
忘れないでいてあげる
早く離してしまいたい。
この感情が夢のままで終われるように。
幻だったと、思えるように。
どこまでも乾いて冷たい風が頬を刺す。孤独で、光が見えない季節。冷たさも痛みも温度も、私が選んだ恋の道とそっくりだ。
「まだ引き摺ってるの?」
理佐が、紙コップに入ったコーヒーを啜る。ふんわかと香りが漂う中、私は婚約相手と歩く彼を見送った。一歩先を行く彼は、この組織の中でも頭が切れる人で――営業部長だと言う――本部の偉い人達に見守られながら去っていった。おおよそ、紹介と言ったところだろうか。わざわざ報告するくらいなのだから、相手はかつての関係者かもしれない。
「引き摺ってないよ」
「嘘だあ。顔に未練たらたらです、って書いてある」
「駄目だなあ。指輪を見た時に諦めたはずなのに」
「やっぱり引き摺ってる」
理佐は鋭い視線を投げかけながら、私の本音を暴き出す。思ったことをストレートに言うところが、理佐の好きなところなのだけれど。
ほらね、叶わない恋なんだよ。
図星を突かれたのも束の間、笑って誤魔化すのも虚しく、冷たい涙が頬を伝う。
「ごめんて、そんなつもりじゃなかった」
理佐の細くて長い指が、私の涙を掬う。私は目を閉じ、身を任せた。背伸びして付けたロングマスカラに触れる指が、優しかった。
ゆっくりと瞳を開けると、理佐はいつもの涼し気な横顔で空を見上げていた。相変わらず灰色の雲に覆われた空も、どこか泣き出しそうだ。
「あの人のどこが良かったの?」
風が、段の入った短い黒髪を揺らす。それを邪魔そうに耳にかけ、こちらを振り返る理佐はA級上位で、はっきりものを言って、きっと上層部からも一目置かれていて。そんな彼女に私の気持ちは分からないだろう。
「分かんない。なんで好きだったんだろうね?」
「私に聞かないでよ」
ほんの少し、理佐の表情が柔らかくなったような気がした。
「多分、恋に恋してただけだと思うの」
「恋に恋する乙女的な?」
「そう。大人っぽいところとか、仕事ができるところとか。憧れや尊敬を、心のどこかで恋とすり替えて楽しんでたんだよ、きっと」
「本当に?」
「だって真面目に考えて、向こうは三十三だよ? 私のことなんて見向きもしないに決まってるじゃない。でもね、優しかったの。十六の子ども相手にも、ちゃんと対等に対応してくれたのが」
「やっぱり好きなんじゃん」
「……忘れたくないんだと思う。だって私が忘れたら、この感情もなかったことになってしまうから」
思わず出た本音に、もう後がないと思う。言ってしまった手前もう手遅れだから、声を絞って言葉を続ける。
「私がもしもこの感情を忘れたら、それを知る人はいなくなる。でもそうしたら、この恋は元からなかったのと同じになりそうで」
ずっと抱えていた、誰にも言えない恋。それをぽつぽつと話す私。淡々と聞く理佐が、今はありがたかった。この人となら、この恋に別れを告げられるかもしれない。
「……って、ごめんね。理佐ならずばっと言ってくれるんじゃないかと思って、弱い部分も吐いちゃった」
えへへ、と笑いながら理佐の肩に頭を預ける。今の私になら、からかいながら厳しい言葉をくれると思ったから。
「別に弱くなんてないと思うけど」
降ってきたのは、期待に反して、優しい声だった。
「あんた、強いよ。一人で抱え込んで、それが叶わなくてもここまで来たんだから」
「そうかな」
「だから私が忘れないでいてあげる。あんたのこと、よく知ってるんだから」
本当に?――と聞きそうになるすんでのところで、口をつむぐ。その時の口角の上がり方が、子どもを試すあの人と似ているような気がしたから。
「ありがとう。私、忘れられるかな」
「ほら、ちゃんとして。これ以上もたれられたらコーヒー零すよ」
言われて、背中をとんと押される。祈るようにさよならとつぶやくと、ほんの少し心が軽くなる。空高く、日の光が差す。任務を終えた隊員たちがぞろぞろと歩いている。
「あーあ! 終わっちゃった、私の恋。今度こそ、ちゃんとした恋がしたい。二度と会えない恋も、恋に恋するのも、もううんざり!」
胸のつかえが取れたのか、少し暖かくなった風に言葉を乗せる。私たちの生活が一変してから数年。まともな恋すらさせてくれないなんて、この世界はどうかしてる。理不尽な感情に雁字搦めになっている自分に、やっぱり泣けてくる。
「あんたの言うちゃんとした恋って、どんな恋?」
先ほどよりも優しい指先が、私の頬を拭う。理佐の表情がよく見えないのは、きっと涙でできた膜のせい。
「好きな人と、ずっと一緒に居られる恋」
そう言って、目の前にいる彼女を見つめる。視界のピントが、彼女を捉える。
「じゃあ私となら、どうなの」
はっと、時が止まる。彼女の周りが一瞬にしてモノクロになる。
学校も同じだし、オペレーターだから死ぬこともない。それに同い年。一緒に居るメリットも添えられた言葉は、確実に私に向けられたものだ。
どう受け止めるべきか。
どう言うべきなのか。
黙りこくって視線を落とすと、紙コップが私を見つめている。既に冷めきった、ほぼ手つかずのコーヒーが映す彼女の表情に、思わずどきりとした。
歪で、苦しそうな。そんな表情。叶わない恋を自覚し、それでもその道を進むと決めたあの朝の、鏡に映る私とそっくりだった。
「なんてね。冗談に決まってるじゃない。風邪引くから戻るよ」
顔を上げると、理佐はいつもの調子で言った。
どうしてそんな、苦しい顔をしたの?
言いたいことは言い切ったはずなのに、その一言だけが重くのしかかる。結局言い出せないまま、先行く彼女の背中を見つめていた。