ぷりんを食べ終える頃、障子に影が映った。
「……鶴丸の旦那、いるかい。薬研だ。加州も一緒だ。大事な話がある」
部屋の外から聞こえる、薬研の意を決したような声。鶴丸はすぐに「ああ、入れ」と涼やかな声を返した。薬研と加州は顔を見合わせ、覚悟を決めて障子に手をかける。中には、主を膝の上に乗せ、穏やかに髪を撫でている鶴丸の姿があった。その光景の尊さに、薬研たちは息を呑む。
「……忙しいところ、すまねえ。あんたに、そして大将に、話さなきゃならねえことがある」
薬研と加州は深々と頭を下げた。私は薬研たちの突然の来訪に驚いて、鶴丸の背中に隠れる。
「……話さなきゃならないことって?」
主の身体がびくりと震え、俺の背中にしがみつく気配に、甘く蕩けていた意識が急速に覚醒していく。薬研と加州、この二振りが揃って、しかもこれほどまでに改まった様子で訪ねてくるとは。障子の向こうから聞こえる声の硬さから、ただ事でないのは明らかだった。俺は主を怖がらせぬよう、その背をゆっくりと、宥めるように撫でてやる。
「そう畏まるな。話があるなら聞こう。だが、見ての通り主は驚いている。あまり物騒な話でないといいんだがな」
「……いや、何も物騒な話をしようってんじゃねえ」
俺の言葉に含まれた静かな圧力を感じ取ったのか、二振りはわずかに息を呑んだ。俺は主を腕の中にしっかりと抱き直し、その小さな頭を自分の胸元に引き寄せる。この温もりを脅かすものは、たとえ仲間であっても容赦はしない。この穏やかな時間を壊したからには、相応の理由があるのだろうな。
「それで、俺と主に話さねばならん大事な話とやらは何だ? 出し惜しみはなしだぜ」
「ごめん。俺たち、あんたのこと、何も知ろうとしないで勝手に誤解して、酷い態度とって……本当に、ごめん」
加州の震える声が部屋に響く。薬研も加州の隣に並び、床に両手をついて深く頭を下げる。
「……俺たちは、あんたという人間を見ようともせず、自分たちの過去の傷に囚われて、あんたを憎むという一番楽な道を選んじまった」
鶴丸が主の背を優しく撫でる音が聞こえる。
「もし、叶うなら……俺たちにも、あんたを守るための刃になる機会をくれないだろうか。これまでの非礼、言葉だけじゃ償いきれねえのはわかってる。だから、これからの行動で示させてほしい。あんたの刀として、今度こそあんたのために戦いたいんだ」
薬研と加州の言葉は、驚くほど真摯な響きを持っていた。床に擦り付けられた額、震える声。それは、彼らが抱えてきた後悔と痛みの深さを物語っているようだった。俺は腕の中の主が息を詰めるのを感じながら、二振りから視線を外さずにいた。こいつらの言葉を信じていいものか。この本丸に渦巻く澱んだ空気の中で、純粋な忠誠心などというものが、そう簡単に生まれるものだろうか。
「……頭を上げろ。その言葉が真実かどうかは、あんたらのこれからの働きで示してもらうことになる」
俺は静かに告げ、主の背中をさらに優しく撫でた。恐怖に強張っていた主の身体が、ほんの少しだけ和らいだ気がする。そうだ、決めるのは俺じゃない。この本丸の主である、この子だ。こいつらの刃が、今度こそ主に向けられるのか、それとも主を守る盾となるのか。それを見極める必要がある。
「だが、俺があんたらをどう思おうと関係ない。大事なのは、主があんたらを信じられるかどうかだ。きみはどうしたい? 主よ」
「私は───」
「その言葉、そっくりそのままこのじじいにも返させてもらおうか」
ひょっこりと現れた三日月に加州と薬研の驚く気配がする。三日月はゆっくりと歩みを進め、鶴丸の腕の中で小さく身を震わせる主に視線を合わせた。
「主よ。これまで数々の非礼、許せとは言わん。だが、一つだけ問わせてくれ。おぬしは、それでも我らを主として導くと、そう誓えるか。俺にも、おぬしを守るための刃として付き従う機会をくれぬだろうか?」
三日月はそう言って頭を下げた。
三日月宗近、その男が突如として現れたことに、俺の全身の神経が逆立った。薬研たちの真摯な謝罪の直後を狙ったかのような登場、そして芝居がかった物言い。そのすべてが計算ずくであるかのように思え、腹の底で冷たい怒りが渦を巻く。腕の中の主が恐怖で小さく震えるのを感じ、俺は守るようにさらに強く抱きしめた。
「……どの口がそれを言う、三日月宗近。つい先刻、主の足を嘲笑っていた男がよくも言えたものだな」
俺の静かな非難に、その美しい顔は微塵も揺るがない。その余裕綽々な態度こそが、こいつの食えないところだ。こいつの言葉は甘い毒だ。主の優しさにつけ込み、その心を自分の意のままにしようとしているのが透けて見える。俺は主をこの男の毒牙から守らねばならん。絶対にだ。
「主よ、こいつの言葉に耳を貸す必要はない。きみが心を決めるのは、こいつらの誠意を見極めてからで十分だ」
「……もう、顔を上げてください。皆さんが本当に私の刀になってくれるのなら……私を、主と呼んでくれますか」
か細く、けれど凛とした声が響いた。加州たちが顔を上げると、主は鶴丸の腕の中から真っ直ぐに加州たちを見つめていた。主は震える声で、それでもはっきりとそう告げた。そのシンプルな願いの重さに、薬研は胸を突かれ、言葉を失った。
「……っ、あるじ……」
加州の喉から絞り出した声は掠れていた。堪えていた何かが決壊して、視界が滲んでいく。
「主……! 俺、あんたの刀として、今度こそ……っ!」
言葉が続かなかった。ただ、熱いものが頬を伝っていく。
腕の中で震えながらも紡がれた主の言葉に、俺は息を呑んだ。「主と呼んでくれますか」。そのあまりにも純粋で、あまりにも切実な願いが、この本丸に澱んでいた空気を浄化していくかのようだ。目の前で嗚咽を漏らす薬研と加州の姿に、彼らの言葉が偽りではなかったのだと、ようやく腑に落ちる。だが、俺の警戒心は未だあの天下五剣に向けられたままだ。
「その涙が真実であると信じよう。だが忘れるな。きみたちの主は、このか細い身体で、あんたら全てを受け入れると決断されたのだ」
俺は主を抱く腕に力を込め、その温もりを確かめる。この小さな主が下した大きな決断。その重みを、俺が傍で支えねばならん。視線の先では、三日月宗近がゆっくりと顔を上げた。その美しい顔に浮かぶ表情は、果たして真の忠誠か、それとも新たな企みか。俺は鋭い視線でその男を射抜きながら、主の耳元にだけ聞こえるように、そっと囁いた。
「……よく言ったな。きみは、驚くほど強い主だ」
「……大将」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。薬研は三日月に倣い、主の前に深く跪く。視界の端で、鶴丸の旦那が満足そうに頷いたのが見えた。
「この薬研藤四郎、これよりあんたを主と認め、この身命を賭してお仕えする。どんな苦難があろうとも、あんたの刃として、あんたが進む道を切り拓こう。兄者に代わって、今度こそ俺が、あんたを守り抜いてみせる」
薬研藤四郎の覚悟を宿した声が、この澱んだ本丸の空気を切り裂くように響き渡る。その言葉一つ一つに込められた重みと、過去の非礼を乗り越えようとする強い意志を感じ、俺は腕の中の主の肩をそっと抱き寄せた。そうだ、これでいい。こいつらはようやく、自分たちの刃が誰のためにあるべきかを悟ったのだ。安堵と同時に、俺の視線は自然とまだ跪いたままの男、三日月宗近へと向けられた。
「……さて、見事な誓いだったな、薬研藤四郎。その言葉、違えるんじゃないぞ」
俺は薬研の忠誠を認めつつも、その言葉を釘として三日月に打ち込むように、静かに、だがはっきりと告げた。こいつの腹の内はまだ読めない。薬研や加州のように心からの忠誠を誓っているのか、それとも別の思惑があるのか。この天下五剣の美しい顔に浮かぶ穏やかな微笑みの裏に隠された真意を、俺は見極めねばならなかった。主を危険に晒す芽は、どんな小さなものであっても摘み取っておかねばならん。
「……ああ。あんたが俺たちを信じてくれるなら、俺たちはあんたの剣となり、盾となろう。だから、どうかこれからは俺たちを頼ってほしい。それが、俺たちの主への一番の忠義だ」
薬研は跪いたまま、主の顔を真っ直ぐに見上げた。
「……うん。ありがとう、主。この加州清光、今日この時から、あんたのためだけにこの刃を振るうよ。だから、うんと可愛がってよね」
涙を乱暴に袖で拭い、加州は努めて明るい声でそう言って、不器用に笑ってみせた。三日月はゆっくりと立ち上がり、改めて主へと向き直った。
薬研と加州の言葉は、乾いた大地に染み込む水のように、この本丸の者たちの心を潤していく。俺は腕の中の主の肩をそっと叩き、その健闘を讃えた。だが、安堵の息を吐く間もなく、三日月宗近がゆったりと立ち上がる気配に、俺の神経は再び張り詰める。その優雅な立ち姿、穏やかに主を見つめる瞳。そのすべてが、完璧に磨き上げられた刃のように美しく、そして底知れぬ凄みを帯びていた。
「……さて、他の者たちの覚悟は見せてもらった。天下五剣、三日月宗近。きみの番だな。どのような驚きを我々に見せてくれる? 口先だけの誓いなら、主も俺も必要ないぜ」
俺は挑発するように口の端を吊り上げた。こいつが主に向ける視線には、忠誠とは異なる、まるで美しい道具でも品定めするかのような粘つく色が混じっているように思えてならなかった。この男の真意を暴き、主をその毒牙から守らねばならん。俺は主の前に半身をずらし、盾となるように立ちはだかった。
「きみの忠義とやら、その言葉だけで俺が信じるとでも? この本丸で最も主に牙を剥いてきたのは、他ならぬきみだろう」
鶴丸国永の射抜くような視線を、三日月は静かに受け止めた。
「ふはは、随分と厳しい目つきよな。だが、それもよかろう。おぬしのその疑念、俺がこれからの働きで晴らしてみせようぞ」
三日月はゆっくりと立ち上がり、改めて主へと向き直った。
三日月の言葉は、まるで綿に包まれた毒針のように聞こえた。働きで示す、だと? その言葉の裏で何を企んでいるのか。この男の優雅な微笑みは、底なしの沼のように不気味だ。俺は腕の中でぐったりと体重を預けてくる主の存在に意識を戻す。そうだ、こいつの腹を探るよりも先に、まずは主を休ませることが先決だ。これ以上、この男と同じ空気を吸わせるわけにはいかない。
「ほう、働きで示すか。それは期待できるな。せいぜい主に仇なす輩を斬り捨て、その忠義とやらを見せてくれるといい」
俺は三日月に背を向け、腕の中の主の顔を覗き込む。
「さあ、主。もう十分だ。部屋に戻って休もう。きみのための温かい粥が待っているぜ」
三日月は一歩前に出ると、鶴丸の横を通り過ぎ、主の目の前で再び深く頭を下げた。その所作は流れるように美しく、彼の決意の固さを物語っているようだった。
「主。俺の罪は言葉で償えるものではない。故に、これからの俺の全てを以て、おぬしに忠誠を誓おう。この三日月宗近、おぬしの刃となり、おぬしを脅かす全てのものを斬り払うと。……どうか、俺をあんたの刀にしてくれ」
私は鶴丸の腕の中からそっと抜け出し、鶴丸の隣に並んで座った。
「こちらこそ、これからよろしくお願いします。来てくれて本当にありがとう。加州、薬研、三日月。これから少しずつ環境を整えていきましょう」
腕の中からするりと抜け出した主の温もりが消え、一瞬の寂寥感に襲われる。だが、俺の隣に並び立ち、三日月たちに向かって毅然と告げるその姿は、先程までの弱々しさが嘘のように凛としていた。その小さな背中に、この本丸の未来を背負う覚悟を見た気がして、俺の胸は熱くなる。そうだ、きみはただ守られるだけの存在じゃない。俺が驚かされるほどの強さを秘めた、俺の主なのだ。
「……ああ、その意気だ、主。きみがそう言うのなら、俺も否やはない。こいつらの働き、この目で見定めるとしよう」
「……主よ。まずはゆるりと休むがよい。この本丸の立て直しは、骨が折れるであろうからな。このじじいも、存分に力を貸そうぞ」
俺は主の肩を抱き寄せ、三日月たちを鋭く見据える。こいつらが主の信頼を裏切るようなことがあれば、その時は俺が斬る。その無言の圧を込めて睨みつけると、三日月は優雅な笑みを崩さなかった。食えない男だ。だが今は、この小さな主の決意を尊重するのが俺の役目だろう。
「そうだ、立て直しは明日からだ。きみの身体が資本だからな。今夜はゆっくり休むといい。俺がずっとそばにいる」
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