二・飽食
屋敷に着くと、割烹着姿の年端も行かぬ少女が玄関先で出迎えた。少女は自分はこの家の小間使いだと言い、もう既に食事は用意はできているからと半ば強引に私から荷物を受け取り、板張りの長い廊下の先の客間へと案内した。
十畳ほどある畳敷きの客間は一人で過ごすには十分すぎる広さだった。少し薄暗い室内の隅には、行燈がいくつか置かれていて、障子紙の向こうを薄ぼんやりと透かしている。
着いてすぐ、あれよあれよと言う間に私の前の膳には豪勢な夕食が並べられた。
山菜の天ぷら、猪肉の牡丹鍋、炊き込みご飯……。山ならではの料理が湯気を立てて顔を揃えている。
「お客さんなんていつぶりやろ! 張り切って作ったからたくさん食べてなあ」
少女はえくぼを頬に浮かべてそう言った。十五、六であろうこの少女が小間使いをしている理由も、学校に如何様にして通っているのかなど聞いてみたいことはたくさんあったが、それを尋ねるのは不躾な気がして、私は口を閉ざすことを選んだ。
「あの、」
「はい? なんでしょう」
「この食事、私一人で……?」
目の前の食事は、どう考えても一人前の量ではない。けれども、誰かが襖を開けてやってくる気配もなく、部屋に置かれた膳は一つだけ。
「そうですけど……何か心配事でも?」
「心配というか、一人で全部食べられないと思うんですが」
そう言って私が一緒に食べてくれないかと勧めると、小間使いの少女はぶんぶんと首を振って「滅相もない!」と血相を変えた。
「ウケモチさまのためのご飯をうち如きが口にするなんて恐れ多いですから!」
「……そういうものなんですか?」
「そうなんです!これはウケモチさまの御使いのご飯やから、一人で食べなあかんのです……大丈夫です、残してもろても。そないな決まりになっとりますから……」
必死に決まりだからと繰り返し告げ、少女は食べられないと拒否する。
それなら仕方ないと箸をつけ始めたが、横でじっと見られていては落ち着かない。葉物の味噌汁を啜りながら、誰かと食事など久しく食べていないことを思い出した。
正直なところ、料理はどれも最上級の手間暇をかけられていることは一目で分かった。山の幸を並べて神の使いを歓迎する。
……道理には適っている、が。
歓迎という割には、この屋敷に来てからこの小間使い以外の人間とすれ違うことはなく、気味の悪いほど静まり返っている。遠くから微かに蛙と鈴虫の鳴く声だけが聞こえてくるのみで、人の床板を踏む軋んだ音、息遣いや囁き声すら耳に届かない。
しかしここで気にしても仕方ないだろう。今日偶然家の者は皆出払っているだけかもしれないのだから。
元々食が細いせいか、用意された料理の三分の一を食べられたかどうかというところで腹が限界を告げた。
「これ下げたらお布団の用意しますから、先にお風呂に入ってもろて……湯はもう張ってありますから、ちょうどええ湯加減になっとるはずです」
そう言うなり風呂桶と手ぬぐいを渡されて早々に客間を追い出され、私は一人静寂に包まれた廊下に足を踏み出した。
鈴が鳴る音が聞こえて、私は背後を振り返った。夏とは思えないほどひんやりと涼しさが感じられる廊下には虫一匹いない。その無機質さが、殊更奇妙に感じてならない。
神楽鈴の音は、どこからか私を手招きするように鳴り響く。
……音の聞こえる間隔が、この村に来てから徐々に短くなってきていた。数日おきだったものが数時間おきにまで縮まってきている。
なぜ私にだけ聞こえるのか。それは私が神の使いたるマレビトとして呼ばれたからなのか。
ただの祭り。形だけの儀式。
ただそれだけ、それだけのはずなのに。
ぞわぞわと薄寒いものが首の後ろを撫でたような気がして、私は足早に廊下を抜けた。
妙な胸騒ぎだけが、しこりのように残り続けている。
風呂から戻ると、客間には布団が三組敷かれていた。
「おかえりなさい! こっちで寝てください」
私の戻りを正座で待っていた小間使いは、そう言って真ん中の布団で寝るように促した。
「なぜ三組敷かれてるんですか?」
「ウケモチさまは一対の狐の姿をしてて、時々寝ている時にマレビトの前に現れることがあるらしいんです。御使いであるマレビトを品定めするとも、興味があって覗きに来るとも言われとるんですけどね……」
ウケモチさまとやらは二体の狐で一柱の神ということらしい。稲荷大神も五柱の神が合わさって生まれた複合神だから、違和感は感じないのだが。
寝所に品定めに来るなんてまるで夜這いのようで落ち着かないが、本当に現れるわけはないのだし、形式的なものだろう。そう考えて私は布団の中に潜り込んだ。
「長旅でお疲れやと思いますんで、今日はもうお休みください。儀式の話はまた明日の朝お話ししますんで……」
小間使いはそう言って行燈の明かりを消そうとした。私はそれを手で制して止めた。
「申し訳ないんですけど、点けたままにできませんか」
彼女はきょとんとした顔つきで私の顔を伺い見た。
「……できますけど、暗なくて平気ですか?」
「明るくないとうまく眠れないんです」
暗所恐怖症。
私は普通の人よりも暗闇が怖いたちで、光源のない部屋がとても苦手だった。
寝る時も必ず間接照明を点けて寝るし、暗い部屋に入る時は必ず先に明かりのスイッチを入れる。
この見知らぬ土地で暗がりの中眠るのはかなりの抵抗があった。想像するだけでも冷や汗が出る。
「分かりました。油が切れると火が消えてまうんで、寝てる途中に暗なってまうと思うんです」
「寝るまでに明るければ最悪大丈夫ですから」
「ほんなら目一杯継ぎ足してしばらく保つようにします」
油を持ってきますから、と小間使いが客間を出て行った。この村はまるで江戸時代に逆戻りしているみたいだ、と行燈を揺らす中の炎を見つめて思った。確かに外も暗く街灯もなかったが、電気すら通っていないとは。下手をしたら水道なぞもなくて、井戸水を汲んでいるのかもしれない。時代錯誤的にも程があるだろう。
寝返りを打っていると、旅の疲れからかすぐに睡魔が現れる。
遠のく意識の中で、誰かが私のそばにするりと潜り込んできたような感覚がした。
*
翌朝、外から差し込む光で目が覚めた。夏の朝は早い。鳥の甲高い鳴き声が響いている。
「おはようございます! 朝ごはんの用意しますね!」
布団から這い出してぼーっとしているうちに、目の前にまた昨夜のような贅沢な食事が並べられた。鯵の開きにほうれん草のおひたし。こんな山奥で魚が食べられるのかと驚いたが、味醂干しのものを時折村の外に出た村人が買って帰るのだと言う。だがそう何回も外に出て買えるものではなく、この村で魚は高級品の一つになっているらしい。
「明後日参加してもらう儀式のことなんですけど」
食事を終えて少ししてから、小間使いはそう切り出した。
「うちの村では儀式の時は嫁入り行列を模して、頂上にある本殿に向かうんです」
せやからマレビトは女性やないとあかんのです。彼女はそう言った。
「当日の朝は装束に着替えてもろて、本殿で鈴を鳴らしながら祝詞を唱えて終わりです」
祝詞も簡単なものだからすぐに覚えられるし何も不安に思うことはない、と小間使いは取りなした。
それで、これからのことなんですけど。そして言いにくそうに私の顔を見た。
「儀式の朝が来るまで、村の衆とは顔を合わせんといてください。不自由させますけど、決まりなもんですから……」
私は肩を落とした。来たからには滅多にお目にかかることのない限界集落の生活ぶりを見て回りたいと思っていたので、やることがなくなってしまった。しかしそういった手順を踏んで進めていかないと儀式がうまくいかないと言われてしまえば、従うほかあるまい。
それにしたって“決まりごと”が多すぎやしないか。小間使いの少女にそう尋ねようとしたが、このうら若い女とて詳しくは知らないのだろうと思ってやめた。
決まりと言われれば唯唯諾諾と従うしかないのは、私も彼女も同じなのかもしれない。