断片:パンドラの箱


「同じクラスの幸薄そうな女」——彼女への第一印象は、今思えばかなり酷いものだったと思う。

まるでこの世の不幸を一身に引き受けていますと言わんばかりの顔つきで、ぼんやりしているか、本を読んでいることが多いようなやつ。

交友関係は広くないようだった。仲の良い友人は何人かいたようだったが。

「角名くん、あんまり蔑むような目で見られてると流石に傷つくよ」

同じクラスのよく知らない彼女が隣人になったのは、二年の夏の初めのことだった。

「え?……そんな目で見てないけど」
「見てたね。この女不幸そうな顔してるって」

緩やかに口角を上げて笑った隣の席の彼女の、薄く細められた隙間の太陽光に透かされた、薄い琥珀色の双眸の虹彩がきらりと光ったのを見て、俺は何か、何かに頭を撃ち抜かれたような、そんな心地に陥れられた。
最悪だ。

俺の人生という名の線路の、ポイント分岐が彼女の手で強制的に切り替えられてしまったのは多分この瞬間だったのだろうと、今でもそう思う。

「角名くん、昼休みにこんなところに来るなんて随分暇なんだねえ」
「暇じゃない。忙しい」
「そんなじっと見られてると気が散るんだけど?」

目の前で読書に勤しむ彼女が、伏目がちにその睫毛が影を落とすと、その目は鳶色に変化した。
万華鏡のように、角度によって瞳の色はころころと変幻しては、一つとして同じ色はないように思えた。
つかず離れず。あの時の俺たちの関係に名前をつけるとすれば、それが最も相応しかった。

「最近あいつと仲ええやんか」

ある日の自主練中、治がそんなことを尋ねてきたことがあった。

「あいつ?」
「お前の隣の席の図書委員……名前なんやっけ」

治はうーん、と首を傾げている。
クラス内では名前すら覚えられていないような、他人にとってはそんな存在感の彼女。

「ああ、なんか面白いんだよね、あの子」

それを知るのは、俺だけでいいような気がした。


考えてみれば、彼女にそれなりに好意を持っていたのだろう。けれどアオハルという思春期特有の羞恥心とかそういうものに足を引っ張られて、結局のところそれ以上お互いの関係は進展せず、三年生へ進級したところで、受験組の彼女は勉強で忙しくなり俺は俺で部活動に打ち込んでいたから、次第に疎遠になった。

再び彼女と相見えたのは、卒業からさらに五年後——同窓会でのことだった。

「お、久しぶりー!静岡からわざわざ来たんかー」
「まあね。久々に集まるしホテル押さえて来たよ」

本当は、来るつもりはなかった。夜間はチームでの練習もあったし今月はリーグ戦も控えている。けれど同窓会が呼びかけられたクラスのLINEグループの参加投票の中に、「参加」としてあの子の名前が連なっているのが目に入った。気がつけば咄嗟に居酒屋のある繁華街の駅前のビジネスホテルのサイトを開いて、予約を終えていた。

どこか、まだ心のどこかでは、彼女の動向が気になっていたのかもしれなかった。

「角名くんってバレーボールのプロ選手なの!?」
「一応肩書きはね」

結局、クラスの三分の二くらいの人間が居酒屋には集まっていたようだった。最初に目の前に置かれたビールを煽って、名前も思い出せない元同級生の話に適当に相槌を打つ。

「治」
「角名やん。今日来おへんと思っとった」

隙を見て卓を抜け、見知った顔のいるところへ体を滑り込ませた。

「片方の顔は試合で見飽きてるから、たまにはもう片方の顔でも拝んでおこうかなって」
「よう言うわ。どうせ目的は別やろ」

治は浅く笑って、俺の脇腹を肘で突いた。
もうこの男に企みは筒抜けらしい。どうせ誤魔化したところで意味もない。元より治は高校時代のアレコレについては知られている。

「分かってるなら話は早いよ」

んで、あの子来てんの。来とるで、あそこや。
治の指差した斜め前のテーブルには、確かにあの子がかつて仲の良かったクラスメイトと談笑をしている姿があった。

けれど、その様子はどこか昔のものとは違った。
あろうことか、その目はすり硝子のように曇り、何の光も反射しない黒々したものへと変貌を遂げていた。

無理やり貼り付けたような笑顔を浮かべて、ただ空虚に話を聞くフリをしているだけ。あの頃の面影はとうに消え失せていた。

「……なんか、雰囲気変わった?」
「卒業してからしばらくはこっちおったんやけど、なんか付き合った男についてって、そっから音沙汰あらへんかったからよう知らんねん」

多分みんな何があったかは知らんと思うで。
そう、とだけ答えて、視線を彼女の座るテーブルに戻す。何が彼女の目を変えてしまったのだろうか。年月か、あるいは——
どうしても気になって、彼女が席を立ったのを見計らって、俺も後を追った。

「久しぶり」
「あ、角名くん……久しぶりだね」

トイレから出て来たところを捕まえて、俺から声をかけた。少し細くなって骨の角が出た手足。真夏なのに、薄手の長袖シャツを袖口をきっちり閉めて纏っていた。
だいぶ酔いが回っているのか、呼びかけられた彼女へらりと曖昧な笑みを浮かべる。

「なんかプロになったんでしょ?有名なんだってね」
〇〇ちゃんに聞いたよ。すごいね。
その言葉に、中身はない。空薬莢と化した言葉の羅列を俺は押しのけて、どうにか彼女に彼女自身の話をさせようとした。
 
「俺の話はいいよ。最近どうなの」
「全然比べものにならないよ。悪いことばっか続いてて」

恥ずかしいからあんまり訊かないでほしいかも、と彼女はうなじを少し掻いて、目線を床に落とした。

「……実は今家も仕事もなくてさ」
そして彼女はとんでもないことを次々に口にした。
「え?どういうこと?」
「会社は派遣切りでクビになって、おまけに彼氏?元彼?にフラれちゃって。……一緒に住んでて名義は向こうだからさ。追い出されちゃったよ。その勢いで今日飲み会来ちゃったからさ」

ほんと昨日の今日なんだ、ツイてないよね。もう帰るとこないし。
あはは、と虚しく笑う彼女は、油の切れた発条の玩具のようだった。ずっと空回りして、今にも折れそうな。

「だから、今日来て高校の時角名くんを好きだったこと思い出して……なんかあの頃に戻れたら、今はもっと違うのかなって……」

ぽつりぽつりと口から紡がれた言葉に、急速に心拍数が上がっていくのが耳の裏で分かった。

声が上擦らないように、俺はゆっくりと問うた。
「……じゃあ、今からやり直してみる?」

はっ、と顔を上げた彼女の目が、一瞬だけ乱反射して光を跳ね返したように見えた。

それから酔いで少し赤らんだ顔がさらに真っ赤になって、それから、
「…………なんか、それでもいいかも」
耳朶まで林檎のような様相で、俯いた彼女は小さく頷いた。


「おー、抜け駆けかい」
「ごめん、なんかあの子結構酔っ払ってるみたいだから駅まで俺が送っとくよ」


嘘八百を並べ立てて、二人分の荷物を引っ掴んで店を出た。逃すまいとその手を掴んで、まだ賑わいの残る繁華街をすり抜けるように早足で歩いた。

「角名くんは彼女いないのー?」

こんなことしていいの?と後ろからふにゃふにゃした柔らかい笑い声がする。

「いないからいい」
「昔から女に興味なさそうだって定評があったもんね」
「ないよそんな評価」

近くのコンビニで酒缶を適当にカゴに放って、予約していたビジネスホテルに駆け込んだ。

「あ、すみません。一人分予約増やしてください。……ツインじゃなくてダブルでいいです」

それから彼女は部屋に入るなり500ml缶のチューハイを瞬く間に空にし、早々に潰れた。俺はちまちまと缶ビールを嚥下する。

「もー……人生どうでもいいー……」
「ヤケ酒にしたってペース早くない?」

なんかもうそういう雰囲気じゃなさそうだけど、まあいいか。

ふらふらと千鳥足でベッドに向かう彼女の肩を捕まえて、ゆっくりと寝かせる。

からだあついよー、とまるで子供のようにベッドの上を転がって、その頬は上気して汗ばんでいるようだった。額に髪が張り付いている。

「何で長袖なんか着てんの?」
「はずかしいから」
「意味分からないんだけど」

とりあえず下はタンクトップ着てるみたいだしシャツは脱がすよ。そう告げて、完全に脱力してしまった彼女のシャツのボタンを一つ一つ外した。

「腕上げて」

腕を取って袖からシャツを脱がせようとした時、右腕の二の腕の内側が不意に目に入った。
赤黒い、楕円形の痣のあと。
普通こんなところに、ぶつけてできるようなものではない。

嫌な予感がした。
脳裏に、先ほどまで治が話していたことが過ぎる。
『多分みんなあいつに何があったかは知らんと思うで』
治は一通りそう述べたあと、『あ』と何か思い出したように声を上げた。
『誰から聞いたかは覚えとらんけど……アレや、その付き合うとる男が、随分悪い奴らしいで』

「……は、」
「恥ずかしいから見ないでって言ったじゃん……」
「ごめん、やっぱりちょっと見せて」

ぐいぐいと力ない抵抗で押し返されるのを力で押し返す。もう少し紳士的にしようと思っていたのに、全く以ってそんな余裕はない。

まるで俺が襲ってるみたいだ、と脳内は嫌に冷静になってきている一方で、そんな可能性があるわけがないと希望的観測が綯い交ぜになってせめぎ合っている。

俺は彼女が下に着ていたタンクトップの裾を、捲った。
……言うまでもない惨状。彼女の素肌を見て、転んで怪我をしたのだろうと推測する人間はおそらくいないだろう。

冷や水を頭から浴びせられたような、そんな感覚で一気に酔いが吹っ飛ぶ。
誰がこうしたのか、などと野暮な質問をするつもりは毛頭なかった。

「ちが、わたしが悪いせいだから、見ないで……!」

ぐっとタンクトップの裾を引っ張って、彼女はその傷を必死に俺から隠そうとした。

「どんだけ悪くても暴力は普通にダメでしょ」
そう言えば、
「角名くんにだけは、こんなの見られたくなかった……」

顔を手で覆い、その隙間から嗚咽を漏らした。重い沈黙が、部屋の中を漂うばかりになった。

庇護欲なのか支配欲なのか、はたまた独占欲なのか。得体の知れないナニカが俺の喉から食指を伸ばしている。

「……俺はそこらの会社員より多分稼いでるし、家も広いし、人間一人くらいは普通に養えるよ」

それを破るために口を突いて出た言葉は、励ましにもならないセールストークだった。

ああ、この女は必ず俺が救わなくては・・・・・・・・・・・・・・
「……だからさ、次は俺に依存しなよ」