
ゆめうつつ
むかつく。
むかつく。
むかつく。
どうして私があの眼鏡に負けなきゃいけないの。
どうして私が今、こんなに惨めな思いをしなくちゃいけないの。
どうして。
どうして。
「出てって!」
こんな姿、誰にも見られたくない。言い放った声は思ったよりも大きく響き、部屋に沈黙が訪れた。
「雄太、麓郎。ご飯行こう。多分この調子じゃすぐには戻らないだろうから」
華がそう言い残し、ドアがばたんと閉まる。再び流れる静寂の中で足音が遠のき、自ずとため息が出る。
最後のあの瞬間、ワイヤーを使って動き出したのは我ながら上出来だった。けれど、思うように動けなかった。それがただただ、悔しかった。
私の人生のピークはいつだったろう。勉強も体育も音楽も、クラスの中で一番できた。
中学生の時、テスト前に勉強を教えてほしいと頼まれたことがある。サッカー部で、とてもモテる男の子からだ。いざ教えようとすると、何が分からないのか分からないという。幻滅した。「こんなことも分からないの?」 責めると彼は黙って教室から去り、それ以来話すことはなくなった。
ボーダーに入隊してから、上には上がいることを知った。平均よりも高いトリオン量に安心したのも束の間、待っていたのは競争の世界。自慢の飲み込みの速さで技を覚えても化け物には適わない。私は天才にはなれなかった。
飽き性である一方で、及第点以上を取れることは不幸中の幸いだ。ポジションを変えつつも、ボーダーに所属し続けた。新しいことを攻略することは常に楽しい。けれど、そのフィールドで一番になれないことは苦痛以外の何物でもなかった。
分かっている。
強くなる必要がある。
分かっているのに、認めたくないのだ。自分が弱いことを。努力はしたくない。だけど認めて欲しい。だって元々できる方だし。それでもこんなにボロ負けしているのは、そういうことなのだろう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!嫌!!!!」
スマートフォンを無造作に投げる。負けてばかりの毎日。つまんない。こんなことばかりなら、ここを放り出して買い物に行きたい。ドラッグストアでどうでもいい色のマニキュアを買って、その帰りに百均に寄って、コンビニでフラッペを買って家路に就きたい。涙と乱れた呼吸とぐちゃぐちゃの思考が混ざって窒息しそうになる。常に胃の底からふつふつと何かが押し出されそうだ。誰もいなくて良かった。こんな姿、人に見せられたもんじゃない。
投げたスマートフォンを拾いに、のろのろと床から立ち上がる。思い切り投げたにも関わらず、幸いにも傷は付いていない。時刻は二十一時を過ぎようとしていた。
スマートフォンを取り、いつもの癖でゲームアプリを開こうとすると、こんこんとドアが控えめに鳴った。
「葉子、いる?」
華の声だ。慌ててスマートフォンをポケットに仕舞いドアを開けた。思いのほか勢い良く開けてしまったのか、華の前髪がぽふっと膨れるように揺れた。それがなんだかおかしくて、つい頬が緩んでしまう。
「お腹空いたでしょ。シュークリーム買ってきたよ」
華の手には行きつけのお店の袋。放課後、お店の前を通るとバターの匂いがふんわりと香る、大好きなお店のものだ。
ぐうううう、とタイミング良くお腹が鳴る。
「今日お昼サラダしか食べてないでしょ。ちゃんと食べなきゃ大きくなれないわよ」
「もうこれ以上大きくなれないわよ!」
くすくすと、華が笑う。
ダイエット中だけど、まあいいか。それにしても、どうして泣くとお腹が空くのだろう。感情を解放させるとカロリーも消費するのだろうか。
さめざめと雨が降る日だった。放課後の午後三時はぽっかりと穴が開いたようで、あたしはただ、窓越しの灰色の空を眺めていた。湿気が足元から這い上るような心地が気持ち悪く、かと言って外にも出たくない。それは雨が降っているのはもちろん、一人になりたかったからだ。
アタッカーとしての実力の限界を知ったこと。学校の成績が下がったこと。おでこにニキビができたこと。嫌なことは続けて起こるものだ。今日だって、予報外れの雨でずぶ濡れになって家に着いた。そんな時あたしは誰にも会わず、一人部屋に閉じこもりたくなる。ここだけが、あたしが唯一守られるべき場所。
ベッドの上でうつらうつらしていた。どれぐらいの時が経ったのだろう。道行く小学生たちの声が遠く聞こえる程度に、軽い眠りに落ちかけていた。
「葉子!華ちゃんが来てるわよ」
ママの声が私の眠りを打ち砕く。はたと夢から醒めると、相変わらず雨は止むことを知らない。髪もぐちゃぐちゃで、余計誰にも会いたくない。それでも、部屋の外で待っているのが華であれば。
「はあい、今行く」
乱れた髪を整え、眠い目を擦って部屋を出た。
雨だというのに、どうしてわざわざ来るのだろう。幼馴染とはいえ、改めて来られると少し気恥ずかしい。
華はというと、片手に紙袋を抱えていた。
「これ、食べて。好きでしょ」
覗けば、あたしの大好きな煎餅が入っていた。それを届けにわざわざ来たというのか。
「じゃあ私はこれで。葉子の顔が見れて良かった」
「へ?もう行くの?」
「葉子はこういう時、一人でいるのが一番いいと思うから。これでも少しおせっかいだったかも、って思わないでもないけど」
華はさらりと言って、そのまま元来たであろう道を歩き出した。ぱらぱらと、雨が地を打つ音だけが響いていた。
確かに、あたしはむしゃくしゃする時は一人にして欲しかった。醜態を他人に見られるのは嫌だし、周りと気まずくなるくらいだったらひとり閉じ籠っていた方がマシだから。それでも、華はあたしのところへやってきた。確かに嬉しかったのだ。こんなあたしに会いに来てくれたのが。気付いた頃には華は向こうの曲がり角を曲がっていた。
「ごめん」
届かないはずの一言が、せめてもの償いにと洩れた。
「何ぼーっとしてるの」
「ううん、少し昔のことを思い出してたの。あ、華もどう?」
「葉子こそ、時間遅いけどいいの」
「別にいいの。予備校に通ってる子だって帰りの時間はこんなもんでしょ」
そうね、と納得した華は作戦室の奥のテーブルに腰かけた。あたしはお湯を沸かして、華は中身を広げる。このように二人向き合って座るのはいつぶりだろう。ランク戦の時こそ同じテーブルを囲っているけれど、完全プライベートの状態で一緒にいるのは珍しい。学校が違うから仕方ないとはいえ、だからこそこの機会を逃してはいけないのだと、思う。
「少しは落ち着いたかしら」
「華と話せるくらいにはね」
マグカップに注いだ紅茶を華に渡す。紅茶の表面に反射する華の視線からは、何を考えているのかいまいち読み取れない。
「葉子から誘うなんて珍しいわね」
紅茶を啜りながら華が言う。華もきっとあの時と同様、あたしのことを気にかけて遅い時刻にわざわざ戻って来たのだろう。
「一人でいるの、もう飽きたから」
「そう」
夜の作戦室はがらんとしていて、何よりも静かだ。沈黙を破るようにシュークリームの包みを剥がした。中身のカスタードクリームが飛び出ないように恐る恐る頬張ると、甘くてとろける感触が口の中に広がった。程よい甘さが空腹を訴え続ける脳にダイレクトに染み渡る。疲れた時には甘いものが一番だ。
無心でもぐもぐと食べ続ける。クリームを零さないのに必死で、視線がどうしてもシュークリームに集中してしまう。それでもこの沈黙が苦でないのは、目の前にいるのが華だからだろう。華の前では無防備でいることが許されるような気がする。やっとの思いで食べ終え、呼吸を一つ置いてから彼女の方を向いた。
「ねえ」
「華はあたしが弱気になっても見捨てない?」
沈黙を破ったのはまたあたしだった。華ははっと、あたしに視線を移した。
「見捨てるも何も、決めるのは葉子自身でしょ。私は葉子がどんな選択をしようとも、その事実を認めるだけだわ」
華は昔からずっと変わらない。究極のリアリストで、目の前の事実をしかと受け止め、その中で最善の解決策を編み出すことに長けている。この回答が果たして答えになっているかは分からないけれど、相手があたしだろうとその姿勢は変わらないようだ。
「でもね」
その時華は初めて、あたしと目を合わせた。
「どんな選択をしようと、私は葉子の背中を押すわ」
華は確かにそう言った。真っ直ぐな瞳で、穏やかに微笑みながら。
いつだってそうだ。ふらふらと新しい世界に足を踏み入れるあたしを、華は引き止めたりしない。そのおかげでここまで来れたのだと思う一方で、いつかこの手が、自分のせいで離れてしまうのではないかという不安もあった。何があってもあたしはここにいる――そのことを、華にも分かってほしい。だから。
「何言ってんの。あたしは華の隣にいる選択しかしないわよ」
だん、とテーブルを叩いて立ち上がっていた。華はこういう時押しが弱い。だったらあたしがこの手を繋ぎとめる。華はきょとんとして、どうしたの?とでも言いたげな顔をしている。
「絶対離さない、目の前からいなくなるとか許さないわよ」
かっと耳が熱くなるのも気にせずに言う。寧ろこの高揚は心地よいものだった。華は黙ってあたしを見つめているけれど、そんな華だって目を見開いている。
カップに残った紅茶はすっかり冷めていた。
時刻は二十二時半を回っている。それでもボーダー内は明るく、すれ違う大人は皆緊張感を保っていた。二十四時間限界体制。そんな施設がすっかり日常になっていた。
「帰り遅いから気を付けて」
「うん」
「それから」
歩こうとした矢先、華が引き止めるからあたしは即座に振り返った。
〈ありがと〉
聞こえなかったけれど、華の口はそう動いていた。
「こちらこそ」
軽く手を振り、歩き出す。振り返らない。そのやり取りだけであたし達は満たされているから。振り返らなくても、隣にいることが分かるから。
風があたしの髪を揺らす。二月も後半を過ぎたとはいえ、冬の気配はまだ消えそうにない。それでもこの寒さが苦痛ではないのは、先の興奮が冷めていないからだろう。やばい、浮足立っている。このまま歌いながら走り出したいけれど、やけに眩しい月明かりに見透かされているような気分になるし、華も近くにいる。人目につかない夜道を平静を装って歩かなければならないのが、こんなにももどかしいなんて。
今夜は眠れるだろうか。ただでさえ家に着くのも遅いというのに、この高揚感のままあたしは朝を迎えそうだ。眠れなくたって、寝坊したって、必ず朝はやってくる。そんな日常の隣に華がいたら、もっといい。軽くなった足取りのまま、思わずスキップする。
「また明日ね」
もう一度振り返って華に呼びかける。華は確かに、あたしを見て微笑んだ。