「京の女というものは、何をすれば喜ぶんじゃ?」
「…………え?」


ぽかんとした顔の姫君を、男は至極真剣な顔をして見つめた。














「きゃあっ!!」


それは、美しい音を鳴らす鈴が、力任せに振り回されたかのような悲鳴であった。
三日月の輝く夜のこと。静かな空を引き裂くように上がった悲鳴は、京のとある武家屋敷からのものだった。
重厚な門構えの奥の、そのまた奥に位置する部屋。主人の部屋に続いて守りの堅いそこにいたのは、部屋の主の姫君、だけではなく。


「く、曲者っ!!」


彼女を壁に追いつめるように立ちはだかるは、金髪に金の瞳という、およそ人間らしくない色彩を持った男だった。
気丈にも刀を構える姫君に対し、男は愉快そうに口元を歪める。整った顔に浮かべられた笑みは、けれど男の容姿も相まってか、一層彼を怪しげに見せるだけで。


「――珱姫か。成る程、京一の美姫というのは嘘じゃあないらしい」
「……っ!!」


低く色気のある声色で紡がれた自身の名に、姫君――珱姫はきっと男を睨んだ。
今の今までそこにはいなかったはずの存在。怪しげな雰囲気。人とは思えないようなその気配。
珱姫は妖怪には詳しくなく、自分を襲ってきた者を一度見たことがあるだけ。それでも彼女は一瞬にして、男がその妖怪であると分かった。
ねえさま、と震える唇が声にならない声を漏らす。しかし珱姫が助けを求めて呼ぶその声に、答える者はここにはいない。
チャキ、と薄く開かれた刀が月明かりを反射し、きらりと光る。その様子を見て、男はふっと鼻を鳴らした。


「止めておけ。アンタにそれは扱えん」
「な、」
「刀なんぞ使ったこともないじゃろう? 見りゃ分かる。下手すりゃ怪我すんのはアンタ自身じゃぞ」
「え……っ」


恐れるような色が瞳に映り、刀を持つ手が怖じ気づいた様に強張る。
それを見やってから、男は「まあ、」と姫君を追いやっていた体制を解いた。
自分の上から退く影に、珱姫が訝しげに眉を顰める。
向けられるその視線には構わず、男は珱姫から少しだけ距離を取って座りこむ。
そしてくるりと振り返ると、毛を逆立てる猫のような顔をする姫君に、くいと指で近付くよう示した。


「今日は何も悪さをするつもりで来たんじゃねえ。アンタに聞きたい事があったのさ」
「……聞きたい事?」
「ああ」


にやりと笑む男に、珱姫が不安そうな顔つきになる。
珱姫は武家屋敷の姫君だ。けれどしていることと言えば、父親が連れて来た病人や怪我人を神通力によって癒やすことだけ。
他に稼業や花嫁修業なんて一切していない。ちょっとでも他のことをすれば、父親から危ないことはお止めと止められるためだ。
それ以外に知っていること、と言えば……。珱姫の視線が、そっと刀に向けられた。

普段珱姫の周りにいるのは、父親、患者、そして花開院家の者達だ。
父が護衛で雇った陰陽師達。名も知らない彼等や、是光。そして珱姫にとって誰より大切な、姉のような存在――花開院椿。
椿姫と呼ばれる彼女もまた、珱姫同様不思議な力を持っていた。
けれど彼女は珱姫のように護衛がいるわけではない。
彼女の弱みなんて聞かれたらどうしよう、そんな事言えるわけがない。でも自分にこの妖怪を追い払えるだけの力があるかと言えば……。
ぐるぐると珱姫の頭の中を後ろ向きな考えが巡る。けれどそれを口に出す前に、男が先に口を開いた。


「京の女というものは、何をすれば喜ぶんじゃ?」
「…………え?」


そして冒頭に戻る、という訳で。

思いも寄らなかった言葉に、珱姫はぽかんとした顔で男を見つめた。
珱姫のその視線に、男もきょとんとして見つめ返す。
何か変な事を言っただろうかと言いたげな男に、珱姫は口をもごもごと動かし、けれど何も言えずに困った顔をした。




男はぬらりひょんと名乗った。
珱姫は妖怪には詳しくないので分からなかったけれど、話を聞いていくとどうやら男は妖怪だったらしい。
やっぱり、と思った。珱姫の家を警護してくれている是光という陰陽師から聞く妖怪と、男の雰囲気があまりにも似通っていたからだ。
――怪しげで恐ろしく、けれど何処か此方を圧倒させるような強さがある存在。
ぬらりひょんは正にその典型だった。成る程これが妖怪かと、疑いようもなく思えるような存在。

だからこそ、珱姫はぬらりひょんの口から出た言葉が信じられなかったのである。
何も返せずに困った顔をして、そうして珱姫は首を傾げた。


「えっと……いくつか、お伺いしてもよろしいですか?」
「ん? おう。構わんぜ」
「女を喜ばせる方法と言うのはつまり、相手と想いを通わせるための、と言うことでしょうか。それから……そもそも何故私にお聞きになるのですか?」
「んー……」


ぬらりひょんはよいしょと胡座をかいて座った。長くなりそうだと、寛げる体勢を取ったのだ。
珱姫はその妖怪の、妖怪らしくない仕草に少し戸惑ったけれど、彼女は育ちが良いので特別相手の態度に何か言うことはしなかった。


「一つ目の問に関しては、その通りじゃ。京の女に興味が沸いたんじゃが、生憎こっちの女は相手にしたことがなくてな」
「は、はあ……」
「二つ目は、そうじゃな。アンタ、京一の美姫と呼ばれておるじゃろ。それなら色んな男から求婚やら何やらされておるじゃろうし、男と女の惚れた腫れたには詳しいかと思ってな」
「…………」


ぴっと指で指されながら言われ、珱姫は更に困った顔をした。
それなら私よりもっといい人がいますよ、と言おうと思って口を閉じる。
彼女の脳裏に浮かんでいたのは椿姫のことだった。天下一の美姫という名が、滅多に外出しない珱姫の所まで届いてくるのだから、その評判はもはや京のみに留まってはいないのだろう。
けれど態々彼女の元に妖怪という存在を向かわせることもあるまい。椿姫は確かに陰陽師の一族ではあるけれど、でも珱姫同様姫君なのだから。
彼女に相談するのは、もっと困ったことが起きた時でいい。珱姫はそう結論づけて、静かにぬらりひょんを見据えた。


「私は、男性から想いを向けられたことはございません」
「……は? 何の冗談じゃ?」
「本当でございます。……その、姉様が仰るには、父上のところで全て止められているのだろうと。……過保護なものですから」
「……ふうん? 過保護、ねえ」


品定めするような視線を向けられ、居心地悪く思いつつも、珱姫は視線を逸らさない。
妖怪と会ったらおそれてはいけない。おそれを表に出してはいけない。
そう、椿姫から言われたことを思いだしたからだ。


「それから、京の女性に興味が沸かれたとのことですが。……お相手は、人間ですか?」
「ん? おう」
「失礼を承知で申し上げますが、……もしや、そのお方に上手く取り入って、生き肝を食べようなどとお考えでは、」
「んなわけあるかい」


ぬらりひょんが眉を顰めて即座に切り捨てる。その返答に、珱姫はほっと息をついた。
嘘をつかれている可能性もなくはない。けれど、あまりにばっさりとした答えだったから、その可能性は薄いだろうと踏んだのだ。


「まあ巷にゃ、そんな奴らもいるにはいるがな。ワシは生き肝信仰の妖怪じゃねえよ」
「……そう、なのですか」
「おう。知らんのも無理はねえが、何も全部が全部生き肝信仰ってわけじゃねえ。ワシみたいなのもいるのさ、京では少ねえかもしれんがな」
「はあ……」


こっくりと頷く。よかった、と思った。
もし何も知らずにあれこれ教えていて、その裏で人の命が奪われているとでもなったら大変だ。
あくまで女性を振り向かせる方法を知りたいだけらしいその妖怪に、珱姫はそれならと頭を回した。


「そうですね……。では伝え聞いた話にはなりますが、いくつか女性が喜ぶ方法をお教え致します」
「ああ、頼んだ」
「女性が喜ぶ、と言えばやはり、贈り物ではないでしょうか。世の男性が女性を振り向かせる、喜ばせるのに使われている、最も一般的な方法かと存じます」
「贈り物か……」


珱姫の元にも、そして他の姫君達の元にも、贈り物をしたという男性の話は聞いたことがある。
残念ながら珱姫自身は受け取ったことがないので、その真相は定かではないが。何度も聞く話ならば信憑性は高いだろうと思ったのだ。


「京の女が喜ぶのは何じゃ?」
「京の女性も、他の場所の女性も、おそらくはそう代わりはないと思います。化粧道具や簪、帯や着物など、身を飾るものを喜ぶのではないでしょうか」
「ふむ」


指を立てて数え上げるように贈り物を挙げていけば、ぬらりひょんは成る程と頷いた。
なら当たりが付けられそうじゃというぬらりひょんに、珱姫は思い当たった懸念事項を述べる。


「……ただその、妖怪向けの店というのは、人間向けの店とは異なった趣向のものを置いているかも知れませんので、そこは確認なさった方がいいかと」
「つーことは、人間向けの店で買った方がいいってことか」
「はい、できれば。後は、そうですね。どの女性にも好みというものがございますから、その方がどんなものを喜ばれるのかについては、予め調べておいて下さい」
「ああ、そうじゃったな」


女は好みに五月蠅い。表面上だけでなく内面まで喜ばせようとなれば尚更だ。
けれどその点については、ぬらりひょんも分かっているようで、確かにと呟いている。
色男と呼んで差し支えない彼だ、恋愛経験の一つや二つあってもなんら不思議ではない。その辺は彼自身の感覚に任せるべきだろうと、珱姫は結論づけた。


「それからもう一つ。……その、これは私の主観が入ってしまうかもしれないのですが」
「構わんぜ。アンタの意見を聞きに来たんじゃからな」
「では……、妖様の興味のある女性がどの立場かにもよるのですが、普段あまり行けない場所、見られない光景などを見せて差し上げると、喜ぶかも知れません」


それは、珱姫にとって紛れもない本心であり、かつ彼女が心の奥底で一番望んでいることだった。
珱姫は家から出られない。父親や陰陽師達に迷惑を掛けてしまうからだ。
彼女がもし妖怪に襲われて命を落とせば、彼等にとってどれほどの影響があるか、考えるまでもない。
自由に出かけるとなると、今の京では陰陽師の護衛も不可欠だ。けれどそうまでして出かけたいとは、珱姫は考えない。
心優しい姫君は、自身の行動で他者が苦労するのを嫌うから。だから心の中で、こっそり思うだけに止めておくのだ。


「……行けない場所、か」
「はい。……是非、連れて行ってくださいませ」


まるで願うように、珱姫はそう呟いた。
もし彼の思い人が、自分と同じように囲われた立場だったらと、そう思いを馳せて。


「……分かったよ。ありがとな、珱姫」
「いえ。……お役に立てることを、願っております。妖様」


すっくと立ち上がって笑うぬらりひょんに、珱姫はそう美しい笑みを返した。
京一の美姫と謳われる、美しい微笑みを。


「じゃ、そろそろ帰るとするか。あんまり長居すると、アンタのとこの陰陽師達がやってきそうじゃしのう」
「え、」
「ん?」
「い、いえ。……そうですね。気を付けてお帰り下さいませ」


ぬらりひょんの言葉に、珱姫は胸に寂しさが過ぎったのを感じた。
久し振りの来客。しかも自分と話すことを目的に。
ずっと家の中に閉じ込められている自分にとって、それがどれほど嬉しいことか。
父親を恨む気は決してないけれど、でも。……もう少しだけ、楽しい時間を続けたかったと。
そう思う気持ちに蓋をして、珱姫はにっこりと微笑んだ。

……けれど、


「……お、そうじゃ」
「はい? どうかされましたか?」
「アンタにも礼をせねばな。近いうち、ワシの仲間のとこに連れてってやるよ」
「…………はい?」
「『ここは息が詰まる』んだろ? なあに、ワシに取っちゃ簡単なことさ、任せとけ」


それは、ぬらりひょんが現れるその直前に、珱姫が呟いていた言葉。
聞かれていたのかと、珱姫は咄嗟に口を押さえる。けれど今となっては何の意味もなく。
「じゃあな」と消えるように去って行ったぬらりひょんの姿を確認した後、珱姫はゆっくりと息をついた。

自分にはまだ妖怪の相手は難しいと苦笑して。

そして、彼の思い人が、彼に振り向いてくれることを願って。



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