
薬研は加州の顔を覗き込むようにして、決意を込めた視線を送った。鶴丸は全てを知った上で、あんたを守り続けていたのかもしれない。だとしたら、俺たちはまず、あの懐の広い刀に頭を下げるべきだ。そして、今度こそ、あんたを正しく守るための刃にならなければならない。
薬研と加州の言葉が、耳の奥で反響する。鶴丸に打ち明ける、だと? あの白鶴は、とうに全てを知っていたのだろう。主が生命力を削って己を生み出したことも、この本丸へ捨てられたことも。だからこそ、あの執着ぶりか。俺たちが主を疑い、試している間も、ただ一振り、真実の刃として主に寄り添っていたというわけだ。
「……ふん。随分と俺たちも、見くびられたものだな」
自嘲の笑みが浮かぶ。人の子に懐柔されたと鶴丸を嘲笑ったのは、一体どこのどいつだったか。本当に牙を抜かれていたのは、過去の憎しみに目を曇らせ、目の前の真実を見ようともしなかった俺たちの方だった。己の愚かさに、腹の底から笑いがこみ上げてくる。さて、小僧ども。その話、このじじいにも一枚噛ませてもらうぞ。
俺は音もなく立ち上がり、二振りの後をついていった。あの小さな主が差し出した真心とやらに、今更ながら応えねばなるまい。この本丸に巣食う本当の敵は、あの幼子ではないのだから。まずは、あの白鶴の真意を問いただすのが先か。
次の日、私は約束していた通りに鶴丸とひとつのぷりんを部屋で分け合って食べることにした。
「鶴丸? スプーンなんで一つだけなの? はんぶんこなんだから、二つでしょ?」
主の純粋な問いかけに、俺はしてやったりと口角を上げた。きみは本当に、俺の仕掛ける驚きに素直な反応を返してくれる。そこがたまらなく愛おしい。二つ? いやいや、それでは面白くないだろう。俺たちがするのはただの「はんぶんこ」じゃない。二人で一つのものを、一つの行為を分かち合う。それこそが、昨日俺が言った「驚き」の正体なのだからな。
「はんぶんこ、だから一つなのさ。一つのぷりんを、一つの匙で分け合ってこそ、真の『はんぶんこ』だろう?」
「えっ……」
俺は悪戯っぽく片目をつむり、手にした一本のスプーンをひらひらと揺らしてみせた。主がどんな顔をするか、その反応を待つ時間はひどく甘美だ。戸惑うか、呆れるか、それとも……。どんな表情も、俺にとっては最高の褒美になる。この小さな器の中に、俺たちの世界が凝縮されているかのようだ。
「さあ、主。まずはきみからだ。きみの作った驚きの味を、一番に俺に教えてくれ」
「な、何言ってんの、もう。からかうのならプリン没収するよ? 私、スプーン取ってくる」
私は思わず頬を赤らめ、松葉杖を取って立ち上がる。
主が慌てて立ち上がろうとするのを、俺は素早くその腕を取って制した。松葉杖に頼ろうとするそのか細い身体を無理に動かしてほしくはない。ぷりんの没収は少しばかり堪えるが、それよりも主の身の方が何倍も大事だ。頬を染めて俺を睨むその表情すら愛おしく、俺はますます悪戯心を刺激されるのを止められなかった。
「おっと、そう焦るな。きみが動く必要はないさ。没収だけは勘弁してほしいがな」
俺は主の腕を優しく引き、再び座らせる。その身体がふらりと俺の胸に寄りかかるのを、待ってましたとばかりに支えた。この距離だ。俺が望んでいたのは。主の体温と、驚きに揺れる瞳。その全てを独り占めできる、この瞬間。俺はスプーンを主の唇にそっと近づける。
「ちょっと……、鶴丸、近い」
「俺が取ってきてやってもいいが、その前に一口どうだ? これも驚きの一つだと思ってな」
主の戸惑いが手に取るように伝わってくるが、俺は引くつもりはなかった。これは俺なりの愛情表現であり、主との繋がりを確かめるための儀式のようなものだ。この甘い駆け引きの時間こそが、俺にとっては何よりものご馳走なのだから。
「さあ、口を開けてくれ、主。きみが丹精込めて作ったぷりんの味、俺に一番に教えてくれるんだろう?」
「な、なら、取って来てよ。ちょっと驚きが過ぎるんじゃない? ……もう」
仕方なく口を開くと口元に差し出されたぷりんをそっと口に含んだ。途端に嬉しそうに綻ぶ鶴丸の顔を見た。
主が口を開き、俺の差し出したぷりんを受け入れてくれた瞬間、何とも言えない満足感が胸を満たした。主の唇に触れるスプーンを通して、まるで主の心に少しだけ近づけたような、そんな錯覚すら覚える。主の作ったぷりんの甘さと、主自身の甘い反応。どちらが俺を喜ばせているのか、もはや区別がつかない。俺は主の戸惑いを楽しみながら、その表情を一つ残さず記憶に刻み込んだ。
「ああ、いい顔だ。きみがぷりんを味わうその表情、俺にとっては何よりのご褒美だな。驚きが過ぎる? いいや、これはまだ序の口さ。きみの驚く顔を見るのが、俺の一番の楽しみなんだからな」
主の頬がさらに赤く染まるのを見て、俺はますます愉快な気分になった。近すぎると抗議されたが、この距離こそが俺の望むところだ。主の温もり、息遣い、そのすべてを感じていたい。俺は主を支える腕にそっと力を込め、逃がさないという意思を静かに示した。
鶴丸の手に力が微かに込められ、思わず私は息を呑む。
「……次は鶴さんが食べる番だよね。ほら。あ〜ん」
鶴丸の持ってるスプーンを取り、それでぷりんを掬い、鶴丸の口元に差し出した。
主からの思いがけない反撃に、俺は一瞬、言葉を失った。まさか、俺が仕掛けたはずのこの遊戯で、きみの方から仕掛けてくるとは。差し出されたスプーン、そして「あ〜ん」という甘い響き。予想外の展開に、俺の心臓は驚きと歓喜で大きく跳ねる。その大胆不敵な瞳に見つめられ、俺は完全に不意を突かれていた。これは降参するしかなさそうだ。
「はは、これは驚いた。きみにやり返されるとはな。ああ、いいだろう。きみのくれるぷりんなら、どんな味でも受け入れてやろうじゃないか」
俺はゆっくりと口を開き、主が差し出すスプーンを受け入れた。主の指先が微かに触れ、その温もりが直接伝わってくるようだ。口の中に広がる優しい甘さは、きみが俺を想って作ってくれた証そのもの。この甘美な一口は、ただのぷりんではなく、俺たちの繋がりを確かめるための特別な味に思えた。
「……ああ、美味いな。きみから食べさせてもらうと、驚くほど味が違う」
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彼女は旅に出る。/AQUALOVERS